国鉄キハ55系気動車

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テンプレート:鉄道車両 キハ55系気動車(キハ55けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が準急列車用に開発した気動車である。

キハ55系の呼称は国鉄の制式系列呼称ではなく同一の設計思想により製造された形式を便宜的に総称したもので、具体的には新製車であるキハ55形キハ44800形)・キハ26形キロハ25形キロ25形および派生形式のキユニ26形キニ26形キニ56形を指す。

また本項では本系列の基本設計を踏襲して製造された私鉄向け同形車についても解説を行う。

概要

優等列車向けとしては国鉄最初となる準急型気動車で、1956年から1960年にかけて486両が製造され、日本各地に配置された。

在来の蒸気機関車牽引列車を走行性能で凌ぎ、客室設備面でもほぼ同等の水準に達した。勾配線区やローカル線でも高速運転を可能としたことから、日本全国に気動車準急のネットワークを作り上げる原動力となった。

1950年代後期から1960年代初頭に本系列で運転開始された地方線区の準急・急行列車は、日本各地で運転される現行のローカル特急列車の前身となった事例が多数存在しており、それまで幹線主体であった優等列車サービスを、地方の支線級路線に拡大させた車両としての歴史的意義は大きい。

最初に投入された準急「日光」にちなみ当初は『日光形気動車』とも名称されたが、その後同列車に投入された157系電車が「日光形電車」と呼称されたため、その後この名称は衰退した。

登場までの経緯

10系気動車とその2エンジン形車の展開

日本国有鉄道(以下「国鉄」)は1953年に総括制御が可能な普通列車キハ45000系[1]液体式気動車の量産を開始した。160PSDMH17Bディーゼルエンジンを1基搭載し、平坦路線では蒸気機関車牽引列車を凌駕する走行性能を確保したが、勾配路線では出力不足であった。

1954年には、出力強化を目的にDMH17Bを2基搭載としたキハ44600形(後のキハ50形[2]が2両試作され、急勾配区間のある関西本線での試用が実施された。結果は良好で、同形を用いて1955年3月から運転開始された準急列車[3]は、名古屋 - 湊町(現・JR難波)間約180kmを3時間未満で結び、従来に比して大幅な速度向上を実現した。しかし通常型気動車に比べ2m長い全長22mの車体は、一部路線で分岐器の安全装置作動に支障が発覚したため改良も要求された。その結果、1956年に製造開始した量産型のキハ44700形(後のキハ51形)では、床下機器寸法と配置を見直し、併せて機関の推進軸を短縮することで、全長を20.6mに抑えて分岐器問題を解決した。

10系気動車の問題点

エンジン2基搭載車の実用化で走行性能面は改善されたものの、キハ10系は以下に挙げられるような、決して快適な車両とは言い難い課題を抱えていた。

  • 軽量化が最優先された基本構造のため、客車のようなデッキ仕切の設置は見送られた。また車体幅は標準的な客車・電車に比して20cmも狭く、天井も低くされた。
  • 暖房装置は、初期には戦前のガソリン動車同様に排気ガスの廃熱を利用した熱交換式排気暖房であった。排気暖房は非効率で性能不充分なため、途中から軽油燃焼式温気暖房装置への切替を余儀なくされた。
  • 初期型のクロスシートは肘掛けがなく、背ずりは低いビニール張りで当時のバス並みであった。後期型は背ずり高さが拡大され、表面も客車並みにモケット張りとなったが、背ずりの中身は枠と詰め物だけで仕切り板がなく、背中合わせの乗客同士で動きが伝わる作りの悪い構造であった。
  • 台車鋼板プレス加工により組み立てたDT19形を装着するが、乗り心地に重要な役割を果たす枕バネを固い防振ゴムブロックで代用した設計[4]で、充分に振動を吸収できず、特に軸ばね動作が制約されるブレーキ作動時には著しく不快な挙動を示した。

上述問題点の中でも、ことに車内設備は普通列車用としても低水準だったことから、抜本的対策が求められた。

  • 関西本線準急列車では、競合する近畿日本鉄道(近鉄)特急に対して優位となったのは、名阪間直通運転[5]と速達性のみであった[6]

