ザウバー

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テンプレート:F1コンストラクター ザウバーSauber )は、スイスヒンウィルに本拠地を置くレーシングチーム。F1に参戦中のコンストラクターとしては4番目に古い歴史を持つ(2012年時点[1])。チームオーナーはペーター・ザウバー、チーム代表は女性のモニシャ・カルテンボーン

F1参戦以前、日本のモータースポーツメディアでは「ソーバー」と表記されていた。

概要

モータースポーツが禁止されているスイスでは数少ないレーシングチーム。モータースポーツ産業の盛んなイギリスを中心に活動するチームが多い中で、創設者の地元であるスイスに拠点を構えて活動を続けている。1993年のF1参戦以来、F1コンストラクターズ選手権の最高成績は4位(テンプレート:F1)であり、独立系の中堅チームとして定着している。

ザウバーの歴史は、資本力をもつ大手自動車メーカーとのパートナーシップの歴史でもある。耐久レース時代はメルセデスワークスとしてスポーツカー世界選手権を制覇。F1ではメルセデスとの関係解消後、フェラーリからカスタマーエンジン供給を受け、ジュニアチーム的存在であった。2006年にはBMWにチームを売却し、BMWザウバーとして参戦。BMW撤退後は2010年よりプライベーターに戻り、再びフェラーリエンジンを搭載している。

経営面においてもレッドブルペトロナステルメックスといった国際的企業をスポンサーとして手堅いチーム運営を行ってきた。マシン開発やレース戦術においてもコンサバティブな傾向を持つが、ドライバーに関しては実績の少ない新人を起用して成功を収めている。

また、F1だけでなく、スイスF3用の車両も製作している。

耐久レースでの活躍

チーム創設

1955年のル・マン24時間レースにおいて発生した大惨事の影響でスイス国内における国際モータースポーツ競技が禁止されていたため、参戦までには多くの障害があった。

1970年、アマチュアレーサーだったペーター・ザウバーヒルクライムに参戦するため、自宅の地下室でザウバー・C1を製作。ヒンウィルにガレージを開設し、正式にチーム活動を開始した。

1973年、ザウバーはドライバーを引退し、シャシーコンストラクターに専念する。ザウバーの活躍に目をつけた出資者から融資を得て、ザウバー・C3を3台製作。ギ・ボワザンによって設計されたこの車はスイスのスポーツカー選手権で活躍することになる。1974年、フリードリヒ・ヒュルツェラーがヒルクライムレースでC1を駆って優勝を果たした。

1975年には自社初のモノコックシャシーとなるザウバー・C4を製作。1976年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C5を製作し、同年のインターセリエでヘルベルト・ミューラー (Herbert Müller) がシリーズチャンピオンを獲得した。1977年にはル・マン24時間レースに初挑戦し、1978年にはル・マンで2リッタークラス2位を獲得した。

一時期スポーツカーレースから離れ、1979年にはローラF3用シャシーを製作し、同年のスイスF3選手権では1位(ビート・ブラッター)、2位、4位を占めるという成績を収めた。1980年から1981年にかけてはプロカー選手権 (BMW M1 Procar Championship) 用のBMW M1の開発に携わった。

1982年コスワースDFLエンジンを搭載するグループCマシン、ザウバー・SHC C6を製作し、GSスポーツとジョイントして世界耐久選手権に参戦。C6はチーム初の風洞施設による設計であり、テクニカルディレクターとしてレオ・レスが参画した。1983年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C7を製作した。

メルセデスとの提携

1985年ザウバー・C8の開発にあたり、メルセデス・ベンツから市販ベースのターボエンジンの供給を受けた。奇しくも先述の1955年のル・マンの大惨事によって30年間レースから遠ざかっていたメルセデスを、同事故によってレースから遠ざかっていたスイスのモータースポーツチームが呼び戻したことになる。デビュー戦のル・マン24時間レースでは予選中にユノディエール・ストレートでマシンが宙を舞い、決勝出走を断念した。

1986年、世界スポーツプロトタイプカー選手権にC8を本格投入し、第7戦ニュルブルクリンク1000kmにて初優勝を遂げた。

1987年、さらに進化したザウバー・C9を開発。1988年にはメルセデスが正式にモータースポーツに復帰することを発表し、チーム名を「チーム・ザウバーメルセデス」とした。これによりザウバーはワークス・チームとなり、選手権開幕戦より優勝を果たすなど11戦中5勝を挙げ、チームズランキング2位を獲得した。

1989年、C9は開幕戦鈴鹿で1-2フィニッシュを挙げ、世界三大レースの1つであるル・マン24時間レースにも優勝。同年の選手権8戦中7勝という圧倒的な強さを見せ、ドライバーズとチームズのダブルタイトルを制覇した。

1990年もメルセデスベンツ・C11を投入して9戦中8勝、ル・マン優勝こそジャガーXJR-12に譲ったものの、世界スポーツプロトタイプカー選手権連覇。また、前年のドイツF3選手権のランキング上位3名(カール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンミハエル・シューマッハ)を採用し、ヨッヘン・マスらベテランと組ませて交替で参戦させた。この「メルセデス・ジュニアチーム」はメルセデスのレースディレクターであるヨッヘン・ニアパッシュが計画したもので、若手ドライバーの起用に難色を示していたザウバーも彼らの才能を認めることになった[2]

1991年はエンジンレギュレーション変更に合わせNAエンジンのメルセデスベンツ・C291を投入したが、信頼性不足で1勝(ランキング3位)に終わり、この年を以って耐久レースでの活動を終了した。ペーター・ザウバーは「私はスポーツカーレースとともに生まれ、ともに死ぬことを望んでいた」「しかし、メルセデスがF1の計画を研究するよう言ってきたときには、ほかに方法がないのだと理解した」と語っている[3]

F1参戦

1990年代

1991年 - 1992年 参戦準備

ザウバーはF1転向に向けて準備を進め、ティレルからデザイナーのハーベイ・ポスルスウェイトを招いてニューマシンの設計を任せた。また、1991年シーズン中にはドライバー候補のヴェンドリガーとシューマッハを一足先にF1チームへと送り込んだ。

しかし、1991年11月28日にダイムラー・ベンツはF1へのワークス参戦を行わないと発表した。ザウバーは代わりに資金援助と技術支援を受け[3]、プライベートチームとして計画を続行することになる。ポスルスウェイトはザウバー・C12の基礎デザインを残してフェラーリへと移籍した。

1992年2月、ザウバーは1993年よりF1に参戦し、ヴェンドリンガーとシューマッハを起用することを発表した。シューマッハが所属するベネトンは1995年までの契約を主張し、交渉の結果、ザウバーはシューマッハの意思を尊重してJ.J.レートと契約した。

1992年9月にはC12のシェイクダウンを行い、オフシーズンテストではウィリアムズに次ぐタイムを記録した。エンジンはメルセデスが資本協力するイルモアエンジンを「ザウバーV10」として搭載。漆黒のマシンのエンジンカバーには"Concept by Mercedes-Benz"の文字が記され、グッドイヤータイヤの5チームの優遇枠(レース・テストを問わずタイヤの無償かつ無制限供給)に選ばれるなど、デビュー前からルーキーチームらしからぬ存在感を放った。

1993年 - 1994年 初参戦

ファイル:Sauber C12.JPG
参戦初年度のマシン「ザウバー・C12」。

1993年、デビュー戦の南アフリカGPではJ.J.レートが5位に入賞。シーズンを通してマシントラブルが多かったものの、決勝最高4位(2回)、合計12ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング6位という上々の成績を収めた。メルセデスの支援は同年末までとされていたが[3]、翌年以降も継続されることになる。

1994年、メルセデスはイルモアエンジンを正式に「メルセデスエンジン」と呼称して、F1(ザウバー)とCARTペンスキー)の両シリーズへ供給した。ザウバーはメインスポンサーとして「ライト・ハウス」と契約したが、約束の金額が振り込まれないトラブルが発生し、新たにスイスの時計メーカースウォッチ(ブランド名はティソ)がメインスポンサーとなった。ドライバーはレートに代わり、全日本F3000で活躍していた元ジュニアチームのハインツ=ハラルド・フレンツェンを起用した。

第4戦モナコGPで、エースドライバーのカール・ヴェンドリンガーがフリー走行中にクラッシュして瀕死の重傷を負った。チームはドライバーの頭部が剥き出し状態であったことが重傷を負った原因と判断し、空力効率よりもドライバーの安全を優先して、次戦よりザウバー・C13のコクピット側面にサイドプロテクターを装着した[4])。残りのシーズンは「壊し屋」の異名をもつアンドレア・デ・チェザリスを起用した。

メルセデスは2年間の結果をみて、翌年からエンジンの独占供給先を強豪チームのマクラーレンに変更すると決定し、長年のパートナーシップに終止符が打たれた。

1995年 - 1996年 フォードとの提携

1995年、ザウバーはベネトンに去られたフォードと契約し、ワークスのZETEC-Rエンジンの供給を受け、出直しを図った。また、オーストリアのドリンクメーカーであるレッドブルがチーム株式の一部を取得してメインスポンサーとなり、チーム名も「レッドブル・ザウバー」となった。第12戦イタリアGPではフレンツェンがチーム初となる3位表彰台を獲得したが、V10エンジン全盛期の時代にV8エンジンでは限界があった。

