家族そろって歌合戦
『家族そろって歌合戦』(かぞくそろってうたがっせん)は、1966年4月24日から1980年12月28日までTBS系列局で放送された、視聴者参加型の歌合戦番組である。幹事局はTBSであったが、後述のとおり各地の放送局が持ちまわりで製作・配信を担当していた。
目次
概要
放送時間が近かった『NHKのど自慢』のように、全国各地をめぐる一般参加の歌合戦だった。リスさんチーム、キツネさんチームなど、動物の名を冠した家族単位のグループで出場した。収録は、全国各地の市民会館などで行われていた。そのため、公開放送を茶の間ではなくホール会場で直接見たいのであれば、前もって系列局宛に観覧したい旨の葉書を送らなければならなかった。
CM前に司会の獅子てんや・瀬戸わんやとアシスタントが「テレビを御覧の皆様にはスポンサーからのお知らせを〜どうぞ!」(首を横に振りながらカメラがズームアップしていた)のせりふを発する。歌合戦とはいえ、スリルを味わうものではなく、ほのぼのさと学芸会気分を味わえることをコンセプトにしていた。
愛知県西尾市での公開録画が行われた1980年12月28日放送分(ゲストは浅野ゆう子・岡崎友紀)をもって14年半の歴史に幕を閉じた。
放送時間
いずれもJST。
- 日曜 13:30 - 14:30 (1966年4月 - 1969年3月)
- 日曜 13:15 - 14:25 (1969年4月 - 1979年9月)
- 日曜 13:00 - 13:55 (1979年10月 - 1980年12月)
ルールと賞品
- 毎週8チーム(1チーム3人)計24人(末期では6チーム、計18人)の家族が出場、トーナメント形式で争われる。
- 1回戦および決勝はチーム全員でステージ中央にあるスタンドマイクで歌う。準決勝は各チーム1人ずつ(放送時間が1時間となった末期は1人がソロ・残り2人はデュエット)がハンドマイクで歌う。どちらも歌が終わったところで審査員が投票し、演奏ジングルと同時にトーナメントパネル[1]の動物が上昇し、残った方のチームが上位に進出となる。
- 決勝戦は1回戦と同じ形式で歌う。その後投票と同時に、ドラムロールと共に動物が上昇し[2]、残った方が優勝、ファンファーレと共に、ステージ上に吊る下げられたくす玉が割れて、紙吹雪・紙テープ・風船が舞う(中・後期ではくす玉はなかった)。優勝家族は表彰台に(末期ではファミリー賞、最末期では準優勝の家族も)立ち、豪華景品が贈呈された(末期ではてんやからトロフィーも授与)[3]。賞金もある。
- また、ゲスト2人が決めるファミリー賞(賞品は提供スポンサーであるパロマ・東鳩製菓(現・東ハト) → 田中貴金属工業・カゴメ→メナード化粧品・大塚化学(大塚食品) → セキスイハウス(現・積水ハウス)の商品[3])もある。
- 最末期では歌唱賞が1人選ばれ、てんやから盾が贈られた。
- 参加賞は出場者の写真とてんや・わんや、女性アシスタント、審査員のサインが入っている額縁(最末期ではアルバム)である。
補足
- 前期までは審査員がどちらのチームに投票したかを審査員が自ら言っていたが、中期頃からは審査員席の上にランプが設けられ、誰がどのチームに投票したか分かるようになった。
- 末期はトーナメントパネルが新調されたと同時に、ステージのスタンドマイクの両脇に白いバーが設置され、アシスタントが動物のプラカードをはめ込むと審査結果時にトーナメントパネルと同じく動物が上昇、残った方のチームが勝ち抜けであることが観客にも判るようになっていた。
- 8チーム制時代の準決勝は、勝ち上がった4チームが1対1の対戦で2回行われていたが、6チーム制時代は3チームが1対1対1の対戦で1回行われ、審査方法は、全審査員が入れた票数の多かった2チームが決勝進出となるルールだった。なお、この時は動物上昇の演出は省かれた。
その他
この番組に出演したことがきっかけでスカウトされ、プロ歌手としてデビューした人物がやまがたすみこ、倉田まり子である。
また、ヴァイオリニストの悠情は、小学生のときに父・従妹とともに本番組(1978年8月27日放送、愛知県安城市大会)に出場し、優勝を果たしている。[4]
2001年発刊の「TBS50年史」付属DVDに、神奈川県茅ヶ崎市で収録され、千昌夫・小野由紀子がゲスト出演した回が収録されている。放送日は不明だが、マイク横に動物パネル上昇用レールが置かれ、更にレギュラー審査員が市川・笠置・神津・五十嵐・阿部時代だったため、末期と考えられる。
出演者
司会
アシスタント
番組内ではてんや・わんやとともに「司会」としてクレジットされ、オープニングとエンディングでテーマ曲を歌う女性3 - 4人がアシスタント(番組内では「コーラス」とクレジット)として補佐していた。
- 豊原ミツ子(初代[5])
- 渋沢詩子(2代目)
- 天地総子(3代目)
- 須藤敏子(4代目[6]。1970年4月~1972年9月)
- 坂本まり(5代目[7]。1972年10月~1974年8月)
- 加藤幸子(6代目[8]。1974年9月~1977年9月)
- 合田由美(7代目。1977年10月~1979年9月)
- 佐藤梨枝(8代目。1979年10月~1980年12月)
サブ司会
このほか、1979年10月から最終回までフリーアナウンサーの宮内恒雄がサブ司会として加わり、出場家族の紹介等を行っていた(地方収録時は、各局の男性アナウンサーが影読みで担当)。
審査員
- 市川昭介
- 笠置シヅ子
- 神津善行
- 高木東六(審査委員長)→五十嵐喜芳
