復活の日
テンプレート:Portal 『復活の日』(ふっかつのひ)は、小松左京が1964年に書き下ろしで発表した日本のSF小説である。また、同作を原作に、(旧)角川春樹事務所とTBSの製作により、1980年6月に東宝系で公開されたSF映画である。英題は“Virus”。
概要
小松にとっては『日本アパッチ族』に次ぐ長編第2作であり、バイオテクノロジーによる破滅テーマの本格SFとしては日本ではこれが嚆矢になった。執筆当時の香港かぜの流行、東昇の『ウイルス』、カミュの『ペスト』『戒厳令』、南極には風邪がないと記された岩波新書の『南極越冬記』、また冷戦時代の緊張下で同じく人類滅亡を扱ったネビル・シュートの『渚にて』を下敷きとしている[1]。本作で地震について調べたことが、代表作『日本沈没』にも繋がったという[2]。そして、福島正実の企画による早川書房の初の日本人SF作家による長編シリーズ「日本SFシリーズ」の第1巻となった[3][4]。
SF作家の堀晃は、日本のSFのレベルを引き上げたと高く評価した[5]。評論家の石川喬司は、細菌兵器による終末テーマのSFの代表的な作品の一つとして扱っている[6]。
題名は当初は考えておらず[7]、掲載するに当たって急遽思いついたのだという。
内容
生物兵器に使うため弱毒化する過程で出来た、猛毒の新型ウイルス MM-88がスパイによって持ち出される。スパイの乗った航空機は、吹雪のため前方視界不良に陥り、岩山に激突し墜落した。やがて、春が訪れ気温が上昇すると、MM-88は増殖を始め、全世界に蔓延した。そして、夏には人類を含む脊椎動物のほとんどが絶滅し、わずかに生き残ったのは極寒(北半球とは季節が正反対で真冬)の南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人(映画では863人)と蔓延前に出航していた原子力潜水艦の乗組員[8]だけであった。
絶望の中から再建の道を模索する彼らだったが、日本隊の地質学者・吉住がワシントンへの巨大地震の襲来を予測する。そしてこの地震による被害を「敵国」の核攻撃と誤認する米のARS(自動報復装置)によってソ連本土に核ミサイルが撃ち込まれ、さらにこれを受けてソ連のARSも作動し、南極も含めた全世界に核弾頭付き ICBM が降り注ぐ危険が判明する。吉住は自ら志願して、ホワイトハウス・イーストウイング内危機管理センターのスイッチをオフにする為に、ふたたび死の世界へと赴く。
用語
- MM-88
- 原作では、MM-88によって変異したインフルエンザは「チベット風邪」と呼称される(原作の記述によれば、最初の発生地域はスイスとイタリアの国境周辺であるが、作品世界内ではそういう認識はない)。米国が大気圏外から無作為に採取し、生物兵器として使える可能性があるとしてフォート・デトリック(メリーランド州フレデリックにある陸軍感染症医学研究所の通称)で研究されていた微生物「RU-308」を英国の息がかかったスパイが盗み出し、ポーツマス近郊の英国細菌戦研究所の研究員グレゴール・カールスキィ教授が継代改良した88代目の菌種(原作のある登場人物によれば、MMとは「火星の殺人者(マーシアン・マーダラー)」の頭文字)。増殖率・感染率・致死率があまりにも高いために生物兵器としては強力すぎるとの理由からカールスキイ教授はこれを弱毒化して「実用化」を目指していたが、MM-88はレガシーのMM-87比で2000倍の毒性を獲得してしまった。
- 教授は職業的倫理観や良心の咎め、MM-88が万が一にも外に漏れた場合の人類滅亡の可能性を思ううちにノイローゼとなり、職業スパイを通じてMM-88株をチェコスロヴァキアの著名な分子生物学者に送り、東西合同で対抗薬品を研究・開発させる事を思い立つ。しかしスパイたちの乗った逃走用の飛行機はイタリアのアルプス山中に墜落、MM-88菌は世界にばら撒かれる結果になった。
