平敦盛
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
生涯
笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[1]という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳[2]で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[3]。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
淡路島煙島に敦盛の史跡がある。
この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若舞の『敦盛』の一節である。
唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の一番は、敦盛の最期を歌って人口に膾炙した。(二番は平忠度)
伝承
広島県庄原市には古くから「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。それによると敦盛の室(玉織姫、庄原では「姫御さん」と呼ばれる)が、敦盛は生きているとの言い伝えを頼りに各地を巡り歩き、庄原に至ってそこに住んだ、という。庄原市春田にはその玉織姫の墓といわれるものが残っている。
どのような経緯で伝承が生まれたのかは定かではなく、全国各地に見られる平家の落人伝説の一種と見られる。しかし敦盛を討ったとされる熊谷直実は安芸国に所領を与えられており、また熊谷氏は戦国時代に至るまで安芸に土着していることから、その点と何らかの関係がある可能性も考えられるテンプレート:要出典。
直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要[4]を行っている。また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっている。
脚注
文献
- 杉本圭三郎 『平家物語(九)』 講談社学術文庫、1988年 ISBN 4-06-158359-X
- 児玉幸多編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館、1995年 ISBN 4-642-07840-1
関連項目
平敦盛を扱った作品
歌謡曲
- 長編歌謡浪曲 須磨の浦悲曲 (三波春夫)
外部リンク
- 能面 長澤重春能面集:十六
- 日本の民謡 曲目解説<中国地方>
- 古谷知新校訂『源平盛衰記』国民文庫、明治43年2月13日発行
- 一谷嫩軍記熊谷陣屋の場 - 小鹿野歌舞伎の紹介テンプレート:Japanese-history-stub