キハ44800形(キハ55形先行量産車)の開発

1955年に国鉄は、当時スイス連邦鉄道(スイス国鉄)で1,000両以上が量産されていた軽量客車(Leichtstahlwagen) を参考にした画期的な構造車体を備える10系客車の製造を開始する。同系列客車は、セミモノコック構造・プレス鋼板溶接組立台車・内装への軽金属プラスチック等の採用により、在来車に比して寸法定員は同一ながら30%の軽量化を実現した。

そこで軽量化対策が最重要課題の一つであった気動車についても、この設計手法を応用することで居住性の改善が期待され、車体寸法や接客設備を従来の客車並みの水準まで引き上げた新形準急用気動車の開発が始まった。翌1956年には東武鉄道1700系特急電車による「日光特急」との競合で苦戦を強いられ、営業面からも抜本的対策が特に強く求められていた日光線準急列車向けとして先行量産車が投入されることとなった。これがキハ44800形 (44800 - 44804) で、三等車のみ5両が製造された。

構造

10系客車同様のセミモノコック構造を採用し、電車・客車同等の車体断面大型化を実現しつつも重量増大を抑制。居住性を大きく改善した。

キハ44700形・キハ44800形 全長x全幅x全高比較(単位mm
  • キハ44700形(キハ51形) 20,600x2,740x3,710
  • キハ44800形(キハ55形) 21,300x2,928x3,890[7]

21.3mの全長は電車・客車を凌ぎ、カーブや分岐器通過に支障のない限界一杯値[8]に設定された。以後この全長は、国鉄在来線旅客車における最大基本規格として現在のJR各社まで踏襲されている。

初期形の特徴

初期生産車はキハ44700形を一回り大きくしたような外見と以下の特徴を持つ。

  • 側窓は従来と同様に上部をHゴム支持の固定窓としたスタンディングウインドウ(いわゆるバス窓)であるが、車体構造の改善で窓下のウインドシル(補強帯)が廃された。
  • 運転台はキハ45000系同様の貫通型であるが、運転台窓はキハ45000系用窓ガラスを流用したため従来同様の小型タイプで、車体断面の拡大が際立った。
  • 塗色は全体を淡い黄色とし、雨樋と窓下に細い帯(二等客室部分は青(青1号)帯)を入れた。一般に汚れの目立ちにくい濃色を好んだ当時の国鉄では異例の明るい塗装である。
  • 1959年からは151系特急形電車同様のクリーム色に窓回りを朱色とする塗り分けに変更されたが、後にキハ58系と共通した急行気動車色(クリーム4号+赤11号)に移行した。後年、ローカル線普通列車で運用されるようになってからは朱色5号単色塗りに変更された車両も存在する。

接客設備

客室は客車同等の大型クロスシートを配置し、窓側壁面には10系客車同様のビニール製ヘッドレストを設けた。車内照明は竣工の段階では従来通り白熱灯が採用された[9]

トイレも10系客車同様にデッキ車端寄りに設置した。トイレ対向部にはタンクを設置。客用ドアはやや狭幅でデッキと客室の間には仕切扉が設けられたが、縦型シリンダエンジン搭載で客室床にエンジン点検蓋が残されたため、エンジンからの騒音や臭気の完全遮断には至っていない。

排気管は車体中央部両側壁面に立ち上げられた形状となった。このため当該部分は、遮熱・遮音のためのカバーが太い柱のようになり、ボックスシートの背ずり同士の間にデッドスペースが生じた[10]

主要機器

テンプレート:Sound DMH17Bエンジン (160PS/1,500rpm) とTC-2形液体変速機を搭載する、台車はゴムブロックを枕バネに使用するDT19形を装着する。

