カール・ヴェンドリンガー
テンプレート:Infobox カール・ヴェンドリンガー(Karl Wendlinger、1968年12月20日 - )はオーストリア出身の元F1ドライバーである。この「ヴェンドリンガー」表記はフジテレビF1中継などで見られたが、「カール・ベンドリンガー」と雑誌等で表記されることもある。
目次
経歴
初期のレーシングキャリア
オーストリアのチロル地方の出身で、祖父も父親もモータースポーツ経験を持つ[1]。1983年にカートレースを始め、1984年にドイツ・ジュニアカートチャンピオンを獲得した。
1987年にフォーミュラ・フォード1600でオーストリアチャンピオンを獲得。父親の知人であるゲルハルト・ベルガーにスポンサー獲得の協力を受け、ベルガーの師であるヘルムート・マルコのF3チームに所属する。1988年にはオーストリアF3で、1989年にはドイツF3でチャンピオンを獲得した。
その後、ミハエル・シューマッハ、ハインツ=ハラルド・フレンツェンとともにメルセデス・ベンツの若手ドライバー育成プログラム(メルセデス・ジュニアチーム)のドライバーに選ばれた。この3人はヨッヘン・マスのパートナーとして交代で1990年の世界スポーツプロトタイプカー選手権に参戦しており、日本では「メルセデス三羽烏」と呼ばれた。この年スパ・フランコルシャンで開催された第4戦で1勝を挙げている。また、国際F3000選手権にもヘルムート・マルコが運営するマルコ・RSMから参戦した。
翌1991年にはフレンツェンが離脱したのに対し、ヴェンドリンガーはシューマッハとコンビを組んで同世界選手権への参戦を継続し、オートポリスで開催された最終戦で優勝した。これは、この年にル・マン24時間レース以外のスプリントレースでプジョー・905とジャガー・XJR-14以外の車両が挙げた唯一の勝利となった。国際F3000では3位1回を獲得した。
F1
レイトンハウス(マーチ)時代
- 1991年
- シーズン終盤の日本GPにて、レイトンハウスからF1デビューを果たした。メルセデスの育成プログラムのメンバーとしては、同年の11戦ベルギーGPでのシューマッハに次いでのデビューとなった。しかし、デビュー戦は、スクーデリア・イタリアの2台と共に、ジョーダンのアンドレア・デ・チェザリスのスピンに巻き込まれ、1周でリタイヤした。続く最終戦オーストラリアGPでも、12周目に豪雨に足を取られ、クラッシュした[2]。
- 1992年
- チームに残留したが、スポンサーのレイトンハウスが撤退し、チーム名はマーチに戻っていた。財政難から、マシンの戦闘力が前年以上に低下する中、開幕戦南アフリカGPでの予選7位、第3戦ブラジルGP・第4戦スペインGPでの予選9位、第10戦ドイツGPでの予選10位など速さを見せた。また決勝では、第7戦カナダGPでサバイバルレースを生き残り、4位入賞。自身初の入賞を記録した。
- 参戦した14戦中、チームメイトに対してはポール・ベルモンドに10勝1敗、エマニュエル・ナスペッティに対して3戦全勝と上回った。終盤の2戦は、チームにスポンサーを持ち込んだヤン・ラマースにシートを譲った。
ザウバー時代
- 1993年
- メルセデス・ジュニアチームを運営していたザウバーのF1参戦に伴い、ザウバーへの加入が決定。シーズンオフのテストではウィリアムズに次ぐタイムを記録して注目された。第3戦ヨーロッパGPと第4戦サンマリノGPで予選5位につけるなど、随所で速さを見せ、イタリアGPの4位を含めて計4度の入賞を果たした。しかし、一方でマシンは信頼性に問題を抱えており、リタイヤは序盤の5戦連続をはじめ9回を数えた。
- 1994年
- ザウバーに残留し開幕戦ブラジルGPで6位入賞、第3戦サンマリノGPでも4位入賞と、順調なシーズンを送っていた。
- しかし、第4戦モナコGPにおいてフリー走行中に大クラッシュを喫する。トンネル出口でスピンしたマシンは左向き真横の姿勢で滑りながらヌーベルシケインを直進し、その先のプラスチック製防護壁にコクピット側面から衝突した。この際、頭部を激しく打ちつけて昏睡状態に陥り、病院で生命維持装置を付けられた状態となった。直前のサンマリノGPにおいて、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの12年ぶりとなる死亡事故が発生したばかりということもあり、F1界に大きな衝撃を与えた[3]。
- 一時は「2度と意識が戻ることは無い」とまで言われたが、事故から25日後の6月5日になって意識が回復した[4]。「今日は何日だ?」と尋ねられ日付を答えると、その日付は実際より1ヶ月もずれており、その後も時間の感覚のずれに悩まされたという。秋にはマシンに乗れる状態まで回復し、第15戦日本GPから復帰する予定だったが、テスト走行で首の痛みを訴えたため、シーズン中のカムバックは見送られた。
- 1995年
- 開幕戦アルゼンチンGPよりF1に復帰。ザウバーチームは、復帰可能か不明だったヴェンドリンガーの為に、シートを空けて待っていたという。
- しかしシーズンが始まってみると、以前の速さは消えうせており、自身も「どうしてこんなに遅くなってしまったのか分からない」と発言するほどだった[5]。第5戦モナコGP以降はジャン=クリストフ・ブイヨンにシートを譲り、終盤戦の第16戦日本GPから復帰を果たすものの、結局この年は6戦の参戦に止まり、翌1996年シーズンはシートを失った。
F1後
F1後はツーリングカーレースやFIA-GT選手権、DTM、グランダムシリーズなどのスポーツカーレースに参戦した。FIA-GT選手権では、1999年にチャンピオンを獲得した。
2000年には、デイトナ24時間レースで優勝した。
評価