1996年はフォード初のV10エンジンを搭載し、レッドブルに加えてマレーシアの石油会社ペトロナスのスポンサーも獲得した。しかし、シーズン開幕前にフォードは翌1997年から参戦するスチュワート・レーシングへ独占供給を行うと発表し、ザウバーはまたしてもワークスエンジンを失うこととなった。フレンツェンはザウバーでの活躍が認められ、ウィリアムズへの移籍が決まった。

1997年 - 1999年 ペトロナス、フェラーリとの関係構築

1997年からはフェラーリの1年型落ちのカスタマーエンジンを獲得。スポンサーであるペトロナスのバッジネームを付けて、「ペトロナスエンジン」として使用することとなった。またホンダ、マクラーレン、フェラーリと渡り歩いた後藤治がエンジン担当としてフェラーリから派遣される形でチームに加入した。後藤は関連会社のザウバー・ベトロナス・エンジン (SPE) でオリジナルのエンジン製造計画に携わるが、この計画は幻に終わった。

1998年はベネトンからジャン・アレジが加入し、第10戦オーストリアグランプリ予選でチーム初のフロントロー(2位)を獲得した。

2000年代

2001 - 2005年 フェラーリのジュニアチーム化

2001年
この年は、プロストから移籍のニック・ハイドフェルドと、無名の新人キミ・ライコネンが起用された。ライコネンは、下位カテゴリでの経験がほとんどなかったことからスーパーライセンスが発給されず、4戦限定の仮ライセンスという形での参戦となった。当初、チームのタイトルスポンサーであるレッドブルが、配下の育成ドライバーであるエンリケ・ベルノルディを推薦したが、チーム代表のペーター・ザウバーはこれを拒否、前述のラインナップに決定した。なおこの一件によりレッドブルは2001年シーズンを以て保有するチームの株式を売却しタイトルスポンサーからも下り、同時にアロウズとスポンサー契約を締結しベルノルディを起用させている。
開幕戦にはハイドフェルド4位、ライコネン6位といきなりのダブル入賞、その後もハイドフェルドが第3戦ブラジルグランプリで自身初、チームとしても1998年以来となる表彰台を獲得、シーズン中に正式にスーパーライセンスが発給されたライコネンも着実に入賞を重ね、コンストラクターズランキングはF1参戦開始以来最上位の4位となり、躍進を果たした。これは、ジョーダン、BAR、ジャガー、プロスト、ベネトンといった自動車メーカー系チームを上回る大健闘であり、チームがBMWに買収される2005年までの最高成績となっている。
2002年
前年限りでマクラーレンに移籍したライコネンに代わり、前年ユーロF3000で8戦中6勝という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得したフェリペ・マッサを起用した。前年から継続起用のハイドフェルドとともにシーズンを戦った。シーズン前半はルノーと互角の争いをするなど健闘を見せるも、マシン開発が進まずシーズン後半は苦戦を強いられ、コンストラクターズランキングは5位と前年を下回る結果となった。
第13戦アメリカグランプリでは、前戦イタリアグランプリでマッサに下された翌戦での10グリッド降格ペナルティを回避するため、アロウズの撤退によりフリーとなっていたフレンツェンが一時的に起用されている。
この年起用されたマッサはフェラーリとの契約下にあったことを、後にマッサ自身が明らかにしている。ザウバー、フェラーリ両チームの間に直接的な資本関係があったわけではないが、この後、ザウバーは事実上フェラーリのジュニア・チームとしての性格が強まっていく。
2003年
フレンツェンがレギュラードライバーに復帰し、チーム3年目のハイドフェルドとドイツ人2人の布陣となる。この年はBAR、トヨタ、ジャガーといった中堅チームの成長が著しく、開幕3戦で連続入賞を果たすものの、中盤戦以降はほとんどポイントが取れないレースが続いた。しかし、雨のレースとなった第15戦アメリカグランプリではピット戦略を成功させ、雨に強いブリヂストンタイヤの助けもあり、フレンツェンがチーム初となるリードラップを記録し3位表彰台を獲得、ハイドフェルドも5位入賞で大量得点に成功する。これにより、チームはランキング6位でシーズンを終えた。
第6戦オーストリアグランプリでは、スタートが2回やり直しになった結果、フレンツェンのクラッチが破損、レースに参加することができなかった。
3シーズンにわたってザウバーを支えたハイドフェルドはこの年限りでチームを去り、フレンツェンも引退を決めている。チーム代表のペーター・ザウバーは、特にハイドフェルドの放出は苦渋の決断であり、マッサをチームに復帰させたいフェラーリの意向が働いたものだと、後に示唆している。
2004年
ドライバーはジョーダンから移籍のイタリア人ジャンカルロ・フィジケラが新たに加わり、前年にフェラーリのテストドライバーとして経験を積んだマッサが復帰した。
この年はレギュレーション変更により、1つのグランプリをフリー走行から、予選、決勝まで1基のエンジンで走ることとされた。前年型エンジンでは耐久性に問題があるため、フェラーリから最新型エンジンの供給を受けることとなった。同時にフェラーリの前年型ギヤボックスの供給も受け、それらを搭載したC23はフェラーリの前年型マシンF2003-GAそっくりの外観で、「青いフェラーリ」などと揶揄された。
チームはパワーステアリングもフェラーリと同型のものを採用する予定だったが、FIAに却下されてしまったため開幕戦をパワステなしで迎え、第2戦マレーシアグランプリではマッサがステアリングの重さに耐え切れず、レース中にコースアウトしてしまう有様だった。またフェラーリに特化したブリヂストンタイヤはザウバーにとっては硬すぎ、特に予選においてその扱いに苦慮することとなる。第3戦バーレーングランプリでようやく自前のパワステが導入され、そこでマッサがシーズン初の入賞を記録した。中盤戦以降はタイヤが硬すぎることを逆手に取り、予選で大量に燃料を積み後方スタートからピットインを減らす戦略を採用、これが当たりフィジケラが第8戦カナダグランプリで4位に入賞するなどシーズン後半までポイントを重ねることに成功する。ランキングは前年同様6位であったが、ポイントは前年を15ポイントも上回る結果となった。
フェラーリそっくりのマシンにフェラーリ系ドライバーを採用するなど、ジュニアチームとして生きていくと見られていたザウバーであったが、この年限りでミシュランタイヤへの変更を表明するなどフェラーリとの距離が急速に開いていくこととなる。
シーズン中に自動車用としては世界随一の性能とされる風洞設備が完成し、シーズン後半のマシンの開発に役立てられた。
2005年
前年に完成した風洞施設をフル活用し、前衛的なデザインのC24を完成させた。ところが開幕前にその風洞の欠陥が発覚、マシンの大幅改修が必要になってしまった。またタイヤをブリヂストンからミシュランに変更、フェラーリと異なるタイヤメーカーを選択したことで、フェラーリのジュニアチームからの脱却を目指した。エンジンは前年同様フェラーリ製だが、ギヤボックスは自製に戻された。
フィジケラのルノー移籍に伴い1997年のチャンピオンであるジャック・ビルヌーブがチームに加入。しかしチームは当初フィジケラの残留を望んでいた上、ビルヌーブもウィリアムズやルノー、BARといったトップチームへの加入を望んでいた経緯もあり、ビルヌーブはマシンセッティングなどでチームと度々対立する。しかし、前年から残留のマッサが安定した走りを見せる一方、ビルヌーブは全く良いレースができなかったことから、中盤戦以降ビルヌーブもチームの方針を受け入れるようになり、第4戦サンマリノグランプリでは4位入賞を果たすなど、マッサと互角の走りを見せるようになった。
チーム株式を手放した後も、スポンサーとしてチームに参画していたレッドブルが、この年からジャガー・レーシングを買収しレッドブル・レーシングとしてF1への参戦を開始したことでサウバーのスポンサーを完全に降りている。
シーズン中盤にチームをBMWに売却することが発表され、チームとしてのザウバーはこの年限りで(いったん)幕を閉じることとなった。これに伴いチームは翌年型マシンの開発にシフトし、ランキングも8位に終わった。また、翌年よりBMWエンジンが供給されることになるため、エンジン開発に関与できなくなった後藤はこの年にチームを離脱している。