  • 同台車は上述のとおり乗り心地が劣悪であったが、開発時点では国鉄気動車に使用し得る量産台車が他になく、やむを得ず採用された。

新製形式

等級については製造開始時に準ずる。

キハ55形

2エンジン形三等車。本系列の基本形式である。

1次車 (1 - 5)
1956年製。当初はキハ44800 - 44804の車両番号が付与されたが、1957年4月の気動車称号改正で改番した。側窓はスタンディングウインドウ、正面窓は小窓。車内灯は白熱灯。前位戸袋部は2人掛けのロングシートであり、前後デッキ部には折りたたみ式の補助イスが各2人分設置された。後位側車端部隅にもRが付いている。
2次車 (6 - 15)
1957年に製造されたスタンディングウインドウ車。蛍光灯照明となり、DMH17Bは小改良が実施され出力が170PSに向上した。後部デッキ水タンク横に簡易洗面所を設置したことから、この部分の補助イスは廃止された。前位側のロングシートは運転席側戸袋窓部のみとなる。前面運転席窓の大型化と雨樋縦管が車体に埋め込まれたことで、1 - 5と判別が可能である。
3次車 (16 - 46)
1957年末から製造されたスタンディングウインドウ車。台車を新型のウィングばね式台車であるDT22形に変更し、乗り心地が改善された。その後、それ以前のDT19形装着車についても順次DT22系への振り替えが行われた。このグループから、車端部が完全な切妻となった。
4次車 (101 - 270)
1958年から製造された最終形で、側窓はスタンディングウインドウから大型の一段上昇窓に変更された。エンジンはDMH17C に変更され180PS/1,500rpmに出力が増強された。その後はDMH17B搭載車についても順次DMH17Cへの変更が行われた。

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キハ26形

テンプレート:Vertical images list キハ55形は急勾配区間でも必要な性能を得るために2エンジン方式で製造されたが、1950年代後期は1エンジン気動車で十分な性能が得られる平坦路線でも非電化区間は多かった。このため製造コスト抑制による気動車化促進を目的に、キハ55形の平坦線向け仕様として1958年から製造された1基エンジン三等車が本形式である。エンジン回りを除いた仕様は、室内設備から台枠まで共通化されており、キハ55形への改造も可能である。

1次車 (1 - 22)
1958年製造の初期形。キハ55 16 - 46に準じ、側窓はスタンディングウインドウで台車はDT22形動力台車・TR51形付随台車を装着する[11]
2次車 (101 - 272)
1959年から製造の改良型。キハ55 101 - 270に準じ、一段上昇窓となった。本グループから2両が事故廃車されている。

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キロハ25形

本系列登場当時は、一部の準急列車で二等車の需要もあったため、当初それらの列車には10系気動車の二・三等合造車であるキロハ18形を充当していた。キロハ18は二等座席のシートピッチ拡大や洗面所装備など優等車としての設備を整えてはいたが、元来が狭幅車体の10系在来車では根本的な居住性に難があった。これを代替する車両として1958年から製造されたのが本形式で、全車新潟鉄工所が製造した。この時点では全室二等車とするほどの需要が期待されなかったこともあり、キロハ18形を踏襲した二・三等合造車となった。

本形式はエンジン2基搭載のキハ55形との混結が前提とされたことから、エンジン1基搭載とした上でキハ26形を基本とした片運転台2デッキ構造を採用したが、以下の点で特異性がある。

  • 運転台寄り前半分が同時期に製造されたサロ153形に準じた回転クロスシートを設置した二等客室、後半分がキハ55形に準じた固定クロスシートと戸袋窓部は1人掛けのロングシートとした三等客室とされた。
  • 客室窓は二等側は座席一列ごとの一段上昇式狭窓、三等側は1次車がスタンディングウインドウ、2次車が一段上昇窓。
  • トイレ・洗面所は運転台直後に設置。
  • 二等客室から騒音源を遠ざけるためキハ26形とは床下機器の配置を逆転させ、後位側(運転台のない三等側)にエンジンを搭載するほか、排気管は二等・三等客室間仕切部に設置。

一等車[12]としては、冷房装置や座席がリクライニングシートでないなどアコモデーションが陳腐化したことから、1967年 - 1969年に車体・座席には全く手を加えることなく全車が車両番号を原番号+300としキハ26形への格下げ編入が実施された。

