オリビエ・パニス
テンプレート:Infobox
オリビエ・ドニ・パニス(Olivier Denis Panis, 1966年9月2日 - )は、フランス出身の元F1ドライバー。
目次
プロフィール
早くから才能を認められ、フランスのオイルメーカー、エルフのスポンサードを受けて順調にステップアップする。1993年はDAMSから国際F3000にエントリーし、チャンピオンを獲得した。
リジェ/プロスト時代
F1には1994年にフランスのリジェからデビューを果たした。同年のドイツGPで2位に入り初入賞、及び初表彰台を記録。最終的に16戦中15レースで完走した(第13戦ポルトガルGPは完走したものの、スキッドブロックの規定に引っかかり失格したため、それを除けば16戦中14戦完走)。F1デビュー当時は英語が上手く話せず、グランプリの記者会見では通訳と同伴した。
1995年の最終戦オーストラリアGPでは終盤、首位走行のデイモン・ヒルから2周遅れながら2位を走行中に、車両から白煙を吹いたが、最後までマシンを労わりながら走行し、2位表彰台を飾った。
1996年には、サバイバルレースとなったモナコGPで、14番手スタートながら優勝した。これはパニスのF1キャリアで唯一の勝利であるとともに、リジェにとってF1での最終勝利、無限エンジンにとってのF1初優勝でもあった。また、F1でフランス人ドライバーが記録した最後の勝利にもなっている(2013年時点)。
翌1997年、リジェはアラン・プロストに売却されプロスト・グランプリに改称され、パニスはチームに残留した。この年から新規参入したブリヂストンタイヤのユーザーでは最も競争力があり、第2戦ブラジルGPで3位、第6戦スペインGPでは2位に入るなど好調を維持した。しかし、カナダGPの決勝レース中にコンクリートウォールに激突して両足を骨折。このカナダGP開幕時点でランキングは3位だったが、シーズンは事実上終了してしまった。シーズン終盤のルクセンブルクGPから復帰し、最終3レースに参戦したが、この3レースでの入賞はルクセンブルクでの6位だけで、最終的なランキングは9位に終わった。
1998年もプロストに残留したが、チームメイトのヤルノ・トゥルーリとともにマシンの競争力に苦しめられた。パニスはキャリア唯一の無得点に終わり、チームの得点も、トゥルーリの獲得した1ポイントのみに終わった。
1999年もプロストから出走したが、この年もマシンの競争力に苦しんだ。シーズンを通じて獲得したポイントは2にとどまり、プロストとの契約を満了。翌2000年のチームは決まっていなかった。
マクラーレンTD時代
ウィリアムズから誘われたものの、1年契約だったため断念。一方マクラーレンが、増大するテストワークのドライバー負荷を分散するため、2000年シーズンにサードドライバーの採用を決め、シートが決まっていないパニスにサードドライバーをオファーした[1]。レースの出場機会はなくなるが、サードドライバーとはいえ、テスト走行する機会が多いことと、トップチームに所属するメリットを考慮して、パニスはマクラーレンと契約した。
マクラーレンもミカ・ハッキネンやデビッド・クルサードのどちらかが欠場すれば、優勝経験者のパニスがリリーフドライバーとしてレースに出場できるという狙いや、特にクルサードがMP4-14の扱いに苦しみ、1999年シーズンを失速していたので、2000年シーズン序盤の成績次第では、パニスと入れ換えるという思惑もあったようである[1]。
経験豊富で速さもあり、フィードバックや開発能力が高いパニスをマクラーレン首脳陣は高く評価していた。ドライバーのハッキネン、クルサード共にパニスの貢献度を賞賛し、ドライバーとしての価値が再び上がることになった[2]。チームは破格の条件を提示して残留に務めたが、パニスはレース出場を望んで移籍を決断した。
B・A・R時代
マクラーレンでの働きを評価され、2001年からB・A・Rのレギュラードライバーとして契約した。マシンの戦闘力不足もあり、最高位は2001年ブラジルGPでの4位。2002年限りでB.A.Rを離脱した。
トヨタ時代
2003年からトヨタへ移籍。2シーズンを戦った後、2004年の日本GPをもってレギュラードライバーを退いた。
2005年からは同チームのテストドライバーを務め、シーズン開幕当初のレギュレーションでは金曜フリー走行に参加する資格を有していなかった[注釈 1]が、レッドブルの働きかけ[注釈 2]によりレギュレーションが変更となったことから、パニスの引退によりフランス人ドライバーが不在となったことを憂慮したバーニー・エクレストンの要請を受けて、第10戦フランスGPのみ、リカルド・ゾンタに代わり第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走することとなった。
2006年を最後にF1から完全に引退することとなったが、氷上レースにトヨタから参加することになった。
F1引退後
A1グランプリの2007 - 2008年シーズンにおいて、フランスチームのスポーティングディレクターとして指揮を執ることが発表された。
2008年にはオレカと契約してスポーツカーレース (LMP1) に転向。ル・マン・シリーズやアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦し、2011年のセブリング12時間レースで優勝(マシンはプジョー・908 HDi FAP)。ル・マン24時間レースでは2009年と2011年に総合5位を記録した。
また、ドライバーのマネージメントも行い、母国の後輩シャルル・ピックをサポート。2012年にF1デビューしたピックのマネージャーとして働いている。
エピソード
プロスト・グランプリ在籍時、チームメイトであった中野信治はチーム内で何かと冷遇を受けていた。パニスにとってはライバルでもあるが、さすがにこのあまりの冷遇振りに同じF1ドライバーとして心を痛め、「シンジにも彼が走りやすい環境を作ってやってほしい」と苦言をアラン・プロストに呈した。しかし、最後まで待遇改善は行われなかったという。
マクラーレンの初テストでパニスのシートには、赤ワインとカマンベールチーズが事前に置かれてあった。スタッフの粋な歓迎に、パニスはとても喜んだ。
F1での年度別成績
注釈
脚注
外部リンク
テンプレート:リジェ テンプレート:プロスト・グランプリ テンプレート:マクラーレン テンプレート:B・A・R テンプレート:トヨタF1
テンプレート:国際F3000選手権歴代チャンピオン
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません