プロスト・グランプリ
テンプレート:旧F1コンストラクター プロスト・グランプリ (Prost Grand Prix) とは、1997年から2001年までF1に参戦したフランスのレーシングチーム。同じフランスのリジェを買収して誕生した。創設者兼オーナーは元F1ドライバーのアラン・プロスト。
目次
チーム設立までの動き
F1で4度のワールド・チャンピオンを獲得したアラン・プロストは、現役時代より何回か自らのF1チームを立ち上げようと試みていた。
マクラーレン時代の1989年には、盟友でありマクラーレン・MP4シリーズのデザインなどで有名なジョン・バーナードと共同でチーム設立を試みた。この時はルノーエンジンの供給を受け、1stドライバーはプロスト自身、2ndドライバーはエリック・ベルナールを迎えることが内定したと噂されたが、スポンサーを得られずに話がご破算になり、結局プロストはフェラーリ入りすることになる。
1991年にフェラーリを解雇された直後には、やはりバーナードと組んでイギリスのトムスGBを母体にF1チームを立ち上げようと試みた(そのためバーナードは一時的にトムスに移籍している)。プロストらはトムスの事実上の親会社であり、当時スポーツカー世界選手権(SWC)参戦用にトヨタ・TS010を開発していたトヨタに、同車に搭載される3.5リッターNA・V10エンジン[1]を供給してもらうことを目論んでいたが、最終的にトヨタにエンジン供給を断られたため計画は頓挫した[2]。
そのためプロストはリジェ買収に方向を転換し、まずはドライバーとして自らリジェのマシンをテストドライブしたが、オーナーシップの譲渡について交渉がまとまらず、1年間の浪人生活を送る決断を下している。リジェでのテストドライブでは、様々な憶測を避ける目的で、スポンサーロゴの無い白いレーシングスーツにエリック・コマスのヘルメットを被り、カモフラージュしようと試みたが、すでにメディアが殺到する状態にあったため、全く効果をなさなかった。
プロストは1993年一杯で現役を引退し、テレビ解説者を務めながら新たな機会を探った。当時の最強エンジンメーカーであったルノーのアンバサダーに就任したが、ルノーから支援の確約を得られなかった。その間にも、リジェの所有権は創始者のギ・リジェからシリル・ド・ルーブル→フラビオ・ブリアトーレ→トム・ウォーキンショーへと転々としていた。
1996年、モナコGPでリジェのオリビエ・パニスが優勝したことから、フランス国内でフランスチームの復権を望む機運が高まる。折しも、ウォーキンショーがアロウズを買収してリジェを手放したため、プロストは各方面から後押しを受け、1994年にF1に参戦して以来まだ勝利のないプジョーエンジンと接近し、リジェ買収に名乗りを上げた。
プジョーとの提携、およびリジェからのチーム名変更は、プロスト本人よりも政界[3]や出資者の意向だったとされる[4]。名称変更には全チームの承認が必要とされたが、プジョーエンジンを失う可能性があるジョーダンが反対したため、参戦決定までが難航した。1997年2月14日に「プロスト・グランプリ」の発足が正式発表され、あわせて1998年より3年間契約でプジョーエンジンの供給を受けることがアナウンスされた。リジェ時代から続くゴロワーズタバコのほか、アルカテルやCanal+、ビックなどのフランス系企業ともスポンサー契約が結ばれた。
F1
1997年
チーム発足はシーズン開幕2週間前だったため、参戦初年度はリジェの体制をほぼ引き継いでスタートした。新車JS45に無限ホンダエンジンを搭載する。ドライバーは大黒柱のパニスと、無限の支援を受けてF1デビューする中野信治。この年よりタイヤ供給を開始したブリヂストンと契約した。
前半戦はブリヂストンタイヤユーザーの先鋒となり、エースドライバーのパニスが2度表彰台に上るなど好調な滑り出しをみせた。しかし、パニスがカナダGPで両足を複雑骨折し、戦線離脱してしまった。次のフランスGPではミナルディからヤルノ・トゥルーリを招聘し、中野とトゥルーリのルーキーコンビを組んだ。トゥルーリは3戦目のドイツGPで4位入賞すると、オーストリアGPではスタートからトップを独走。エンジントラブルでリタイアするまで見せ場を作った。続く終盤3戦はトゥルーリに代わり、負傷が癒えたパニスが復帰した。
リジェ時代より無限ホンダエンジンの貢献度は高かったが、チームはすでに翌年のプジョーとの提携に向けて動いていた。中野はチーム内で完全に冷遇され、テストやセッティングも許されず、テストドライバーのエマニュエル・コラールとの交代説が囁かれた。加えて、プジョーの関係者をファクトリーに招き、無限の了解を得ずにエンジンを見せるなどしたため、「中野を乗せないならその時点でエンジンは供給しない」と無限がコメントを出すなど、両者の関係は緊張したものになった。中野は2度入賞したが、この年限りでチームを離脱する。
