中村勘三郎 (18代目)
十八代目 中村 勘三郎(じゅうはちだいめ なかむら かんざぶろう、1955年(昭和30年)5月30日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。
子役時代から46年間名乗った前名、五代目 中村 勘九郎(ごだいめ なかむら かんくろう)としても知られた。愛称は本名からきた「のりちゃん」。
所属事務所はファーンウッド。
目次
人物
歌舞伎役者としては江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げ、渡辺えりや野田秀樹、串田和美などといった現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。
また現代劇にも積極的に出演し、特に長姉・波乃久里子や藤山直美・柄本明らと組んで出演した『浅草パラダイス』は長期にわたる人気演目となった。2006年(平成18年)には同じ顔合わせで『ヨイショ!の神様』にも出演している。
父は十七代目中村勘三郎、母方の祖父は六代目尾上菊五郎で、長男は六代目中村勘九郎、次男は二代目中村七之助。妻・好江は七代目中村芝翫の次女で、日本舞踊中村流の二代目中村梅彌は義姉、九代目中村福助、三代目中村橋之助は義弟にあたる。また、次姉・千代枝の夫は二代目澤村藤十郎で義兄にあたる。
また同世代の歌舞伎役者とも交流が広く、自著でも名前を挙げ、特に懇意にしている役者としては十代目坂東三津五郎、坂東彌十郎らがおり、コクーン歌舞伎や平成中村座公演など自身の公演の脇役としても数多く起用するなど、その信頼は厚かった。
2013年4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控え、今後の歌舞伎界の牽引役の一人と目されてただけに、亨年57という早すぎる死は梨園にとどまらず多方面から大変惜しまれた名優でもあった。
年譜
- 1955年(昭和30年)5月30日、東京都に生まれる。十七代目中村勘三郎の長男。姉は新派女優の波乃久里子。
- 1959年(昭和34年)4月、歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎で五代目中村勘九郎を襲名して初舞台を踏む。
- 1980年(昭和55年)11月27日、七代目中村芝翫の次女・好江と結婚式を執り行う。
- 1990年(平成2年)8月休演が通例となっていた歌舞伎座で「納涼歌舞伎」を初上演する。
- 1994年(平成6年)5月シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を初上演する。
- 2001年(平成13年)8月、野田秀樹脚本・演出による新作歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』を歌舞伎座で上演する。大評判となり、第1回朝日舞台芸術賞グランプリを受賞して、勘九郎個人も舞台芸術賞(コクーン歌舞伎公演、平成中村座公演等の成果と併せて)を受賞する。
- 2004年(平成16年)
- 7月、ニューヨーク市リンカーンセンター内に、平成中村座を設営して『夏祭浪花鑑』を上演。演出に串田和美を迎え、幕切れでは花道から続々と出てくる目明かしの代わりにニューヨーク市警の警官たちを舞台奥からパトカーで登場させ、団七・徳兵衛にピストルの銃口を一斉に向けて「フリーズ!」と叫ばせ、観客を驚かせた。ニューヨークタイムズ紙は「(当時上映中の)大作映画よりはるかに刺激的で面白い」と絶賛した。
- 12月、歌舞伎座上演の渡辺えり子脚本・演出による『苦労納御礼・今昔桃太郎』(くろうの かいあり かんしゃ かんしゃ・いまはむかし ももたろう)の桃太郎で五代目勘九郎としての舞台納め。初舞台作品を洒落のめした舞踊劇。
- 2005年(平成17年)3月3日、歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』「一條大蔵譚」の一條大蔵卿、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱ほかで十八代目中村勘三郎を襲名。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は十二代目市川團十郎以来の事。