- 阿部進[1]
- その他、当日のゲスト歌手も審査員を務めた。なお、ゲスト歌手は毎回2組で、1組は準決勝前に、もう1組は決勝戦前に持ち歌を披露していた。
トーナメントに出場するチーム名を示す動物
動物名(登場の時のBGM)
1979年10月の枠縮小でリスさんチーム・ネコさんチームが廃止された。なお「正月スペシャル」などの時には、チームが増える事があった。
テーマソング
作詞:不明/作曲:小川寛興/歌:ベニーシスターズ(前期) → アパッチ(1979年10月 - 最終回)
- オープニングでは1番が、エンディングでは2番が歌われた。
- ベニー時代はマーチテンポだったが、アパッチ時代は一部アレンジされた。
- なお13:15開始時代末期(時期不詳)は、これとは別のオープニングテーマがてんや・わんやと女性アシスタントによって歌われ、その歌に合わせて、てんや・わんや・アシスタントのパペットが踊るオープニングがあった。
ネット局
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 東京放送 | TBS系列 | 現:TBSテレビ |
北海道 | 北海道放送 | ||
青森県 | 青森テレビ | 1969年12月開局から 1975年3月まではNETテレビ系列とのクロスネット局[9] | |
岩手県 | 岩手放送 | 現:IBC岩手放送 | |
宮城県 | 東北放送 | ||
福島県 | 福島テレビ | TBS系列 フジテレビ系列 |
1970年4月より[10] 1971年5月までは日本テレビ系列とのクロスネット局 1971年6月から9月はTBS系列単独加盟局[11] |
山梨県 | テレビ山梨 | TBS系列 | 1970年4月開局から |
新潟県 | 新潟放送 | ||
長野県 | 信越放送 | ||
石川県 | 北陸放送 | ||
静岡県 | 静岡放送 | ||
中京広域圏 | 中部日本放送 | 現:CBCテレビ[12] | |
近畿広域圏 | 朝日放送 | 1975年3月まで[13] | |
毎日放送 | 1975年4月から 腸捻転解消に伴う移行 | ||
島根県 →島根県・鳥取県 |
山陰放送 | 1972年9月17日までの対象地域は島根県のみ 電波相互乗り入れに伴い、1972年9月24日放送分から鳥取県にもエリア拡大 | |
岡山県 | 山陽放送 | 当時の放送エリアは岡山県のみ | |
広島県 | 中国放送 | ||
山口県 | テレビ山口 | TBS系列 フジテレビ系列 |
1970年4月開局から 1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局 |
愛媛県 | 南海放送 | 日本テレビ系列 | [14] |
高知県 | テレビ高知 | TBS系列 | 1970年4月開局から |
福岡県 | RKB毎日放送 | ||
長崎県 | 長崎放送 | ||
熊本県 | 熊本放送 | ||
大分県 | 大分放送 | ||
宮崎県 | 宮崎放送 | ||
鹿児島県 | 南日本放送 | ||
沖縄県 | 琉球放送 |
収録地の系列局が「製作著作」として単独でクレジットされ、ネット局一覧でも先頭に表示された。また、字幕テロップや提供クレジットも各局で用意していたため、局ごとに差異が見られた[15]。ステージのセットも同様で、演奏バンド席(ボックス)も各局で用意した当時の略称ロゴ入りのものを使用していた。
脚注
関連項目
テンプレート:Asbox- ↑ 背景には「山」が描かれており、「優勝」の部分には王冠が描かれていた。そして1回戦前にアシスタントが対戦を発表した後、てんやが「あの動物さんがお山の上を登りまして、王冠を被った組が優勝と、こういう事になっております」と毎回説明していた。なお6チーム制時代は対戦説明は簡略化され、てんやの説明も省かれた。
- ↑ 優勝ファンファーレと同時に動物が上昇するパターンも稀にあった。
- ↑ 3.0 3.1 番組スポンサーではなかったが日本コロムビアの協賛があり、優勝者に電子ピアノ(末期においては、コロムビアの親会社・日立のVHSビデオデッキが贈呈されていた時期もあった)、その他入賞家族にステレオセットやてんとう虫をあしらったレコードプレーヤーなどが贈呈されていた。
- ↑ ゲストは石川さゆり.鈴木隆夫だった
- ↑ 「福島民報」1974年2月15日。交代時期は不明。
- ↑ 「福島民報」1970年5月30日
- ↑ 「福島民報」1972年10月12日
- ↑ 「福島民報」1974年8月6日
- ↑ 1975年3月まではJNNには番販で参加していたため、TBS系列の番組も当初から相当数放送し、制作もするなど事実上クロスネット状態であった。
- ↑ 『福島テレビ開局20周年記念出版 福島テレビ20年史』 福島テレビ、1983年、27頁
- ↑ 1971年9月までのフジテレビ系列局は福島中央テレビ(現在は日本テレビ系列)だった。
- ↑ 自社制作の際は、全国ネット番組ながら、他の制作局に準じて「中部日本放送」ではなく「CBC」とクレジットしていた。
- ↑ 全国高等学校野球選手権大会の開催時、準決勝・決勝と日曜日が重なった場合には大会の中継を優先させたため、当番組は放送休止となった。
- ↑ 1992年9月まではJNNにも番販で参加していた。
- ↑ 例として、CBC製作の回では、オープニングのテロップをクロスフェード(前のテロップが消えると同時に次のテロップを出す)で送出していた