- 映画では「イタリア風邪」と呼称される(原作の最初の発生地点と同じ。ただし映画ではカザフスタンが最初の発生地点となっている)。「フェニックス計画」という遺伝子操作による生物兵器開発により生成されたが、研究所から盗み出された。その後、東ドイツ・ライプツィヒの陸軍細菌研究所からクラウゼ教授によって持ち出され、西側のスパイの手に渡ったが、スパイのセスナ機がアルプス山中で墜落したために墜落。春になって気温が上がるのと共に全世界に蔓延することになる。
- フォート・デトリックでRU-300系列を研究していたマイヤー博士は、世界をMM-88の惨禍が襲う中でその正体がRU-308であると気づいたが、時既に遅く、破滅を食い止めることはできなかった(映画では、メリーランド大学細菌研究所から防衛監視委員会に告発しようとしたが、ランキン大佐によって精神病院に入院させられてしまい、後にバークレイ上院議員によって解放されたが、大統領の手によって極秘事項にされた)。
- 絶対低温・絶対真空の宇宙空間に存在していたMM-88は、地球上の環境では強烈な増殖率を持つ。摂氏マイナス10度前後から萌芽状態にもかかわらず増殖し、マイナス3度以上で100倍以上、摂氏5度以上で毒性を持ち始めるが、その段階の増殖率は、マイナス10度段階の20億倍。
- MM-88は増殖・感染する核酸のみの存在[9]で、ブドウ球菌に似た特定の球菌を媒介としてインフルエンザウイルスを含む「ミクソウイルス群」に寄生した状態で人体に侵入すると、ヒトの神経細胞の染色体に取り付き、変異を起こさせる。変異を起こした神経細胞は神経伝達物質の生成と伝達を阻害され、感染者は急性の心筋梗塞様の発作を起こして死亡するか、急性全身マヒに陥って死亡する。
- 大気中のMM-88は宿主となるウイルスの増殖力・感染力を殺人的に増加することで大規模な蔓延を引き起こす。人間だけではなく鶏などの伝染病としても蔓延し、鶏卵が高騰して防疫体制が深刻なダメージを受ける描写もある(通常のワクチン製造には鶏卵が大量に必要である為)。
- 細菌でもウイルスでもないMM-88にはワクチンも抗生物質も効果がなく、ウィルスに寄生するそのメカニズム、増殖・感染する核酸という理論が、軍事機密というベールの中で発見されたため、世界の防疫体制はMM-88の正体を知らぬまま壊滅した。南極の科学ブレーンの一人、ド・ラ・トゥール博士により、半ば偶然に発見された唯一の対抗手段は、原子炉内での中性子線照射によって生まれた人体には無害な変異体[10]によって、MM-88の増殖を抑える事だけであったが……。
- ARS(Automatic Reaction(Revenge) System)
- 米国の狂信的な反共軍人・ガーランド中将(映画での階級は統合参謀本部議長)が反共主義の前大統領・シルヴァーランドと共に造り上げた「全自動報復(または「反応」)装置」。相互確証破壊戦略の確度を上げるため、軍の施設がソ連の攻撃を受けて破壊された場合、その施設と一定時間の通信を行い、応答が無い場合はソ連へ向けて報復のための全面核攻撃を全自動で実施するシステム。ホワイトハウスの大統領危機管理センターにある切り替えスイッチにより作動する。
- シルヴァーランドの後に就任したリチャードソン大統領はこのシステムの廃棄を意図していたが、ガーランド以下、軍内部の反共勢力の強硬な反対により果たせず、まず全面軍縮を実現させてからARSシステムを無用の長物と化してしまおうと目論んでいた矢先に、世界はMM-88によって滅亡するが、MM-88の蔓延をソ連の生物兵器による攻撃であると盲目的に確信していたガーランドは、死の直前にARSシステムのスイッチを入れ、起動させる。
- ワシントンへ赴いた吉住とカーター少佐の目的は、起動している可能性のある(映画ではネレイド号が通信によって作動を確認した)ARSシステムが、大地震によるアラスカ方面の軍事施設の破壊(映画ではワシントンD.C.自体の大地震)を核攻撃と誤認して作動するのを防ぐために、スイッチを切る事にあった。
