平経盛
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平 経盛(たいら の つねもり)は、平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。
生涯
兄弟達と同様、兄の清盛に従い保元・平治の乱に参戦。平治の乱では仁和寺に逃げ込んだ首謀者の藤原信頼の捕縛にあたり、宮廷の守護や追討史を務める。母の身分の関係からか、官位の昇進は当初より異母弟の教盛・頼盛に比べて遅れており、生涯を通じて目立った政治的活動を行うことはなかった。
その反面、父・忠盛から歌人としての側面を受け継ぎ、歌壇での活動は活発であった。守覚法親王の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに出席し、自らも歌合を催している。太皇太后・藤原多子の職事を長年に亘って務めた関係から、歌壇の中心である徳大寺家の実定・実家(多子の兄弟)、女流歌人・小侍従(多子の女房)、六条藤家の藤原清輔(共に太皇太后宮多子に仕えた)・重家兄弟と親密な交流があった。『千載集』によみ人知らずとして1首入首が確認されるほか、名を呈しては『新勅撰和歌集』以下)、勅撰集に12首が入集。家集として『経盛集』がある。
寿永2年(1183年)7月の一門都落ちに同行して西走、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで経正、経俊、敦盛ら子息のほとんどを失った。
元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いに敗れ、弟の教盛とともに入水して果てた。享年62。
官歴
※日付=旧暦
- 久安6年(1150年)6月25日:従五位下
- 保元元年(1156年)
- 保元2年(1157年)10月22日:従五位上(淑景舎の造営)
- 保元3年(1158年)8月10日:常陸介を辞任
- 平治元年(1159年)12月27日:伊賀守(平治の乱の勲功)
- 永暦元年(1160年)
- 応保元年(1161年)
- 応保2年(1162年)7月17日:太皇太后宮亮。左馬権頭・若狭守如元
- 長寛元年(1163年)12月20日:正四位下
- 永万元年(1165年)12月21日:左馬権頭を辞任
- 永万2年(1166年)正月12日:若狭守重任
- 仁安3年(1168年)8月12日:内蔵頭。太皇太后宮亮・若狭守如元
- 嘉応2年(1170年)
- 正月18日:若狭守を辞任
- 12月30日:従三位
- 嘉応3年(1171年)正月18日:讃岐権守兼任
- 安元元年(1175年)月日不詳:讃岐権守を辞任
- 安元2年(1176年)2月5日:太皇太后宮亮を辞任
- 安元3年(1177年)正月24日:正三位
- 治承2年(1178年)正月28日:太皇太后宮権大夫
- 治承3年(1179年)11月17日:修理大夫兼任
- 養和元年(1181年)12月4日:参議に補任。修理大夫・太皇太后宮権大夫如元
- 養和2年(1182年)3月8日:備中権守兼任
- 寿永2年(1183年)8月6日:解官テンプレート:Japanese-history-stub