川越街道
川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。この旧道とほぼ平行して、または旧道を拡幅して、国道254号が建設され、現代では東京都豊島区の池袋から埼玉県川越市に至る国道254号の街道名ともなっている。
目次
起点・終点
ただし、現在の道路では国道254号の
なお、池袋六ツ又交差点から日本橋方面に向う国道254号は現在は春日通りの名が付いている。
歴史
室町時代の長禄元年(1457年)、上杉持朝の家臣・太田道灌が江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永16年(1639年)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。川越往還とも呼ばれた。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、埼玉県道109号新座和光線)。街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。川越からはさらに児玉街道となり上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて川越児玉往還とも言う。中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり五街道に準じる街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。物資の輸送を行う新河岸川舟運と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の参勤交代の道でもあったが、距離が短く大名の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。
寛政年間に江戸で焼き芋が流行すると、文化年間に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝コピーとして、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。
新座市の北の入間郡三芳町、ふじみ野市近辺では、現在も街道筋の「藤久保の松並木」「竹間沢の欅並木」などが残り、当時の風情を伝えている。またこのために拡幅を避けて富士見川越バイパスが建設された。またふじみ野市亀久保など一里塚跡が残っている箇所も少なくない。道標として馬頭観音もあちこちに残っている。
宿駅の一覧
- 板橋宿(東京都板橋区):現在の平尾交番付近。
- 上板橋宿(東京都板橋区):豊敬稲荷神社に板橋区教育委員会の設置した板橋宿の碑がある。
- 下練馬宿(東京都練馬区):浅間神社に練馬区教育委員会の設置した下練馬宿の碑がある。
- 白子宿(埼玉県和光市):現在の白子郵便局付近。
- 膝折宿(埼玉県朝霞市):現在の膝折宿町内会館付近。
- 大和田宿(埼玉県新座市):鬼鹿毛の馬頭観音に新座市教育委員会の設置した大和田宿の碑がある。
- 大井宿(埼玉県ふじみ野市):現在の「大井中宿」バス停付近。
- 川越宿(埼玉県川越市):城下町であるが、川越の商人町である上五ヶ町の1つ「高澤町」(たかざわまち)から北の一帯に旅籠が多かった。
大井宿から川越宿の間に藤馬中宿もあった(現在の川越市藤間)。各宿場には、川越城のある川越から見て「上宿」「中宿」「下宿」が置かれ、それぞれに本陣や脇本陣があった。宿場の出入口には木戸が設けられ警備が行われた。
朝霞市「膝折(ひざおり)」はかつて村だったがこの地名の由来は、ある武士の馬がこの付近で足を骨折したためといわれている。また別に、江戸から徒歩で川越まで歩く行程でくたびれ、膝が痛くなり、さらに歩き鶴ヶ島市「脚折(すねおり)」では脚が折れるほどくたびれたことから、それぞれ膝折と脚折と呼ばれたとも言われ、この二か所は対(つい)となっている。
大正3年(1914年)、川越街道に沿って池袋駅から田面沢駅を結ぶ東上鉄道(現、東武東上線)が開通し、鉄道時代の幕開けとなった。
昭和初期になると、交通手段は徒歩から自動車となり、川越街道も東京都内において道路拡張工事がなされ、現在の川越街道の形になった。旧川越街道は部分的に現在の国道254号と重なる。関越自動車道が開通するまでは交通情報の渋滞名所として名高かった上板橋の「五本けやき」は、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したもので、現在も道路の中央に5本のけやきが残っている。