- 反動政治家シルヴァーランドの時代は恐怖政治が猛威を振るい、米ソは全面戦争の一歩手前まで行っていたという(「ケネディの選んだ道を強引に引き返した」とされ、保守的な軍人でさえも「アメリカの後進性に絶望」した。観測隊員の一人が“20世紀のアッティラ”“ホワイトハウスのネロ”とまで評した)。その為、対抗上ソ連側も全く同じARSシステムを保有せざるを得なかった(細部が異なるが「自動報復装置」として実在する。相互確証破壊#旧ソビエト連邦の自動報復システム参照)。そしてシルヴァーランドは南極にも極秘で軍事基地を建設しており、これを知ったソ連側は南極を核ミサイルの射程に置いた、とされた(が、原作のラストでは…)。
映画
テンプレート:Infobox Film 角川春樹事務所とTBSが共同製作し、東宝が配給した1980年の日本映画。南極ロケを実施して総製作費は25億円とも32億円ともいわれたSF大作映画である[11][12]。本来は1980年の正月映画として封切り予定だったが、製作の遅れから公開に間に合わなくなった。そのため『戦国自衛隊』が正月作品として取って代わり、本作は半年遅れで公開された[13]。
1970年代、角川春樹が社長に就任した角川書店では角川文庫を古典中心からエンターテインメントに路線変更を図り、特に日本のSF小説に力を入れていた。本作も早川書房から刊行されていたものを、1975年に角川文庫から再刊した[14]。また当時、角川は映画製作事業も開始しており、いわゆる角川映画の一作として白羽の矢が立った。角川春樹は社長に就任するとすぐ小松に文庫化を依頼し、映画化の際には小松に「これを映画化するために会社を継いだ」と語ったという。角川春樹は自著でも、映画製作を行うようになったのは『復活の日』がきっかけと述べている[15][16][17]。1976年に『犬神家の一族』で角川映画を始めるにあたり、『復活の日』は『いつかギラギラする日』とともに当初から映画化候補でもあった[18][19]。
壮大なスケールの原作の映像化にふさわしく、当初14億円から15億円の予定だった製作費は、南極ロケの実施により18億円になり、最終的には25億円に達した[12]。ヤクザ映画を多く撮ってきたからミスマッチという周囲の猛反対の声をおして、角川春樹が深作欣二を監督に起用[20]。撮影監督は東宝専属だった木村大作。小松左京の『日本沈没』を監督した森谷司郎も『復活の日』をやりたがっていたが、「監督は深作欣二か。大作と合うよ」と、『動乱』『漂流』で起用予定だった木村を送り出した[21]。その他、深作監督の下、日活と東宝と東映からなる日本人スタッフとカナダ人の混成チームで[22]、外国人俳優も多数参加した。撮影には1年以上をかけ、日本国外のロケに費やした日数は200日を数えた。南極やマチュ・ピチュでロケが行なわれた。
35mmムービーカメラで南極大陸を撮影したのはこの映画が世界初である。南極ロケについては40日をかけて、それだけで6億円の予算がかかった[23]。当初は、日本の北海道ロケで済まそうという話もあったが、木村大作はそれなら降りると主張し、深作欣二のこだわりもあって、南極ロケが実施された[12][24]。小松でさえ、映画化の話を聞いたときはアラスカかグリーンランドでロケをするのだろうと思っていたという[25]。南極ロケでは座礁事故を起こし、共同通信の記者が乗り込んでいたことから一般ニュースとして日本で報道され[26] 、それのみならず『ニューヨーク・タイムズ』の1面でも報じられた。チリ海軍とカナダ海軍の協力で本物の潜水艦(シンプソン・オカナガン)を撮影で使用するなど、話題には事欠かなかった[27][28]。世界各地の様子を知るために、昭和基地のアマチュア無線で情報収集をする様子が描かれている。
国内公開では配給収入が24億円とヒットしたものの[11]、製作費が巨額だったため、宣伝費等を勘案すると赤字であったとされる。本作がきっかけとなって、角川映画は1970年代の大作志向から、1980年代は薬師丸ひろ子ら角川春樹事務所の所属俳優が主演するアイドル路線のプログラムピクチャーに転換した[29][30][31]。