- 2006年(平成18年)、前年の定期公演主体の襲名披露を終え、この年は巡業公演で各地を襲名披露に訪れる。愛媛県の内子座、岐阜県の数箇所など、昔ながらの芝居小屋を活用。名古屋では、名古屋平成中村座も開設。歳末に京都南座顔見世興行で一連の襲名興行を打上げる。
- 2007年(平成19年)7月、平成中村座ニューヨーク公演。今回はリンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールの内装を芝居小屋風にして上演。演出は再び串田和美で、『隅田川続俤』(法界坊)を科白の一部を英語で廻したり、花道は設けずに既存の通路のそこかしこを駆使した工夫を凝らした演出が好評だった。
- 2010年(平成22年)暮れに特発性両側性感音難聴を発症して漸く休養[2]、2011年7月24日に長野県松本市のまつもと市民芸術館での特別公演で舞台に復帰[3]。
- 2011年(平成23年)11月から2012年(平成24年)5月にかけ、自身の長男・中村勘太郎の六代目勘九郎襲名披露舞台(3月)を含む平成中村座ロングラン公演を行う。
- 2012年(平成24年)
- 5月30日、57回目の誕生日を迎え、翌31日に平成中村座ロングラン公演千秋楽。長期公演を無事成功させ、その後に受けた健康診断で、初期の食道癌に罹患していることが判明したため、6月18日、年内の演劇活動を停止し療養に専念することを発表した[4]。
- ガン公表後の7月18日に長野県松本市のまつもと市民芸術館での『平成中村座 信州まつもと大歌舞伎』の『天日坊』千秋楽で木曽義仲の役でサプライズ出演[5]、そのカーテンコールで舞台衣装姿のまま登場し、観客の声援に応えて「必ずや松本(の舞台)に帰って来てみせます」と挨拶。これが最後の舞台出演であり、かつ公の場での最後の姿となった[6]。手術は桑田佳祐と同じ執刀医により行われ[7]、7月27日に食道がん摘出手術を行う[8]、一時は病棟内を歩行できるまでに回復した[9]。
- 11月13日、快方に向かっていたが、9月に入り、肺疾患が見つかったことが松竹・所属事務所ファーンウッドの連名で発表[10]。[注 1]翌14日には、肺疾患が癌の転移ではなく、抗がん剤治療などに伴う免疫力低下の影響からウイルスに感染、肺炎を発症したこと、さらに、その悪化により急性呼吸窮迫症候群から肺水腫を発症し、人工肺および人工呼吸器を使用しているなど、詳細な病状とともに、重篤な状態であることが報道された[11]。
- 12月5日午前2時33分、急性呼吸窮迫症候群のため、東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去。テンプレート:没年齢 [12]。最期は家族の他、親交の深かった女優の大竹しのぶ・演出家の野田秀樹・野球評論家の江川卓が看取った[13]。
- 12月10日、都内文京区の自宅で通夜が営まれた。あくまで「近親者だけの密葬」とされていたが、長嶋茂雄、宮沢りえ、山田洋次、七之助の高校時代の同級生だった嵐の松本潤ら、各界から約700名が弔問、改めてその人柄と広い交友関係が偲ばれた。また、一時は自宅前から約80メートルの長い列ができるほどだった[14]。
- 翌11日、告別式・葬儀が営まれ、この時も約500名を数える関係者が参列、その早過ぎる別れを惜しんだ。棺には歌舞伎の「船弁慶」の前半部で着用される静御前の衣装が掛けられ、中には2013年4月開場予定の新しい歌舞伎座の完成予想図や好江夫人との写真が納められた。法名は演劇の「演」の字を取って「演暢院釋明鏡大居士(えんちょういんしゃくみょうきょうだいこじ)」とされた[15]。通夜、告別式、葬儀は中村屋代々の菩提寺である台東区竜泉の西徳寺(真宗佛光寺派)の僧侶が務めた[16]。
- 12月12日、生前最後の舞台の地であった長野県松本市が『松本市民に伝統芸能を認識させ、市の芸術文化発展に寄与した』ことを理由に、『中村勘三郎さんを名誉市民に推戴する』議案をこの日、松本市議会に提出。当日の議会での可決を経て没日の12月5日付にて名誉市民称号を追贈した[17][18]。