1次車 (1 - 5)
1958年製造。キハ55 16 - 46グループに対応する。エンジンはDMH17Bを搭載しDT22形・TR51形台車を装着する。
2次車 (6 - 15)
1960年製造。キハ55 101 - に準じた後期形。エンジンはDMH17Cに変更。

キロ25形

気動車準急の運用領域拡大に伴い二等座席の需要も増加したことから、全車帝国車両で1959年から製造された国鉄気動車初の全室形二等車である。

本形式はキロハ25では輸送力の足りない列車に充当する目的があったが、当初は新設された準急に充当され増備に伴って本来の目的を達成した。

座席はキロハ25形の二等室同様回転クロスシート。トイレ・洗面所は通常通りの連結面側配置である。

  • キロハ25形ではエンジン上部を三等室として二等室の静寂性を確保したが、全室二等車の本形式では騒音を抑える配慮から、コルク材とリノリウム板で加工された床面とされた。しかし、エンジン点検蓋を設ける必要があり、そこから騒音が漏れ出す弱点を対処するまでには至らなかった。

キロハ25形同様にアコモデーションの陳腐化から、1967年 - 1969年に車内はそのままの状態で全車が車両番号を原番号+400としキハ26形への格下げ編入が実施された。

1 - 61
キロハ25形二等席部同様の一段上昇形狭窓を装備。DMH17Cを搭載する[13]

製造年・製造会社別一覧

製造</br>年度 形式 新潟鐵工所 帝國車輛工業 富士重工業 日本車輌製造 東急車輛製造
1956 キハ</br>55 1 - 5  
1957 キハ</br>26 1 - 22  
キハ</br>55 6 - 46  
キロハ</br>25 1 - 5  
1958 キハ</br>26 101 - 121  
キハ</br>55 101 - 137  
キロ</br>25   1 - 13  
1959 キハ</br>26 122 - 128</br>192 - 200 181 - 191</br>211 - 213
218
201 - 210 129 - 157 158 - 180</br>214 - 217
キハ</br>55 138 - 162</br>179 - 201</br>205 - 207 163 - 178 202 - 204  
キロ</br>25   14 - 43  
キロハ</br>25 6・7  
1960 キハ</br>26   219 - 238</br>267 - 272 239 - 266
キハ</br>55 208 - 226</br>251 - 270 227 - 250  
キロ</br>25   44 - 61  
キロハ</br>25 8 - 15  

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改造形式・番台

キハ26形300番台

キロハ25形を1967年から1968年にかけて全室普通車に格下げし、原番号+300の改番を実施したものである。車内設備はキロハ25形時代そのままで使用されたが、1973年から1975年にかけて郵便荷物車キユニ26形へ13両、キニ26形に2両が改造され消滅した。

キハ26形400番台

キロ25形を1967年から1969年にかけて普通車に格下げし、原番号+400の改番を実施したものである。車内設備はキロ25形時代そのままで主に急行列車の普通座席指定車として使用された。その後キハ58系の冷房化進捗に伴い、普通列車での運用が多くなり座席モケットをエンジからブルーに張り替えた車両も存在する。

1976年 - 1977年に21両が後述のキハ26形600番台に改造されたほか、1976年 - 1980年にかけて7両がキユニ26形に改造された。本区分番台は1980年 - 1986年にかけて廃車された。

キハ26形600番台

通勤輸送用としてキハ26形400番台の座席全部または一部をロングシート化したもので、1976年 - 1977年に小倉工場(現・JR九州小倉総合車両センター)および鹿児島車両管理所(現・鹿児島車両センター)で21両に改造施工された。

落成後は、601 - 616が東唐津気動車区に配置され筑肥線で運用された。1977年改造の617 - 621は、中央部に16名分のクロスシートを残存させ鹿児島地区に投入された。1983年から1986年にかけて廃車された。

  • キハ26 434・425・427・445・419・448・441・436・440・432・442・447・412・420・416・452・411・410・438・460・444 → キハ26 601 - 621