2006 - 2009年 BMWワークスとして

テンプレート:Main

2006年
BMWワークス初年度としてのこの年、チーム名はBMWザウバーとなり、「ザウバー」の名前が残されることとなった。このため、FIAは「ザウバー」と「BMWザウバー」は同一のチームとして扱い、チームとしての記録も引き継がれている。ペーター・ザウバーは代表を退き、コンサルタントとしてチームに残留した。後任のチーム代表は置かれず、マリオ・タイセンがBMWの「モータースポーツ部長」の肩書のまま、チームの指揮を採ることになった。なお、コンストラクター登録は「ザウバー・BMW」となっている。
ハイドフェルドが2003年以来チームに復帰。当初は2007年からの契約であったが、ウィリアムズが契約を解除したため1年前倒ししての加入となった。2005年末に発表されたエントリーリストにビルヌーブの名前は載らなかった。これにより、セバスチャン・ブルデーなどの若手ドライバーの起用が予想されたが、ビルヌーブ自身が同意しない限り解雇することはできない契約であったことから、他のドライバーの起用を諦め、年明けになってビルヌーブの残留を発表した。
開幕戦はノーポイントに終わるも第2戦マレーシアグランプリではビルヌーブが7位に入り、新体制での初ポイントを記録した。第3戦オーストラリアグランプリではダブル入賞を果たすとその後はハイドフェルドを中心にコンスタントにポイントを獲得していった。しかしBMWの母国である第12戦ドイツグランプリではビルヌーブがハイドフェルドに追突するという失態を犯し、両者がリタイヤに終わってしまった。このクラッシュの後遺症によりビルヌーブは第13戦ハンガリーグランプリを欠場、代わってテストドライバーのロバート・クビサがレースを走った。ハンガリーGP史上初のウエットレースとなった決勝ではハイドフェルドが新体制として初となる3位表彰台を獲得した。デビュー戦のクビサも7位で完走するも最低重量違反で失格となってしまった。その後ビルヌーブは正式にチームを去り、結局クビサはシーズン終了までステアリングを握ることとなった。第15戦イタリアグランプリではデビュー3戦目にして3位表彰台を獲得している。
最終的にチームはランキング5位でシーズンを終えた。前年の成績を一気に改善しただけでなく、BMWの前年までのパートナーであったウィリアムズを上回ったという点で大成功と言えるシーズンとなった。
2007年 - 2009年
「BMW(2007年)」・「BMWザウバー(2008年・2009年)」としてコンストラクター登録された。

2010年代

2010年 - プライベーターとして再出発

2010年
BMWが2009年シーズン中に撤退を発表し、新たに策定されたコンコルド協定にサインしなかったため、一旦は2010年のエントリーから除外された。その後チームの売却先を検討の末、元オーナーでチームの創始者でもあるペーター・ザウバーに売却することを決定した。直後よりペーターはエントリー申請を行い、トヨタの撤退により参戦枠が1つ空いたこともあって、12月4日にFIAよりエントリーが認められた[5]
12月17日、小林可夢偉と2010年のレギュラードライバー契約を結んだことを発表した。また1月19日にはマクラーレンテストドライバーを2003年から務める経験豊富なペドロ・デ・ラ・ロサを起用することを発表した[6]
2010年3月3日、FIAが2010年のF1エントリーリストを発表。この中でチームは、チーム名「BMWザウバーF1チーム」・コンストラクター名「BMWザウバー・フェラーリ」で登録された[7]。名称変更はなされず「BMW」のブランド名が残った。これは、2009年度の「BMWザウバーチーム」としての6位という戦績の分配金を確実に受け取るための措置として行ったものであり、この名称変更をFIAに申請を行っていた。この申請がFIAに受理され、2011年より「ザウバー・F1チーム」に名称変更することが正式に認められた[8]
前半戦はザウバー・C29の脆弱性は否めず、第6戦モナコGPまでに両ドライバー合わせ10回のリタイアを喫し(うち決勝不出走 (DNS) 1回)この間の完走率は全チーム最下位であった。フェラーリはマシンに搭載されるエンジンの信頼性に難点があったことを認め、本家フェラーリのエンジン改良を施し解決したが、ザウバーに関してはその問題が続いてしまった。これにはフェラーリのテストドライバーマルク・ジェネもあまりにも多発する為に「不可解だ」と語るほどであった[9][10]。しかし中国グランプリから加入したジェームス・キーの懸命なマシン改良によって信頼性と戦闘力を改善し、トルコGPでこのシーズン初のダブル完走を果たし、小林に関しては10位入賞を果たした。その後ヨーロッパGPで7位、イギリスGPで6位完走と健闘している。デ・ラ・ロサに関してもヨーロッパGPでペナルティがなければ10位で入賞していたことになり、イギリスGPでは予選9位を獲得するなどマシンパフォーマンスに明確な改善が見られた。ハンガリーGPでは、このシーズン初のダブル入賞を果たした。
2010年9月14日、シンガポールGPからシーズン末まで、2009年までBMWザウバーのレギュラードライバーであったニック・ハイドフェルドの復帰とデ・ラ・ロサの離脱を発表した[11]
2011年
2011年シーズンに向けて、小林は2010年9月に残留が確定[12]。10月4日にカルロス・スリム・ヘルがCEOを務めるメキシコの大手通信企業テルメックスがスポンサーを行うことを発表。同時に小林のチームメイトとして2010年度のGP2でシリーズ2位を獲得したメキシコ人ドライバーのセルジオ・ペレスの加入を発表した[13]。なおその他にも2010年度のGP3チャンピオンとなったメキシコ人ドライバーのエステバン・グティエレスをリザーブ兼テストドライバーとして契約したことを発表している[14]
2012年
2011年に引き続き、同じラインアップとなった。第2戦マレーシアグランプリでは、ペレスが優勝したアロンソのペースを上回るペースで快走し、ザウバーチーム(BMW時代を除く。)として初となる2位を獲得した。続く、第3戦の中国グランプリでは小林が予選3位(ハミルトン順位降格前は4位)を獲得し、優勝も期待されたが、スタートで順位を大きく下げた。しかし、小林は終盤で巻き返し、サウバーチーム(BMW時代を除く。)として初めてファステストラップを獲得した。その後も、第6戦のモナコグランプリでペレスがファステストラップを記録し、続く第7戦のカナダグランプリで3位、第13戦イタリアグランプリでは2位を獲得した。一方で、小林も第12戦のベルギーグランプリでザウバーチームとして13年ぶりに予選2位を獲得し、第15戦の日本グランプリでも予選3位、決勝では3位を獲得した。BMW時代を除くザウバーチームとしては過去最高の記録を残した。
チーム創設者であるザウバーは69歳の誕生日前(第16戦韓国グランプリ開幕前日)にチーム代表を退いた。後任はモニシャ・カルテンボーンで、チームの株式の3分の1を譲り受けた。女性がチーム代表となることは、F1史上初めてのことである。
2013年
ドライバーラインナップを一新。フォース・インディアからニコ・ヒュルケンベルグが移籍。また前年テストドライバーであった エステバン・グティエレス がレギュラードライバーに昇格した。