- 12月27日、前日には6代目勘九郎と七之助が南座公演千秋楽を盛況のうちに閉幕させた、この日の正午、都内中央区:築地本願寺にて本葬が営まれ、多くの芸能関係者や一般の弔問客など1万2000人が訪れた。当日、遺骨の乗せた車は午前9時に自宅を出発、平成中村座の跡地である隅田公園・山谷堀広場を皮切りに、新橋演舞場、歌舞伎座など、故人ゆかりの場所を回った後に築地本願寺に到着した。隅田公園には700人以上、歌舞伎座には200人のファンが集まった。特に隅田公園では、「あやめ連」が賑やかな祭囃子を披露、勘三郎の遺骨を胸に抱いた勘九郎と七之助、好江未亡人や勘九郎夫人の前田愛らが見守る中、18代目勘三郎、6代目勘九郎襲名披露の際に使用されたゆかりの神輿が、平成中村座の従業員や浅草仲見世商店街の人々によって担がれ、祭り好きだった故人を粋に送り出した。葬儀では初舞台の『昔噺桃太郎』から2012年5月、平成中村座で上演された『め組の喧嘩』までの当たり役の数々とプライベート映像を交えた約15分の特別映像が流され、大竹しのぶ、野田秀樹、坂東三津五郎らが弔辞を読んだ。また、一般焼香は1万人を超え、2キロにも及ぶ長い列を作った[19][20]。
- 2013年(平成25年)
賞詞・栄典
- 1989年(平成元年)芸術祭賞、都民文化栄誉章
- 1990年(平成2年)第9回眞山青果賞大賞
- 1994年(平成6年)第2回読売演劇大賞最優秀男優賞
- 1998年(平成10年)第18回眞山青果賞大賞
- 1999年(平成11年)日本芸術院賞
- 2000年(平成12年)第16回浅草芸能大賞
- 2001年(平成13年)第9回スポニチ文化芸術大賞グランプリ
- 2002年(平成14年)第23回松尾芸能賞大賞、第39回ゴールデン・アロー賞演劇賞および大賞、第1回朝日舞台芸術賞
- 2004年(平成16年)第52回菊池寛賞
- 2008年(平成20年)11月紫綬褒章
- 2009年(平成21年)第44回長谷川伸賞
- 2010年(平成22年)ジョン・F・ケネディ・センター芸術金賞
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年) テンプレート:仮リンク ウォーク・オブ・フェイム受賞(没後追贈)[24]
エピソード
- 子役時代からヤンチャぶりは知られ、出演した映画から「ベビーギャング」と呼ばれたこともある。
- 非常に多趣味で知られていた。幼少期からの野球好きで、大の長嶋茂雄ファン。またメジャーリーグ通でもあり、アリゾナに別荘を所有していることから、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのファンだった。また、ゴルフやボウリングも得意としており、ボウリングはマイボールを持っていたほどであった[25]。歌舞伎以外のジャンルにも精通し、行動派としても知られていた。
- 幼い頃は『頓馬天狗』の大村崑が大好きで、その事は当時の「明星」に紹介された。後に舞台で共演を果たした。
- 6〜7歳の時に三木のり平(当時37歳)と共にラジオ番組のパーソナリティとしてレギュラー番組『勘九郎・のり平の大人の幼稚園』(1961年、ニッポン放送)、『お早う僕勘九郎』(1962年、同)を持っていたことがある[26]。
- 俳優の三波豊和は暁星小学校時代からの親友であり、小学校の6年間ずっとクラスメイトであった。2人は互いの家に遊びに行くほど仲が良く、豊和の父である三波春夫からも大変可愛がられていたという[27]。
- 藤山直美との付き合いは、歌舞伎公演がほぼ松竹の独占的状況で行われている関係で、双方の親の代から誼を通じていたことによる(父親の項を参照)。歌舞伎以外の人脈もそこから派生して広がり、勘三郎自身が開拓したものも多かった。生前の交友は世代を問わず幅広く、宮藤官九郎、明石家さんま、佐藤浩市、立川談志、笑福亭鶴瓶と非常に仲が良かった。