チーム成績はパニスの2度の表彰台を含めて入賞8回で、リジェ最終年を上回る21ポイントを獲得。コンストラクターズ順位は変わらず6位だった。
1998年
チームとしてのニューマシンAP01が完成し、待望のプジョー・ワークスエンジンを搭載。ドライバーはパニスとトゥルーリ。また、エンジン供給活動を休止したルノーから、ベルナール・デュドを引き抜いた。
ロイック・ビゴワ作のAP01は見栄えこそ良かったものの、グルーブドタイヤへの対応に失敗し、成績は全くの期待はずれであった。パニスもトゥルーリも下位を走るのが精一杯で、入賞はベルギーGPでのトゥルーリの6位1回のみ。それもトップから2周遅れだった上、優勝したのは皮肉にもエンジンを交換する形となったジョーダン・無限のデイモン・ヒルであった。パニスはF1デビュー以来初のノーポイントに終わる。コンストラクターズランキングは9位。失意のシーズンであった。
1999年
プジョーエンジンとのジョイント2年目。前年の失敗を繰り返すまじとばかりに、プロストは人事強化に力を注いだ。ジョン・バーナードやアラン・ジェンキンスを招聘するが、肩書きばかりの人事で全くまとまりがないものであった。ドライバーはパニスとトゥルーリが残留。
パニスは地元フランスGPで予選3位につけながら決勝は8位、日本GPでは予選6位から絶妙のスタートを決め、一時3位を走るもリタイアするなど時折速さを見せたが、結果は入賞2回だった。トゥルーリはスペインGPで6位入賞、ヨーロッパGPでは天候の混乱を我慢して2位初表彰台を獲得した。合計9点でランキングは7位になるもやはり不満の残る結果に終わった。ちなみにこのヨーロッパGPでの2位がプロスト・プジョーとしての最上位であった。
パニスはマクラーレンでのサード・ドライバーの道を選び、トゥルーリはジョーダンに移籍する。また、プジョーはこの年限りでのF1撤退を示唆したが、プロストの説得により翌年も参戦することになった。
2000年
ドライバーラインナップを一新し、プロストのフェラーリ時代のチームメイトだったジャン・アレジがザウバーから移籍。さらにマクラーレンの秘蔵っ子であり、1999年に国際F3000チャンピオンを獲得したニック・ハイドフェルドを迎え入れた。
アラン・ジェンキンスとフランス人エンジニアが不仲で開発もままならず、ジェンキンスは中盤で離脱。2人のドライバーもノーポイントに終わり、同じくノーポイントに終わったミナルディより完走率などの成績を下回り、全11チーム中最下位の成績に終わった。
プジョーとは互いに成績不振の責任を押し付けあうほど関係が悪化し、プジョーはアジアテックにエンジン開発部門を売却してF1から撤退した。プジョーエンジンを引き継いだアジアテックは、翌年の供給先をアロウズに変更したため、プロストは代替エンジン探しに苦労することになる。ハイドフェルドはザウバーに移籍するが、アレジは残留する。
2001年
フェラーリのカスタマーエンジン獲得にこぎつけ、台湾のIT企業エイサーのバッジネームを付けて使用。タイヤはミシュランにスイッチした。
エンジン使用料に加えて、ゴロワーズなどのスポンサーが次々に撤退したため資金繰りが悪化。ザウバーのドライバーだったペドロ・ディニスが電撃的にドライバーを引退し、チームの株式40%を持つ共同オーナーに就任し、彼のスポンサーマネーでシーズンを戦う事を選択した。ドライバーはアレジに加えて、パンアメリカン・スポーツ・ネットワーク (PSN) など南米のスポンサー獲得のためにガストン・マッツァカーネを起用する。
アレジは12連続完走(入賞3回)と気を吐いたが、カナダGPで5位入賞した嬉しさから観客席にヘルメットを投げ入れたところ、一緒に高価な無線装置を失くしてしまったことにプロストが激怒した。両者の関係は悪化し、アレジはハンガリーGPからジョーダンに移籍。代わりにジョーダンを解雇されたばかりのハインツ=ハラルド・フレンツェンが入れ替えの形で収まった。
セカンドシートの方も、マッツァカーネを「遅すぎる」との理由で4戦で解雇。ペドロ・デ・ラ・ロサの獲得を試みたが、ジャガーに獲られ、そのジャガーを解雇されたルチアーノ・ブルティを起用した。ブルティはベルギーGPの大クラッシュで欠場に追い込まれ、終盤3戦はトーマス・エンゲを起用。結局、5人のドライバーが入れ替わる事態となった。
獲得ポイントはアレジが稼いだ4点のみ。ランキングは9位。フレンツェンはベルギーGPで予選4位に入ったがそれ以外に見るべきものはなかった。
チーム消滅