メルセデス・ジュニアチーム時代のヴェンドリンガーは、目立つ存在ではないものの、のちにF1で成功したミハエル・シューマッハやハインツ・ハラルド=フレンツェンに匹敵する評価を得ていた。
- 「慎重で冷静なドライビングが特徴だ。ペースをつかむのに少々時間を要するが、数日もするとふたりのドイツ人と換わらぬ速さを見せた[6]」 - ヨッヘン・ニアパッシュ(メルセデスのレースディレクター)
- 「カールは内向的な性格で、マイペースながらドイツ人ふたりに匹敵するタイムは出ていた。あるジャーナリストが『アメリカン・インディアンの魂を宿したチロリアン』と彼を評したことがあった。まさに言い得て妙だと思ったよ[6]」 - ペーター・ザウバー(ザウバー代表)
しかし、優勝どころか表彰台すらも経験しないまま、F1から退くことを余儀なくされた。事故後急激に精彩を欠いたことから、「命と引き換えに速さを失った」と言われることもある。
レース戦績
WSPC,WSC
年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | チーム・ザウバー メルセデス | ザウバー・C9 | C | SUZ 2 |
5位 | 21 | ||||||||
メルセデス・ベンツ・C11 | MON 2 |
SIL |
SPA 1 |
DIJ |
NÜR |
DON |
MTL 9 |
MEX | ||||||
1991 | チーム・ザウバー メルセデス | メルセデス・ベンツ・C291 | C1 | SUZ Ret |
MON Ret |
SIL 2 |
NÜR Ret |
MAG Ret |
MEX Ret |
AUT 1 |
9位 | 43 | ||
メルセデス・ベンツ・C11 | C2 | LMN 5 |
||||||||||||
1992 | プジョー・タルボ・スポール | プジョー・905 | C1 | MON |
SIL |
LMN Ret |
DON |
SUZ |
MAG |
NC | 0 |
F1
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | レイトンハウス | CG911 | USA |
BRA |
SMR |
MON |
CAN |
MEX |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
ESP |
JPN Ret |
AUS 20 |
37位 | 0 | |
1992年 | マーチ | RSA Ret |
MEX Ret |
BRA Ret |
ESP 8 |
SMR 12 |
MON Ret |
CAN 4 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 16 |
HUN Ret |
BEL 11 |
ITA 10 |
POR Ret |
JPN |
AUS |
12位 | 3 | ||
1993年 | ザウバー | C12 | RSA Ret |
BRA Ret |
EUR Ret |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON 13 |
CAN 6 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 9 |
HUN 6 |
BEL Ret |
ITA 4 |
POR 5 |
JPN Ret |
AUS 15 |
12位 | 7 | |
1994年 | C13 | BRA 6 |
PAC Ret |
SMR 4 |
MON DNS |
ESP |
CAN |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
EUR |
JPN |
AUS |
19位 | 4 | ||
1995年 | C14 | BRA Ret |
PAC Ret |
SMR Ret |
ESP 13 |
MON |
CAN |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
EUR |
PAC |
JPN 10 |
AUS Ret |
28位 | 0 |
FIA GT
年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | バイパー チーム・オレカ | ダッジ・バイパーGTS-R | GT2 | OSC 2 |
SIL Ret |
HOC 2 |
DIJ 2 |
HUN Ret |
SUZ 2 |
DON 3 |
A1R 1 |
HMS Ret |
LAG DNS |
2位 | 38 | |
1999 | バイパー チーム・オレカ | ダッジ・バイパーGTS-R | GT | MON 1 |
SIL 1 |
HOC |
HUN 2 |
ZOL 1 |
OSC 1 |
DON 1 |
HMS 2 |
LAG 2 |
ZHU 1 |
1位 | 78 | |
2004 | JMBレーシング | フェラーリ・575GTC | GT | MON Ret |
VAL 4 |
MAG 2 |
HOC 15 |
BRN 2</br> |
DON 16 |
SPA 10 |
IMO 4 |
OSC 1 |
DUB Ret |
ZHU 5 |
5位 | 50.5 |
2005 | JMBレーシング | マセラティ・MC12 GT1 | GT1 | MON 5 |
MAG 1 |
SIL 4 |
IMO 4 |
BRN 2 |
SPA 2 |
OSC 2 |
IST 3 |
ZHU 6 |
DUB 4 |
BHR Ret |
3位 | 71 |
2006 | レースアライアンス | アストンマーチン・DBR9 | GT1 | SIL Ret |
BRN Ret |