またリザーブドライバーにはロビン・フラインスが就いた。 この年の車 C32 は車体の配色を前年までの白からグレーに変更。1990年台のザウバーの車に似たものとなった。 第2戦であるマレーシアグランプリにて、ヒュルケンベルグが8位を獲得したものの、C32 は前年の車ほどの戦闘力が無いことは明らかで、ヒュルケンベルグでも10位がやっとであった。 新人のグティエレスはベルギーグランプリまでポイントが獲得できなかった。 しかし、このような状況の中、第12戦イタリアグランプリでは、ヒュルケンベルグが地元かつエンジン供給元のフェラーリ2台を打ち破り予選3位を獲得し衝撃を与えた。

2013年7月15日、セルゲイ・シロトキンが開発ドライバーとして加入したことが発表された。 これはロシア企業との契約の一部であり、2014年のレースドライバー契約も含まれるとされた。

第14戦のシンガポールグランプリでは、ヒュルケンベルグとグティエレスの双方がポイント圏内である6位と7位を走行していたが、タイヤの摩耗が原因となり、ヒュルケンベルグが9位入賞にとどまった。 グティエレスは12位に終わった。 第15戦の韓国グランプリでは、ヒュルケンベルグが改善を見せ4位入賞。この結果コンストラクターズポイントでトロ・ロッソを抜き7位に浮上した。 第16戦の日本グランプリでは、2013年シーズン初めてのダブル入賞。ヒュルケンベルグはレースの大部分で4位を走行していたが終盤アロンソとライコネンに抜かれ6位。 グティエレスはニコ・ロズベルグとの接戦を制して7位となった。 最終の2戦でもヒュルケンベルグはポイントを獲得。ザウバーは57ポイントを獲得し、コンストラクターズで7位となった。

2014年
フォース・インディアからエイドリアン・スーティルが移籍。チームメイトはエステバン・グティエレスの残留が決定。

リザーブドライバーがセルゲイ・シロトキンギド・ヴァン・デル・ガルデというドライバーラインナップとなった。さらに「アフィリエイトドライバー」として前年までインディカー・シリーズで戦っていた地元スイス国籍の女性ドライバーシモーナ・デ・シルベストロと契約した。

F1での年度別成績

ザウバーの車体形式は(他のカテゴリーで走ったシャーシも)頭文字がCとなっているが、これはペーター・ザウバーの妻であるクリスティーヌ (Christine ) のイニシャルが由来である。ただしBMWザウバー時代の4シーズンは「F1.xx」(xxは西暦の下二桁)が使われた。このためか「C25」から「C28」までは欠番となっている(なお、WSPC/SWC時代にも「C10」が欠番)。