- 1999年、フジテレビ系列「しのぶとえり子のふっふっふ」(MC・大竹しのぶ、渡辺えり子)に出演。若かりし頃の話として、ミュージカル[28]で共演した大竹しのぶを「大好きになっちゃって」と、本気で恋愛感情を抱いた事を語っており、成就する事は無かったものの、大竹もその思いには気づいていた旨を述べている。しかし決して暴露話にはならず、相手を立てながらオープンに、「微笑ましい思い出話」として語られている。これも勘三郎の人柄と話術の巧みさがあっての事であった。大竹は「(渡辺も含め)こうやって昔の話が出来る友達って、素敵ですよね。…青春ですよね。」とコメントしている。
- 大竹に恋心を抱いた当時、実は12歳年上の太地喜和子と交際していた。だが、執心するあまり太地との連絡をとることができず、大竹と「遊園地デート」を重ねた。しかし結局、大竹への恋心はミュージカルの役を通して「役柄の町娘に対して抱いた恋愛感情」であったことに気づき、公演終了と共に気持ちが冷めていったという。その後太地に連絡をとるが、時すでに遅く、見事にフラれてしまった、と述懐している。その後も女性関係に関する噂は後を絶たず、週刊誌上やマスコミを賑わした[29]。
- 明石家さんまが語ったところによると、女優の穂花のファンであったという。
- 星野源のアルバム『Stranger』に収録されている「化物」は、勘三郎へ宛てた曲だという[30](二人は舞台での共演経験がある)。
- 舞台・ドラマの「忠臣蔵」で、今まで大石主税・大石内蔵助・浅野内匠頭を演じており「これで吉良上野介を演じたら、忠臣蔵グランドスラムになりますね(笑)」と、吉良役のオファーが来るのを楽しみにしていたという[31]。
- ファミリーコンピュータ版『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』を予約するほどのゲーム好きであった。この当時、芸能人で入手が厳しい発売日に購入していたために、ワイドショーにゲスト出演したほどで、「このソフトは子供専用ではなく、自分専用」と述べた。
- 2007年(平成19年)5月21日、東京国税局から2005年までの3年間で約7000万円の申告漏れを指摘されたと報じられた。このうち約2000万円は、架空の人件費を計上するなどの悪質な所得隠しとして、重加算税を含め約3000万円の追徴課税となった[32]。報道当初は「7000万円もの申告漏れの事実はなく、隠蔽行為も行っていない」と主張、滞在していた米国から帰国した際にはレポーターに対し怒りを表していたが、5月28日一転して申告漏れを認め会見で謝罪した。しかし謝罪したものの非は自分ではなく会計担当者にあると主張し、「(担当者は)2歳のころからお世話になっている人だったが、怒りを感じる。辞めてもらう」と発言している。同時に、長男・勘太郎、二男・七之助、後援会「若鶴会」の代表も、総額で約1億3000万円の所得隠しを指摘された[33]。
- 2009年(平成21年)10月28日に執り行われた長男:二代目勘太郎(現六代目勘九郎)と前田愛の結婚式並びに披露宴の際には、長男夫婦の晴れ姿を見て嬉しさの余りに酒を飲みすぎてしまい、予定していた記者会見をキャンセルした[34]。ちなみにこの結婚式の際に記念写真として撮影したモーニング姿の一枚が、2012年12月11日の自身の密葬の際の遺影として採用された[35](12月27日の本葬で採用された遺影はこの時のものではなく、2005年1月29日の「十八代目中村勘三郎を祝う会」の折、篠山紀信によって撮影されたものである[36])。
- 銀座のインド料理店「ナイルレストラン」の常連でチキンマサラを絶賛し[37]、歌舞伎座出演中も出前をとって食べていた。その影響から歌舞伎座出演中の他の役者もナイルレストランの出前を取るようになり、楽屋から店内と同じ匂いが漂う有様になったこともあったという。勘三郎はオーナーのG. M. ナイルと懇意で、ナイルを通してインド旅行の手配をしていたが、急病のために旅行の夢は叶わなかった。
出演作品
歌舞伎
- 『連獅子』の狂言師後に親獅子の精
- 『春興鏡獅子』(しゅんきょう かがみじし)の獅子の精
- 『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそで むかしはちじょう、通称:髪結新三 / かみゆいしんざ)の髪結新三
- 『東海道四谷怪談』の伊右衛門女房お岩、小仏小平、佐藤与茂七
- 『夏祭浪花鑑』(なつまつり なにわかがみ)の團七九郎兵衛(だんしち くろべえ)