キユニ26形

テンプレート:Vertical images list 1973年 - 1980年にキハ26形25両を郵便荷物車に改造したものである。種車は、キハ26形の各タイプに渡っており、改造年次・施工工場による形態変化が見られる。また投入線区も北海道から九州まで日本全土に渡る。1984年 - 1986年にかけて廃車され形式消滅した。

  • キハ26 301 - 303・310・312・305・311・306・19・308・309・314・315・22・433・459・313・169・453・451・424・446・1・413・118 → キユニ26 1 - 25
1 - 8・10 - 13・17
キハ26形300番台を種車としたもので、1973年 - 1976年に松任名古屋後藤多度津の各工場で13両が改造された。このうち1 - 3・6は、1次車が種車のためスタンディングウインドウが残存する。郵便室(荷重4t)は前位側に、荷物室(荷重5t)は後位側に設置された。
9・14・18・23・25
キハ26形0番台・100番台を種車としたもので、1975年 - 1980年に旭川・苗穂・後藤・幡生・多度津の各工場で5両が改造された。このうち9・14・23は、0番台からの改造車でスタンディングウインドウが残存する。郵便室(荷重3t)が前位側に、荷物室(荷重5t)が後位側に設置された。
15・16・19 - 22・24
キハ26形400番台車を種車としたもので、1976年 - 1980年に旭川・苗穂・五稜郭・幡生の各工場で7両が改造された。郵便室(荷重4t)を前位側に、荷物室(荷重5t)を後位側に設置された。

キニ26形

1973年 - 1975年に後藤・名古屋の各工場においてキハ26形4両を荷物車に改造したものである。荷重は13t。種車は300番台と1次量産車0番台。1984年までに廃車となった。

  • キハ26 304・307・3・7 → キニ26 1 - 4

キニ56形

1971年 - 1978年に大宮長野・多度津の各工場においてキハ55形4両を荷物車に改造したものである。荷重は15t。種車は3のみがキハ55形二次車(0番台)でスタンディングウインドウに後妻の隅にRを持つ。そのほかは100番台車である。1986年までに廃車となった。

  • キハ55 141・216・14・159 → キニ56 1 - 4

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運用

1956年10月、予定通り日光線準急「日光」に先行試作車が投入され運用を開始した。

  • 「日光」は上野 - 日光間を赤羽宇都宮のみ停車で運転されたが、東北本線内での赤羽 - 宇都宮間100km弱のノンストップ運転と2エンジン車の登坂力により、日光線の連続勾配区間を擁するにもかかわらず146kmを2時間5分で走破し、全区間の表定速度は70km/hに達した[14]
  • 競合する東武鉄道は、やや利便性の悪い浅草ターミナル駅にしており、上野を起点とする国鉄列車はそれに大きな打撃を与えることに成功した。翌年「日光」は東京駅始発となり、さらに利便性が向上した。しかし1958年には同線の電化が行われ、翌年の改正で「日光」は157系電車に変更し、本系列の日光線での運用を終了した。

しかし、「日光」での成功は大きな実績となってこれ以降も本系列の量産は続けられ、全国各地でキハ55系を用いた準急列車が新設されていった。

耐寒耐雪構造ではないが、北海道でも1960年から翌年にかけて函館本線急行「すずらん」で運用された。厳冬期には本系列は本州に戻され、二等車は一般形車両キハ22形で代替したが[15]、代替車のないキロ25形は酷寒の中でも無理をおして運用された。また後年、耐寒設計でないにもかかわらず少数の本系列が苗穂機関区(現・苗穂運転所)など北海道内に配備され、道央圏の普通列車運用にも充当された。

当時としては優秀だった高速性能を生かし、1958年4月には不定期ながら国鉄初の気動車急行列車「ひかり」が九州地区で[16]、さらに同年9月には初の気動車定期急行列車「みやぎの」も運転開始され、本系列が充当された[17]

ファイル:JNR kiha55 238 iyo takamatsu.jpg
キハ55 238 急行「いよ」</br>(1981年頃)