車体/エンジン/
タイヤ
ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 ポイント WCC
1993 C12
イルモア2175B
V10
テンプレート:Goodyear
RSA BRA EUR SMR ESP MON CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR JPN AUS 12 7位
テンプレート:Flagicon ヴェンドリンガー Ret Ret Ret Ret Ret 13 6 Ret Ret 9 6 Ret 4 5 Ret 15
テンプレート:Flagicon レート 5 Ret Ret 4 Ret Ret 7 Ret 8 Ret Ret 9 Ret 7 8 Ret
1994 C13
メルセデス
V10
テンプレート:Goodyear
BRA PAC SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR JPN AUS 12 8位
テンプレート:Flagicon ヴェンドリンガー 6 Ret 4 DNQ Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj Inj
テンプレート:Flagicon チェザリス Ret 6 Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret
テンプレート:Flagicon レート Ret 10
テンプレート:Flagicon フレンツェン Ret 5 7 WD/
DNQ
Ret Ret 4 7 Ret Ret Ret Ret Ret 6 6 7
1995 C14
フォードZETEC-R
V8
テンプレート:Goodyear
BRA ARG SMR ESP MON CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR PAC JPN AUS 18 7位
テンプレート:Flagicon ヴェンドリンガー Ret Ret Ret 13 10 Ret
テンプレート:Flagicon ブイヨン 8 Ret Ret 9 5 10 11 6 12 Ret Ret
テンプレート:Flagicon フレンツェン Ret 5 6 8 6 Ret 10 6 Ret 5 4 3 6 Ret 7 8 Ret
1996 C15
フォードZETEC-R
V10
テンプレート:Goodyear
AUS BRA ARG EUR SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR JPN 11 7位
テンプレート:Flagicon ハーバート DNS Ret 9 7 Ret 3 Ret 7 DSQ 9 Ret Ret Ret 9 8 10
テンプレート:Flagicon フレンツェン 8 Ret Ret Ret Ret 4 4 Ret Ret 8 8 Ret Ret Ret 7 6
1997 C16
ペトロナスSPE01A
V10*
テンプレート:Goodyear
AUS BRA ARG SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA AUT LUX JPN EUR 16 7位
テンプレート:Flagicon ハーバート Ret 7 4 Ret Ret 5 5 8 Ret Ret 3 4 Ret 8 7 6 8
テンプレート:Flagicon ラリーニ 6 11 Ret 7 Ret
テンプレート:Flagicon モルビデリ 14 10 Inj Inj Inj Ret 9 12 9 9 DNS Inj
テンプレート:Flagicon フォンタナ Ret 9 9 14
1998 C17
ペトロナスSPE01D
V10*
テンプレート:Goodyear
AUS BRA ARG SMR ESP MON CAN FRA GBR AUT GER HUN BEL ITA LUX JPN 10 6位
テンプレート:Flagicon アレジ Ret 9 5 6 10 12 Ret 7 Ret Ret 10 7 3 5 10 7
テンプレート:Flagicon ハーバート 6 11 Ret Ret 7 7 Ret 8 Ret 8 Ret 10 Ret Ret Ret 10
1999 C18
ペトロナスSPE03A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS BRA SMR MON ESP CAN FRA GBR AUT GER HUN BEL ITA EUR MAL JPN 5 8位
テンプレート:Flagicon アレジ Ret Ret 6 Ret Ret Ret Ret 14 Ret 8 16 9 9 Ret 7 6
テンプレート:Flagicon ディニス Ret Ret Ret Ret Ret 6 Ret 6 6 Ret Ret Ret Ret Ret Ret 11
2000 C19
ペトロナスSPE04A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS BRA SMR GBR ESP EUR MON CAN FRA AUT GER HUN BEL ITA USA JPN MAL 6 8位
テンプレート:Flagicon ディニス Ret WD 8 11 Ret 7 Ret 10 11 9 Ret Ret 11 8 8 11 Ret
テンプレート:Flagicon サロ DSQ WD 6 8 7 Ret 5 Ret 10 6 5 10 9 7 Ret 10 8