- 『隅田川続俤』(すみだがわ ごにちのおもかげ、通称:法界坊 / ほうかいぼう)の聖天町法界防(しょうでんちょう ほうかいぼう)
- 『平家女護嶋・俊寛』(へいけ にょうごがしま・しゅんかん)の俊寛僧都(しゅんかん そうず)
- 『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官(えんや はんがん)
- 『野田版研辰の討たれ』の守山辰次
- 『野田版鼠小僧』の棺桶屋三太(かんおけや さんた)
- 『鰯売恋曳網』(いわしうり こいのひきあみ)の猿源氏
その他の演劇
- 『王様と私』(1967年) - チュラロンコーン王子
- 『若きハイデルベルヒ』(1977年) - カール・ハインリッヒ 役。大竹しのぶとの初共演
- 『オセロ』(1988年) - イアーゴー 役
- 『浅草パラダイス』(1998年) - 卯之助 役
- 『ニンゲン御破産』(2003年) - 加瀬実之介 役
- 『ヨイショ!の神様』(2006年) - 桃川さの字 役
- 『寝坊な豆腐屋』(2007年) - 清一 役 ※ 新橋演舞場10月公演 『錦秋演舞場祭り 中村勘三郎奮闘』として、昼の部は歌舞伎3演目。夜の部は『森光子・中村勘三郎特別公演』と銘打ち、森光子との初共演作が上演された。なお、姉役は実姉である波乃久里子が演じている。
- 『表に出ろいっ!』(2010年) - 父 役
テレビドラマ
- 大河ドラマ(NHK)
- 白雪劇場『池田大助捕物日記』(1974年 - 1975年、関西テレビ) - 池田大助 役
- 『道』(1978年 - 1979年、TBS) - 市郎 役
- 『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』(1985年、TBS) - 福澤諭吉 役
- 『ばら色の人生』(1987年、NHK)
- 12時間超ワイドドラマ『大忠臣蔵』(1989年、テレビ東京) - 多門伝八郎 役
- 月曜ドラマスペシャル 春の時代劇特別企画 『袖ノ下捕物帳』(1991年、TBS) - 越生の猪之吉 役
- 新春時代劇スペシャル『森の石松 すし食いねェ!ご存じ暴れん坊一代』(1992年、フジテレビ) - 森の石松 役
- 12時間超ワイドドラマ『豊臣秀吉 天下を獲る!』(1995年、テレビ東京) - 豊臣秀吉 役
- 12時間超ワイドドラマ『炎の奉行 大岡越前守』(1997年、テレビ東京) - 浅野内匠頭 役
- 金曜エンタテイメント『天切り松 闇がたり』(2004年、関西テレビ) - 村田松蔵(天切り松) 役
- DRAMA COMPLEX『河井継之助 駆け抜けた蒼竜』(2005年、日本テレビ) - 河井継之助 役
映画
- 『今日もまたかくてありなん』(1959年) - 佐藤一雄 役
- 『国定忠治』(1960年) - 勘太郎 役
- 『アッちゃんのベビーギャング』(1961年)- アッちゃん 役
- 『ベビーギャングとお姐ちゃん』(1961年)- アッちゃん 役
- 『風林火山』(1969年)- 武田勝頼 役
- 『わが恋わが歌』(1969年) - 浩一(中村嘉葎雄)の少年時代 役
- 『戦争と人間・第一部』(1970年) - 伍代俊介 役
- 『幻の殺意』(1971年) - 田代稔 役
- 『友情』(1975年) - 三浦宏 役
- 『外科室』(1992年) - 検校 役
- 『顔』(2000年) - 山本俊郎 役
- 『真夜中の弥次さん喜多さん』(2005年) - アーサー王 役
- 『この胸いっぱいの愛を』(2005年) - 花を愛する男 役
- 『やじきた道中 てれすこ』(2007年) - 弥次郎兵衛 役
- 『座頭市 THE LAST』(2010年) - 政吉 役
その他のテレビ番組
- 『NHK紅白歌合戦』(NHK) - 1989年・2004年・2007年は審査員、1999年は白組司会、2000年は応援ゲスト。2012年も審査員として出演予定だったが、復帰が叶わず死去したため、長男の6代目勘九郎が代役を務めた。
- 『大当り 勘九郎劇場』(NHK)
- 『今宵はKANKURO』(毎日放送)
- 『おもしろ日本なっとく歴史館』(フジテレビ)