しかし、1961年からは急行列車用のキハ58系が製造開始され、居住性に劣る本系列の優等列車での運用は徐々に縮小された。1966年3月には、100kmを超えて走行する準急はすべて急行列車とする制度改正を実施。1968年10月のダイヤ改正で準急列車が全廃され、本系列は本来の用途は失われた。

その後はキハ58系とともに急行列車でも運用されたが、キハ58系に比べ車体幅が狭いことなどや冷房化も施工されなかったことで接客設備が見劣りしたことから、1970年代以降は優等列車運用が減り[18]、地方ローカル線の普通列車運用に転じ[19]国鉄分割民営化直前の1987年2月までに全車が廃車となった。保存車はない。

私鉄向け同系車

本系列は比較的長く国鉄で運用されたこともあり、私鉄への払下げ車は存在しない。ただし、私鉄独自に同形車を新造した例が南海電気鉄道島原鉄道の2社に存在する。

いずれも国鉄の準急列車への併結を目的に新製されたもので、国鉄車との総括制御が可能であり、基本的に接客設備も同等とされているが、国鉄車には存在しない両運転台車・空気バネ台車・冷房改造など各社の独自性が散見できる。

南海電気鉄道キハ5501形・キハ5551形

南海電気鉄道では、戦前の南海鉄道時代より鉄道省からの借り入れ客車を自社線内は電車で牽引、和歌山からは鉄道省の客車列車に併結するという形態で紀勢西線への直通運転を実施していた。戦後は自社発注で国鉄制式客車と同等のサハ4801形客車を新造してこの直通運転を再開した。

その後、1959年に国鉄紀勢本線が全通すると南海本線からの直通列車の需要増が予想された。このため、新たに設定された紀勢線気動車準急「南紀」に併結して南紀方面への直通運転を実施すべく、キハ55形に準じたエンジン2基搭載車を自社発注で新造することとなった。これが片運転台車のキハ5501形と両運転台車のキハ5551形である。

基本的に国鉄キハ55形100番台と共通設計であるが、座席指定列車として運行される関係でキハ5501形と定員を同一にすることが要請された。このため両運転台のキハ5551形は出入台部とその座席配置に独自設計が施されており、国鉄車にはないトイレなし仕様とされた。

そのほか共通した特徴としては、窓下部の2か所に南海所有車であることを示す行灯式表示が装備され、車両限界の小さい南海線内での運行に備え、側窓の下部に保護棒が設置された。塗装は当初は全体を淡い黄色し、雨樋と窓下に細い赤帯を入れたいわゆる準急色で竣工し、のちに併結相手である「南紀」・「きのくに」の急行格上げでクリーム4号+赤11号の急行色に変更された。

1959年7月にキハ5501・5502 、同年9月に検査予備を兼ねるキハ5551がそれぞれ堺市帝國車輛工業で新製されたが、キハ5501・5502は新潟鐵工所で国鉄向けに製造中であった鋼体を購入して、南海用に仕立てあげたものである。その後利用客が増加したことから増便[20]が図られ、1960年にキハ5503・5504 ・5552、1962年にキハ5505・5553・5554が増備され、両形式合わせて9両が製造された。

運行開始時には当初計画から予定が繰り上げられた結果、南海社内での乗務員養成が間に合わず、南海本線難波 - 和歌山市)間については1959年8月20日までの約1か月間が、同じく国鉄乗り入れ用として使用されていたサハ4801形客車同様、エンジンをアイドリング状態にして2001形電車3両で牽引した。

南海線内は特急扱いとして2両あるいは3両編成で単独運行され、東和歌山(現・和歌山)からは天王寺発着の準急→急行列車に併結されて全席座席指定車扱いで白浜あるいは新宮まで運行された[21]