2001 C20
ペトロナス01A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN BEL ITA USA JPN 21 4位
テンプレート:Flagicon ハイドフェルド 4 Ret 3 7 6 9 Ret Ret Ret 6 6 Ret 6 Ret 11 6 9
テンプレート:Flagicon ライコネン 6 Ret Ret Ret 8 4 10 4 10 7 5 Ret 7 DNS 7 Ret Ret
2002 C21
ペトロナス02A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR GBR FRA GER HUN BEL ITA USA JPN 11 5位
テンプレート:Flagicon ハイドフェルド Ret 5 Ret 10 4 Ret 8 12 7 6 7 6 9 10 10 9 7
テンプレート:Flagicon マッサ Ret 6 Ret 8 5 Ret Ret 9 6 9 Ret 7 7 Ret Ret Ret
テンプレート:Flagicon フレンツェン 13
2003 C22
ペトロナス03A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN ITA USA JPN 19 6位
テンプレート:Flagicon ハイドフェルド Ret 8 Ret 10 10 Ret 11 Ret 8 13 17 10 9 9 5 9
テンプレート:Flagicon フレンツェン 6 9 5 11 Ret DNS Ret Ret 9 12 12 Ret Ret 13 3 Ret
2004 C23
ペトロナス04A
V10*
テンプレート:Bridgestone
AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN BEL ITA CHN JPN BRA 34 6位
テンプレート:Flagicon フィジケラ 10 11 11 9 7 Ret 6 4 9 12 6 9 8 5 8 7 8 9
テンプレート:Flagicon マッサ Ret 8 12 10 9 5 9 Ret Ret 13 9 13 Ret 4 12 8 9 8
2005 C24
ペトロナス05A
V10*
テンプレート:Michelin
AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN TUR ITA BEL BRA JPN CHN 20 8位
テンプレート:Flagicon ビルヌーブ 13 Ret 11 4 Ret 11 13 9 DNS 8 14 15 Ret 11 11 6 12 12 10
テンプレート:Flagicon マッサ 10 10 7 10 11 9 14 4 DNS Ret 10 8 14 Ret 9 10 11 10 6
2010 C29
フェラーリTipo056
V8
テンプレート:Bridgestone
BHR AUT MAL CHN ESP MON TUR CAN EUR GBR GER HUN BEL ITA SIN JPN KOR BRA ABU 44 8位
テンプレート:Flagicon 小林 Ret Ret Ret Ret 12 Ret 10 Ret 7 6 11 9 8 Ret Ret 7 8 10 14
テンプレート:Flagiconデ・ラ・ロサ Ret 12 DNS Ret Ret Ret 11 Ret 12 Ret 14 7 12 14
テンプレート:Flagiconハイドフェルド Ret 8 9 17 11
2011 C30
フェラーリTipo056
V8
テンプレート:Pirelli
AUS MAL CHN TUR ESP MON CAN EUR GBR GER HUN BEL ITA SIN JPN KOR IND ABU BRA 44 7位
テンプレート:Flagicon 小林 DSQ 7 10 10 10 5 7 16 Ret 9 11 12 Ret 14 13 15 Ret 10 9
テンプレート:Flagiconペレス DSQ Ret 17 14 9 DNS Inj 11 7 11 15 Ret Ret 10 8 16 10 11 13
テンプレート:Flagiconデ・ラ・ロサ 12
2012 C31
フェラーリTipo056
V8
テンプレート:Pirelli
AUS MAL CHN BHR ESP MON CAN EUR GBR GER HUN BEL ITA SIN JPN KOR IND ABU USA BRA 126 6位
テンプレート:Flagicon 小林 6 Ret 10 13 5 Ret 9 Ret 11 4 18 13 9 13 3 Ret 14 6 14 9
テンプレート:Flagiconペレス 8 2 11 11 Ret 11 3 9 Ret 6 14 Ret 2 10 Ret 11 Ret 15 11 Ret
2013 C32
フェラーリTipo056
V8
テンプレート:Pirelli
AUS MAL CHN BHR ESP MON CAN GBR GER HUN BEL ITA SIN KOR JPN IND ABU USA BRA 57 7位
テンプレート:Flagicon ヒュルケンベルグ DNS 8 10 12 15 11 Ret 10 10 11 13 5 9 4 6 19† 14 6 8
テンプレート:Flagicon グティエレス 13 12 Ret 18 11 13 20† 14 14 Ret 14 13 12 11 7 15 13 13 12