通過する自治体
現道
沿線の主な施設
東京都
- 豊島区
- 板橋区
埼玉県
- 和光市
- 朝霞市
- 新座市
- 三芳町
- 富士見市
- ふじみ野市
- 川越市
川越・児玉往還
川越・児玉往還は、江戸から川越を経て上州藤岡を結ぶ、川越街道と児玉街道を合わせた28里半の道で、中山道の脇往還だった。中山道脇往還川越道とも言う。巡見使や役人は主にこの街道を通った。また女性の利用者が多く「姫街道」という呼称が残っていることでも知られる[1]。川越から先の児玉往還(塚越宿・石井宿・高坂宿・菅谷宿・志賀宿・奈良梨宿・今市宿・赤浜宿・小前田宿・広木宿・児玉宿・藤岡宿)の旅には通常さらに3日を要した。
概要
江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は大名などが利用していたのに対し、川越・児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短い事もあり、その通行者はかなり多かったようである。
現在では、国道254号がこのルートをほぼ平行しているが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市~東松山市間(川島町を経由)や嵐山町~寄居間(小川町を経由)などで一部区間が異なる。
行程
川越・児玉往還の全行程を示す。通し番号付きが宿場であり、「何番の宿場(宿場町)」であるかを示す。江戸側が上り、上州(藤岡)側が下りである。
宿場 | 江戸期の行政区分 | 現在の自治体 | 過去の自治体 | 特記事項 | ||||
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令制国 | 郡 | 都道府県 | 市区町村 | |||||
川越街道 | 起点:日本橋 | 武蔵国 | 豊島郡 | 東京都 | 中央区 | ここから板橋宿平尾追分までは中山道。 | ||
1. 板橋宿 | 板橋区 | 平尾追分で中山道から分岐。 | ||||||
2. 上板橋宿 | ||||||||
3. 下練馬宿 | 練馬区 | |||||||
4. 白子宿 | 新座郡 | 埼玉県 | 和光市 | 北足立郡白子村 | ||||
5. 膝折宿 | 朝霞市 | |||||||
6. 大和田宿 | 新座市 | 北足立郡大和田町 | ||||||
7. 大井宿 | 入間郡 | ふじみ野市 | 入間郡大井町 | 川越宿との間に藤馬中宿あり。 | ||||
8. 川越宿 | 川越市 | 川越城下。ここまでが川越街道。 | ||||||
児玉街道 | 児玉街道はここを起点とする。 | |||||||
9. 塚越宿 | 坂戸市 | 入間郡勝呂村 | ||||||
10. 石井宿 | ||||||||
11. 高坂宿 | 比企郡 | 東松山市 | 比企郡高坂村 | |||||
12. 菅谷宿 | 比企郡 | 嵐山町 | ||||||
13. 奈良梨宿 | 小川町 | 比企郡八和田村 | ||||||
14. 今市宿 | 男衾郡 | 大里郡 | 寄居町 | 大里郡男衾村 | ||||
15. 赤浜宿 | ||||||||
16. 小前田宿 | 榛沢郡 | 深谷市 | 大里郡花園町 | |||||
17. 広木宿 | 那珂郡 | 児玉郡 | 美里町 | 児玉郡松久村 | ||||
18. 児玉宿 | 児玉郡 | 本庄市 | 児玉郡児玉町 | |||||
19. 藤岡宿 | 上野国 | 緑野郡 | 群馬県 | 藤岡市 | 下仁田道(上州姫街道)と結ぶ。 |
現在の平行道路
- 国道254号(板橋区~川越市川越城)
- 埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線(川越城~石原町交差点)
- 埼玉県道256号片柳川越線(石原町交差点~坂戸市高坂橋交差点)
- 国道407号(高坂橋交差点~東松山市東松山橋南交差点)
- 埼玉県道344号高坂上唐子線(東松山橋南交差点~上唐子交差点)
- 国道254号(上唐子交差点~嵐山町菅谷交差点)
- 埼玉県道296号菅谷寄居線(菅谷交差点~深谷市花園橋北交差点)
- 埼玉県道175号小前田児玉線(花園橋北交差点~美里町野中交差点)
- 国道254号(野中交差点~藤岡市)
関連道路
- 和光富士見バイパス
- 富士見川越バイパス
- 埼玉県道109号新座和光線(通称:旧川越街道)
関連項目
外部リンク
- 1967年頃の練馬区北町一丁目の街道風景 - 練馬区役所
脚注
- ↑ 群馬県下仁田町での呼称