キハ5505が踏切事故のため僚車に先駆けて1973年に廃車され、関東鉄道に譲渡されてキハ755となったほかは、その後も南紀直通急行「きのくに」で運用された。

国鉄側の急行列車はキハ58系に代わり冷房化も進められたのに対して、キハ5501形・5551形は全車エンジン2基搭載[22]で発電セット搭載スペースがないため冷房化できない事情もあり、紀勢本線和歌山 - 新宮間の電化が完成して特急「くろしお」が381系電車化・増発された1978年10月ダイヤ改正以降、難波発着の「きのくに」は減便が順次実施された。そして1985年3月ダイヤ改正で、当時気動車急行のまま残存していた「きのくに」がすべて485系電車[23]の投入により特急「くろしお」に格上げされたことで併結対象列車が消滅。この結果南海が社線内で運行していた特急列車のダイヤ整備に伴う運行休止[24]を名目に南海線直通難波発着の「きのくに」を廃止[25]。用途喪失後の2形式は同年5月に全車廃車。直ちに解体処分された。

島原鉄道キハ26形・キハ55形

島原鉄道(島鉄)では、1958年からキハ20形(自社発注車)を使用して長崎本線諫早 - 長崎間への直通運転を実施していたが、国鉄の準急列車への併結を実施するため1960年に国鉄キハ26形・キハ55形に準じた気動車を製造した。これが島鉄のキハ26形キハ55形[26]であり、1960年にキハ26形2両 (2601・2602)が新三菱重工業(現・三菱重工業)で、キハ55形4両が帝國車輛工業(5501・5502)・富士重工業(5503)・新三菱重工業(5505)で[27]、1963年にキハ55形1両(5506)、1964年にキハ26形1両(2603)がともに川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で新製され、国鉄準急や急行「出島」・「弓張」に併結し、博多小倉への直通運転を実施した。

いずれも両運転台車であり、キハ26形には座席定員をキハ55形と同一に保ちつつ、苦しい配置ながらもトイレが設置された。1960年製造車は空気バネ台車を装着。最終増備車となった1963・1964年製車は、国鉄キハ58系並みに前照灯シールドビーム2灯式に変更し、前面上部左右に振り分けて設置したほか、台車も国鉄向け同系車と共通のDT22形・TR51形相当に変更された[28]

キハ26形は、1972年に3両全車が電源エンジンとAU13形分散式冷房装置[29]を搭載する改造を施工されたが、1980年10月のダイヤ改正で国鉄直通が廃止となったため以後は自社線内のみで運用された。一方キハ55形は、自社線内に特に連続急勾配や高速運転区間もなかったが2エンジンのままで運用に充当された。

1994年からキハ2500形の増備により廃車が開始され、キハ26形は1997年に、キハ55形は2000年[30]に全廃された。

関東鉄道キハ755形

前述の南海電気鉄道キハ5505を譲り受けたものである。譲渡時に西武所沢車両工場で座席のロングシート化と客用扉の増設が施工されたが、車体中央部に排気管が存在したため3扉化できず幅1,300mmの両開き扉を排気管を避けて車体中央部に2か所増設し、1975年に竣功した。このため、気動車としては異例の片側4扉車となった。

小田急キハ5000形気動車のキハ751形などとともに2エンジン車であることから、常総線でトレーラー車のキクハ1形・キサハ65形などと編成を組成して運用されたが、1989年に廃車された。

脚注

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参考文献

  • 寺田裕一 「私鉄気動車30年」 - JTBパブリッシング ISBN 4-533-06532-5(2006年)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.729 特集「キハ55系」