角川と共同製作したTBSは、1980年4月から放送した連続テレビドラマ『港町純情シネマ』の第10回「復活の日」(1980年6月27日放送)で、西田敏行演じる映写技師が本作の場面を流すタイアップを行なった。放送日は映画公開前日だった。
これまでに『日本沈没』『エスパイ』などが映画化されている小松であるが、本作を非常に気に入っており、自作の映画化作品で一番好きだという[32][33]。ただし、『さよならジュピター』企画当時にSF大会で行われた野田昌宏との対談で「(撮影の)木村大作さんの絵はものすごくいいんだけど…」などと、かなり否定的(特に深作の演出に対して)なコメントもしている。映画評論家の白井佳夫は、1980年の日本映画のワーストテンとして本作を選び[34]、深作ファンだった井筒和幸は出来にがっかりし[35]、押井守もがっかりして小松左京は『日本沈没』を除けば映画化に恵まれなかったとの感想を述べている[36]。
2011年3月16日と3月20日にV☆パラダイスで放送予定していたが、直前に起こった東日本大震災への考慮で放送中止となった。
2012年に「角川ブルーレイ・コレクション」の一作品としてブルーレイディスク化。
なお、1965年に映画化の話があったが、合作でないと日本では無理との東宝の判断で英訳して、20世紀フォックスに渡した。当時、フォックスに出入りしていたマイケル・クライトンが4年後の1969年に類似テーマの『アンドロメダ病原体』を出版、ベストセラーとなり、映画化もされ小松を驚かす[14][37]。
スタッフ
- 製作:角川春樹
- 監督:深作欣二
- 原作:小松左京(角川文庫版)
- プロデューサー:岡田裕、大橋隆
- 脚本:高田宏治、深作欣二、グレゴリー・ナップ
- 撮影:木村大作
- 撮影補佐:岸本正広
- 照明:望月英樹
- 美術:横尾嘉良
- 美術助手:小川富美夫
- 録音:紅谷愃一
- 編集:鈴木晄
- 記録:小山三樹子
- 演出補佐:高須準之助
- 制作担当:長岡功、スーザン・ルイス、天野勝正
- 助監督:手塚昌明
- 音楽プロデューサー:テオ・マセロ(Teo Macero)
- 音楽:羽田健太郎
- 音楽監督:鈴木清司(鈴木音楽事務所)
- 音楽監督補佐:高桑忠男(東映音楽出版)
- 主題歌:ジャニス・イアン「ユー・アー・ラブ(Toujours gai mon cher)」
- 作詞:ジャニス・イアン
- 作曲:テオ・マセロ
- 翻訳:清水俊二、戸田奈津子
- 現像:東洋現像所、フィルムハウス(トロント)
- 角川春樹事務所・東京放送提携作品
キャスト
- 南極日本隊
- 南極アメリカ隊
- コンウェイ提督:ジョージ・ケネディ
- カーター少佐:ボー・スヴェンソン
- サラ・ベーカー:ステファニー・フォークナー(Stephanie Faulkner)
- 無線係:ニコラス・キャンベル(Nicholas Campbell)
- 南極ソ連隊
- ボロジノフ博士:クリス・ウィギンス(Chris Wiggins)
- ネフスキー大佐:ジョン・エヴァンス(John Evans)
- 南極ノルウェイ隊
- マリト:オリヴィア・ハッセー
- グリィ:ジョアン・ベンダム
- 各国南極観測隊
- ロペス大尉:エドワード・ジェームズ・オルモス
- ラトゥール博士:セシル・リンダー(Cec Linder)
- イルマ・オーリッチ博士:イブ・クロフォード
- ネレイド号乗組員
- マクラウド艦長:チャック・コナーズ
- ジョーンズ大尉:ケン・カメルウ(Ken Camroux)
- T232号乗組員
- スミノルフ少尉:ジャン・ムジンスキー(Jan Muszynski)
- 電探係:チャールズ・ノースコート(Charles Northcote)
- 日本本土
- アメリカ本土
- リチャードソン大統領:グレン・フォード
- バークレイ上院議員:ロバート・ヴォーン