OSC 7 |
SPA 8 |
PRI 4 |
DIJ 2 |
MUG 1 |
HUN Ret |
ADR Ret |
DUB 5 |
9位 | 32.5 | |
2007 | ジェットアライアンスレーシング | アストンマーチン・DBR9 | GT1 | ZHU 9 |
SIL 4 |
BUC 4 |
MON 1 |
OSC Ret |
SPA Ret |
ADR 1 |
BRN 2 |
NOG 5 |
ZOL 1 |
2位 | 57 | |
2008 | ジェットアライアンスレーシング | アストンマーチン・DBR9 | GT1 | SIL 1 |
MON 7 |
ADR Ret |
OSC 1 |
SPA Ret |
BUC Ret |
BRN 1 |
NOG 5 |
ZOL 3 |
SUN |
6位 | 44 | |
2009 | KプラスKモータースポーツ | サリーンS7R | GT1 | SIL 1 |
ADR Ret |
OSC 10 |
SPA |
[[ハンガロリンク|テンプレート:Color]] DSQ |
ALG |
BRN |
PRI |
ZOL |
13位 | 10 |
ドイツツーリングカー選手権
(key) (太字 はポールポジションで、 斜字 はファステストラップを指す)
年 | 所属チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | アプト・スポーツライン | アプト アウディ・TT-R | HOC QR 10 |
HOC CR 6 |
ZOL QR 12 |
ZOL CR 18 |
DON QR 7 |
DON CR 5 |
SAC QR 21 |
SAC CR DNS |
NOR QR Ret |
NOR CR 12 |
LAU QR 10 |
LAU CR Ret |
NÜR QR 6 |
NÜR CR 12 |
A1R QR 13 |
A1R CR 16 |
ZAN QR 9 |
ZAN CR 19 |
HOC QR 4 |
HOC CR Ret |
14位 | 3 |
2003 | アプト・スポーツライン | アプト アウディ・TT-R | HOC 15 |
ADR 12 |
NÜR 16 |
LAU 13 |
NOR 11 |
DON 15 |
NÜR 11 |
A1R 16 |
ZAN 8 |
HOC 17 |
16位 | 1 |
FIA GT1
年 | 所属チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010 | スイス・レーシングチーム | 日産・GT-R GT1 | ABU QR 9</br> |
ABU CR 14</br> |
SIL QR 15</br> |
SIL CR Ret</br> |
BRN QR 12</br> |
BRN CR 10</br> |
PRI QR 21</br> |
PRI CR 15</br> |
SPA QR 16</br> |
SPA CR 12</br> |
NÜR QR 14</br> |
NÜR CR 10</br> |
ALG QR Ret |
ALG CR 20</br> |
NAV QR 14</br> |
NAV CR Ret</br> |
INT QR 17</br> |
INT CR 18</br> |
SAN QR 7</br> |
SAN CR Ret</br> |
43位 | 2 |
2011 | スイス・レーシングチーム | ランボルギーニ・ムルシエラゴ R-SV | ABU QR 10</br> |
ABU CR 7</br> |
ZOL QR 4</br> |
ZOL CR 4</br> |
ALG QR 10</br> |
ALG CR 5</br> |
SAC QR 12</br> |
SAC CR Ret</br> |
SIL QR |
SIL CR |
NAV QR |
NAV CR |
PRI QR |
PRI CR |
ORD QR |
ORD CR |
BEI QR |
BEI CR |
SAN QR |
SAN CR |
16位 | 31 |
F1での戦歴
- 1991年 (レイトンハウスCG911・イルモア) 最高位20位 : ノーポイント
- 1992年 (マーチCG911B・イルモア) 最高位4位 : ランキング12位(3ポイント)
- 1993年 (ザウバーC12・イルモア[7]) 最高位4位 : ランキング12位(7ポイント)
- 1994年 (ザウバーC13・メルセデス) 最高位4位 : ランキング18位(4ポイント)
- 1995年 (ザウバーC14・フォード) 最高位10位 : ノーポイント
- ベストグリッド : 5位
- 決勝最高位 : 4位
注釈
- ↑ 祖父も父も名前は『カール・ヴェンドリンガー』
- ↑ その後14周でレースが中止となったため、扱い上は完走している。
- ↑ このクラッシュを契機にザウバーは翌第5戦スペインGPから独自に頭部を保護するサイドプロテクターを導入した。1995年最終戦オーストラリアGPでのハッキネンの大クラッシュもあり、1996年からレギュレーションでサイドプロテクターが義務付けられるきっかけになった。
- ↑ 『F1グランプリ特集』1994年12月号、ソニーマガジンズ、1994年、74頁。
- ↑ 実際には、以前との比較で約200m手前という、通常より遥かに早いタイミングでブレーキングを始める癖が、無意識についてしまっていた。
- ↑ 6.0 6.1 『ミハエル・シューマッハ全記録 1991-2006』 ニューズ出版、2006年、pp.40-41、ISBN 4891074418。
- ↑ 実質的にはメルセデスだったが、あくまでもこの年は名義がイルモアだった。