関連項目

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  1. 1957年の称号規程改正によりキハ17形へ改称。
  2. 後年にキハユニ17形へ改造された。
  3. 当時は列車愛称なし。1958年より「かすが」の愛称が付帯した。
  4. 1952年に開発された直角カルダン駆動方式で揺れ枕が設置できなかった電気式気動車用DT18形台車の設計をそのまま踏襲していた。
  5. 当時の近鉄は大阪線名古屋線で軌間が異なるため、伊勢中川駅での途中乗換が必要とされた。
  6. 近鉄特急電車は快適な2人掛け転換座席を持つだけでなく、1957年には冷房装置や列車電話・ラジオの搭載を実現した。
  7. 6以降は全高を3,925mmに拡大。
  8. 初期形では大事を取って後位側の隅にもRがつけられていた。
  9. 客室設備設計のモデルとされた10系客車の蛍光灯化が1957年のナハ11形以降であることから、当時の国鉄標準仕様にそったものであり、気動車故にことさら旧式設計が放置されていたわけではない。蛍光灯化に必要な交流電源を電動発電機で比較的容易に出力可能な電車とは異なり、蓄電池による直流電源を用いる気動車や客車の蛍光灯化は技術的な面で難易度が高かったことも要因のひとつである。
  10. DMH17系縦型シリンダエンジンを搭載し屋上排気を行う国鉄車に共通する特徴であるが、設計上必ずこの位置に排気管を設置する必要はなく、雄別鉄道キハ49200Y形や津軽鉄道キハ24000形など後に私鉄で独自設計されたDMH17C縦型エンジン搭載車では車端部設置とした例もある。
  11. ゆえにキハ26形にはDT19系台車を装備した車両は存在しない。
  12. 1960年の二等級制への移行に伴い二等席から変更。
  13. DMH17C制式化後の製造のため本形式では製造時期による構造差異は存在しない。
  14. 「日光」の東北本線内での運転について当時の乗務員は「(時速)93kmぐらいで飛ばさないと定時運転できない」と証言していた(『鉄道ピクトリアル』73号(1957年8月)掲載のT記者「(気)日光→上野に乗って」より)。また当時の東北本線該当区間の制限速度は95km/hである。
  15. キハ22形はデッキ部分の洗面台の有無以外は本系列と車内設備的には遜色がなかったため道内においては普通列車のみならず準急・急行列車でも数多く運用された。
  16. ただし、すぐに定期準急列車へ格下げされたほか、鹿児島本線で蒸気機関車牽引の特急列車をも上回る高速運転を行ったことが知られる。
  17. この時に急行気動車用標準塗装(クリーム色4号と赤11号)が登場したが、塗り分けについては窓回りの赤帯が前面と側面で繋がる形状でキハ58系に準拠したその後の塗り分けとは異なる。
  18. それでも1980年頃までは、お盆ゴールデンウィーク年末年始など繁忙期に増結車や臨時列車として急行列車に充当された。
  19. 本系列は客用ドア幅が狭く、ラッシュ時運用に難があった。
  20. 全盛期には最大で定期3往復+不定期1往復の4往復が運行された。
  21. 両運転台型のキハ5551形は、短期間ではあったが南海線内で単行で営業運転された実績がある。
  22. 2エンジン搭載としたのは南海線内での高速運転の必要性(南海の特急電車と同一所要時分にするためならびに線内最高速度が国鉄車の95km/hを上回る100km/hであった)によるもので、非力なDMH17Cでは1エンジン車での運行は加速力などが不足し、運行困難なダイヤであった。
  23. 東北上越新幹線開業に伴う在来線特急の整理などで発生した大量の余剰車の全国的な転配と中間車への運転台取り付け改造などにより定数が充足された。詳細は「国鉄485系電車#分割民営化前・短編成化」を参照のこと。
  24. 特急「四国」および「きのくに」の廃止と10000系の投入による特急「サザン」の運行開始を主軸とする。なお「四国」の廃止と「サザン」の運行開始は1985年11月1日のダイヤ改正にて実施。
  25. 1982年には、南海が国鉄から485系を購入して本形式の後継車として「きのくに」の置き換えに使用するという報道がなされたことがあった(『南海「ひばり」に食指』 朝日新聞大阪版1982年7月10日朝刊)が、実現しなかった。
  26. 島鉄がエンジン2基搭載車を導入した理由は、国鉄線内の勾配区間での余裕時分確保と島鉄線内での付随車(主に郵便車。島鉄は古い気動車からエンジンを下して改造した郵便荷物車を多く保有した)牽引の必要があったため。
  27. 5504は忌み番として欠番。
  28. 増備車の金属バネへの変更は、ベローズ式空気バネ台車の特徴的な揺れ方が、島鉄線内で却って不評であったことによる措置とされる。
  29. 本系列およびその派生車で唯一の冷房化事例。
  30. 2エンジン車の高出力を買われて工事列車牽引の機関車代用にキハ5502が残存していた。