- ガーランド将軍(統合参謀本部議長):ヘンリー・シルヴァ
- ランキン大佐:ジョージ・トゥリアトス(George Touliatos)
- マイヤー博士:スチュアート・ギラード
外国語版
国際市場を意識して、外国人俳優を起用して海外ロケを行い、当初は監督と脚本に外国人スタッフを打診した[38]。アメリカ人スタッフによる編集で海外版を制作したものの、海外セールスは好調とはいかなかったとされる。オリジナルと異なる点は主に以下の通り。
- 尺が短くなっている。
- 日本本土のシーンがほとんどカットされている。
- エンディングシーンにつながる放浪シーンを冒頭に置くなど、シーンの順序が入れ替えられている(例えば、南極に潜水艦が登場するシーンは、日本版では南極連合会議が女性観測隊員への暴行事件等に関する事項の審理中に登場するが、外国語版では創設会議中に登場する事等)。
- 登場人物の行動の理由が変更されている箇所がある(例えば、辰野隊員の失踪シーンは、日本版では息子の声の幻聴で基地を飛び出すが、外国語版では無線交信を行っていたアメリカのニューメキシコ州の少年の拳銃自殺の直後になっている等)。
受賞歴等
- キネマ旬報ベスト・テン 読者ベスト・テン 3位
- ブルーリボン賞 ベストテン
- 優秀映画鑑賞会ベストテン 8位
- 映画芸術 ワーストテン 7位
- シティロード 読者選出ベストテン
- 文化庁優秀映画製作奨励金交付作品
- 毎日映画コンクール
- 日本映画優秀賞
- 録音賞(紅谷愃一)
- 日本アカデミー賞 最優秀録音賞(紅谷愃一)
復活の日 人類滅亡の危機との闘い
新井リュウジによる児童向けのリメイク作品として、『復活の日 人類滅亡の危機との闘い』が2009年にポプラ社から出版された(ISBN 978-4-591-11137-6)。時代を21世紀初頭に移しており、それに伴うものや児童向けを理由とする改変がされているが、大筋では原作のストーリーそのままである。新井は「児童向けの翻訳」であるとうたっている。主な変更点は次の通りである。
- 時代の進歩にあわせて、作中登場する固有名詞が変更されており(たとえば「巨人X東映」が「X中日」に。東映はのちに球団名も変わり、北海道日本ハムになっている)、インターネットの活用や国際宇宙ステーションの生き残りとの交信といった要素を登場させている。
- 世界を原作よりは早く、苦痛の無い姿であっけなく全滅させ描写の悲惨さをおさえている。
- この作品では、MM-88は欧米では「悪魔風邪」、日本では「チベット風邪」と呼ばれており、別々の新型ウイルスと考えられていたため、対策が遅れたと描かれている。
- 吉住の恋人・則子を、吉住の妹に変更している。
- アメリカ大統領リチャードソンは、原作とは違い当初はタカ派人物として描かれている。
- ネーレイド号がアメリカ海軍の所属になっており、ネーレイド号とT-232号が感染しなかった理由も新しく追加されている。
- 吉住がラストシーンで帰還したときの脳障害の描写を「ひどい精神の疲れ」と言い換えるなど、悲惨な描写を抑えている。
- 原作で描かれた「子孫を残す」ことや、決死隊の出発前夜の女性との同衾の描写については変更している。
関連項目
- アウトブレイク
- 感染列島 - 同じく新型ウイルスによるパニックを描いた作品(2009年)。
- ブルーシティー‐星野之宣によるSF漫画作品(1976年)。猛毒ウィルスが地上に蔓延し6・9指令(99.9999%の生物の死滅)を発動、生き残ったのは海底都市ブルーシティだけとなる。
- 地球最後の男オメガマン
- アイ・アム・レジェンド
註
外部リンク
テンプレート:深作欣二- ↑ 小松左京『SFへの遺言』光文社、1997年、p.124。
- ↑ 小松左京『小松左京のSFセミナー』集英社文庫、1982年、p.221.
- ↑ 小松左京『小松左京自伝 ――実存を求めて――』日本経済新聞社出版社、2008年、pp.63,130-134.