資金的にも苦境に追い込まれたプロストは、ディニスにオーナーの座を譲り、ルノーのセカンドチームに転じるという策を模索したが[5]、ディニスが2001年夏にチームを離脱したため不成功に終わった。
2001年11月27日、プロストはベルサイユの商業裁判所に自己破産を申請[6]。裁判所の管理下で新たな出資者を探しつつ、新車AP05の開発を続けた。しかし、裁判所が再建不可能と判断し、2002年1月28日にチーム消滅が決定した[7]。負債総額は2000万ポンド(約37億円)であった[7]。
一時はイギリスのビジネスマンであるチャールズ・ニッカーソン率いる「フェニックス・ファイナンス」がチームの資産を買い取り、「フェニックス・グランプリ」との名称でF1に参戦するとの情報が流れた[8]。ニッカーソンと関係があるトム・ウォーキンショー率いるアロウズ製エンジンを搭載したAP04を2002年第2戦マレーシアGPに持ち込んだが[9]、国際自動車連盟 (FIA) は参戦を認めなかった[10]。
型式番号
先頭に、アラン・プロストのイニシャルであるAPが冠され、その後に連番として01から始まり、更新順に番号が振られた。
本来なら、参戦初年度(1997年)の車は「AP01」となるはずだが、車自体はすでにリジェとして参戦することを前提に番号がつけられていたため、リジェ時代の「JS45」をそのまま使用し、翌年のマシンに「AP01」を付けた。
- JS45 (1997年)
- AP01 (1998年)
- AP02 (1999年)
- AP03 (2000年)
- AP04 (2001年)
- AP05 (2002年シーズンを走るマシンだったが、チーム撤退により計画は頓挫)
変遷表
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | プロスト・ゴロワーズ・ブロンズ | JS45 | テンプレート:Bridgestone | 無限MF301HB | エルフ | オリビエ・パニス 中野信治 ヤルノ・トゥルーリ |
6 | 0 |
1998年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | AP01 | テンプレート:Bridgestone | プジョーA16 | トタル | オリビエ・パニス ヤルノ・トゥルーリ |
9 | 0 |
1999年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | AP02 | テンプレート:Bridgestone | プジョーA18 | トタル | オリビエ・パニス ヤルノ・トゥルーリ |
7 | 0 |
2000年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | AP03 | テンプレート:Bridgestone | プジョーA20 | トタル | ジャン・アレジ ニック・ハイドフェルド |
11 | 0 |
2001年 | プロスト・エイサー | AP04 | テンプレート:Michelin | エイサー(フェラーリTipo049) | シェル | ジャン・アレジ ガストン・マッツァカーネ ルチアーノ・ブルティ ハインツ=ハラルド・フレンツェン トーマス・エンゲ |
9 | 0 |
脚注
テンプレート:Sister テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist
関連項目
テンプレート:プロスト・グランプリテンプレート:Motorsport-stub
テンプレート:Link GA- ↑ これは当時のF1のエンジンレギュレーションと共通していた。
- ↑ このあたりの話は当時バーナードの片腕と呼ばれた、サスペンション技術者の寺本浩之が著した『疾風 ウイニング・ラン』(ワニブックス)に詳しい。
- ↑ リジェを長年支援していたのは社会党政権のフランソワ・ミッテラン大統領であり、プロスト・プジョー設立に協力したのは、1995年に発足した共和国連合政権のジャック・シラク大統領だった。
- ↑ 『Racing On Archives vol.07 マンセルとプロスト』、イデア、2012年、104頁・170頁。
- ↑ 『Racing On Archives vol.07 マンセルとプロスト』、174頁。
- ↑ "プロストGPがついに倒産、ブリアトーレが引き継ぎか?". Response.(2001年11月27日)2013年4月28日閲覧。
- ↑ 7.0 7.1 テンプレート:Cite news
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