- 『勘三郎が泣いた!勘太郎挙式&感動秘話〜さよなら歌舞伎座SP』(フジテレビ)
- 『激突ヒーロー列伝〜長嶋茂雄を超えるのは誰だ〜』(テレビ朝日)
ラジオ番組
- 『勘九郎・のり平の大人の幼稚園』(ニッポン放送、1961年)
- 『お早う 僕 勘九郎』(ニッポン放送、1962年)
CM
- SK&F(コンタック総合感冒薬、1987年)
- 郵政省 学資保険(1989年)
- 日興證券
- 黄桜酒造 山廃(1989年)
- JT 峰
- サントリー
- 東京三菱銀行
- イーオン (2007年1月-)
- アサヒ飲料「若武者」『人力車篇』(2007年4月3日-)
- 毛髪クリニックリーブ21(2012年3月23日-)
著書
- 『勘九郎とはずがたり』(1991年4月25日、集英社)ISBN 4-08-772789-0
- 『勘九郎芝居ばなし』共著:落合高仁、小田豊二(1992年8月5日、朝日新聞社)ISBN 4-02-256463-6
- 『勘九郎ひとりがたり 中村屋歳時記』(1992年10月25日、集英社)ISBN 4-08-772878-1
- 『中村屋三代記 小日向の家』(1995年1月30日、集英社)ISBN 4-08-774115-X
- 『勘九郎ぶらり旅 因果はめぐる歌舞伎の不思議』(1999年3月30日、集英社)ISBN 4-08-775249-6
- 『歌舞伎ッタ!』(1999年12月1日、アスペクト)ISBN 4-7572-0584-8
- 『勘九郎日記「か」の字』(2004年11月10日、集英社)ISBN 4-08-775327-1
- 『襲名十八代 これは勘三郎からの恋文である』(2005年5月20日、小学館)ISBN 4-09-387571-5
写真集
- 『中村勘九郎 法界坊』撮影:荒木経惟(2000年11月10日、ホーム社)ISBN 4-8342-5207-8
- 『十八代目中村勘三郎襲名記念写真集』撮影:篠山紀信(2005年8月1日、小学館)ISBN 4-09-681861-5
- 『Mick Rock Meets Kanzaburo魂』撮影:ミックロック(2007年4月20日アシェット婦人画報社)ISBN 4-573-21004-2:限定4000部シリアルハンバー入り、ISBN 4-573-21003-5:通常版
注釈
脚注
外部リンク
- テンプレート:Official
- 歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇 「中村勘三郎(十八代目)」
- テンプレート:Jmdb name - ※表記上は「中村勘九郎」
- テンプレート:Allcinema name
- テンプレート:Kinejun name
- テンプレート:URL
- テンプレート:Imdb name
テンプレート:- テンプレート:中村勘三郎 テンプレート:日本芸術院賞 テンプレート:NHK紅白歌合戦 白組司会
テンプレート:大河ドラマ主演俳優- ↑ 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite web
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- ↑ 17.0 17.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web 2007年12月18日のはなまるマーケットに出演した息子・七之助の証言
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 1977年日生劇場の8月公演、音楽劇「若きハイデルベルヒ」。大竹は20歳、勘三郎(当時は勘九郎)は22歳だった。
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テンプレート:Cite web - ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2012年12月5日日発行の東京スポーツより
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