- ↑ 福島正実『未踏の時代』早川書房、1977年、pp.136-145.
- ↑ 堀晃「復活の日 作者と作品」『世界のSF文学・総解説』自由国民社、1992年増補版、pp.246-247.
- ↑ 石川喬司『IFの世界』毎日新聞社、1978年、p.201.
- ↑ 小松左京『題未定』に詳しく書かれているが、小松は題名を考えずに小説を書く
- ↑ 原子力潜水艦は通常の潜水艦と異なり、艦内の空気を長期間自己完結させるほか、海水電解で空気を精製させることが出来るため。詳しくは同項目を参照。
- ↑ 小説発表時にはこのようなものは知られていない、空想上の病原体であったが、後に高等植物に感染するウイロイドや細菌に感染するプラスミドなどの「増殖・感染する核酸」の実在が知られるようになった
- ↑ 映画版ではワクチンとして扱われている
- ↑ 11.0 11.1 永塚敏「'80日本映画界トピックス」『シネアルバム 日本映画1981 '80年公開映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1981年、p.189
- ↑ 12.0 12.1 12.2 生江有二「阿修羅を見たか 角川春樹と日本映画の20年 第8回 白夜の中で」『週刊ポスト』1998年5月22日号、p.159
- ↑ 「邦画新作情報」『キネマ旬報』 1979年5月下旬号、p.180
- ↑ 14.0 14.1 小松左京「巻末インタビュー」『復活の日』ハルキ文庫、1998年、ppp.442-443
- ↑ 『SF魂』p.141
- ↑ 角川春樹『試写室の椅子』角川書店、1985年、pp.126,137.
- ↑ 『SF魂』p.159.
- ↑ 生江有二「阿修羅を見たか 角川春樹と日本映画の20年 第4回 無謀な挑戦」『週刊ポスト』1998年4月17日号、p.145
- ↑ 生江有二「阿修羅を見たか 角川春樹と日本映画の20年 第7回 『時代』へのアンチテーゼ」『週刊ポスト』1998年5月8日・15日合併号、p.163
- ↑ 「FRONT INTERVIEW NO.157 角川春樹」『キネマ旬報』2008年6月下旬号、p.6
- ↑ 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、pp.78-79
- ↑ 木村・金澤(2009年)、p.82
- ↑ 生江有二「阿修羅を見たか 角川春樹と日本映画の20年 第8回 白夜の中で」『週刊ポスト』1998年5月22日号、p.160
- ↑ 金澤誠聞き手・文「風にふかれて気のむくままに 木村大作「劔岳 点の記」への道、」第5回「復活の日」篇1『キネマ旬報』2009年1月上旬号、キネマ旬報社
- ↑ 角川書店版「あとがき」より)
- ↑ 富山省吾「プロデューサー・田中友幸の思い出」『ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』木原浩勝、志水俊文、中村哲編、角川書店、2010年、p.134
- ↑ 深作欣二、山根貞男『映画監督深作欣二』ワイズ出版、2003年、pp.374-384.
- ↑ 金澤誠聞き手・文「風にふかれて気のむくままに 木村大作「剣岳 点の記」への道、」第6回「復活の日」篇2『キネマ旬報』2009年1月下旬号、キネマ旬報社
- ↑ 樋口尚文『『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画』筑摩書房、2004年、pp.223-p230.
- ↑ ひげじい「キネマの天地とハリウッドに見る20世紀の映画事情」『20世紀死語辞典 20世紀死語辞典編集委員会編』太田出版、2000年、p.276.
- ↑ 磯田勉「角川映画のアイドル戦略」『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.97
- ↑ 『小松左京自伝』p.330.
- ↑ 『SF魂』p.148.
- ↑ 松浦総三『スキャンダラスな時代 80年代の週刊誌を斬る』幸洋出版株式会社、1982年、p.78
- ↑ 井筒和幸『ガキ以上、愚連隊未満。』ダイヤモンド社、2010年、p.78
- ↑ 『完全読本さよなら小松左京』徳間書店、2011年、p.279
- ↑ 小松左京『SF魂』新潮新書、2006年、p.141
- ↑ 『映画監督深作欣二』pp.376-377.