関連項目

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脚注

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外部リンク

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  1. 1位フェラーリ(1950年-)、2位マクラーレン(1966年-)、3位ウィリアムズ(1975年-)
  2. 『ミハエル・シューマッハ全記録 1984-2006』 ニューズ出版、2006年、p.41。
  3. 3.0 3.1 3.2 パトリック・カミュ文/今宮雅子訳「ペーター・ザウバー インタビュー」『F1速報 テスト情報号』 ニューズ出版、1993年2月、p44。
  4. このサイドプロテクターは1996年以降レギュレーションに採用され、F1以外も全てのフォーミュラカーのルールにおいて採用するようになった
  5. ザウバー、2010年のF1参戦権を獲得 F1-Gate.com-2009年12月4日
  6. Pedro de la Rosa to race for BMW Sauber F1 Team(公式HPより)
  7. FIA Formula One World Championship - Entry List (FIAによるリリース)
  8. ザウバー、チーム名の変更を認められる - F1 Gate.com 2010年6月24日
  9. マルク・ジェネ 「ザウバーのエンジン問題は奇妙だ」 - F1 Gate.com
  10. この事が起因してカーナンバー22側のマシンはシーズン途中のシンガポールGPでF1レギュレーションによる規定エンジン使用範囲である8基のエンジン全てを使い果たしペナルティの対象となる9基目のエンジンを開封しなければならない程に様々な問題が発生し、非常に深刻な状況であった。
  11. テンプレート:Citenews
  12. テンプレート:Citenews
  13. テンプレート:Citenews
  14. テンプレート:Citenews