ヴォルガ川
ヴォルガ川(ヴォルガがわ、テンプレート:Lang-ruヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。
名称
スキタイはヴォルガ川を「湿気」という意味の "Rā"(Ῥᾶ)と呼んでいた。『アヴェスター』には「神秘の流れ」という意味の "Raŋhā" と言及され、、サンスクリット語では同じ意味で "rasā́h" と呼ばれている。ソグド語では「血管」という意味の "r’k"(*raha-ka、vein, blood vessel)と呼ぶ。現代モルドヴィン諸語では "Rav"(Рав)と呼ぶ。スラブ民族はスキタイ系の名称を翻訳した借用語の「ヴォルガ」と呼んだ。
この地のテュルクはヴォルガ川をイティル川(カラチャイ・バルカル語: Итил、テンプレート:Lang-tt、テンプレート:Lang-ba、テンプレート:Lang-kk、テンプレート:Lang-cv)と呼んでいた。モンゴルはイジル川(テンプレート:Lang-mn)と呼んでいた。 ヴォルガ川中流域からウラル山脈にかけてのタタール人・バシキール人・マリ人などの多く住む地方は、イデル=ウラルと呼ばれる。フン族もこの流域に移動しており、アッティラ大王の名はこの川に由来するという見方もある。
地理
モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵の海抜225mを源流とし、モスクワの北をトヴェーリ、ヤロスラヴリと東に流れ、ニジニ・ノヴゴロドでオカ川と合流する。カザンの辺りで東から南へと流れを変え、トリヤッチ、サマーラで大きく屈曲し、サラトフ、エンゲリス、ヴォルゴグラートを経由してアストラハンの近くの海抜マイナス28m地点でカスピ海に注ぐ。
ヴォルガ川の支流にはオカ川やカマ川といった大河が含まれ、ヴォルガ川水系はモスクワ都市圏をはじめロシアの人口の多い地域や経済的・政治的に重要な地域をすっぽりと覆っている。カスピ海に注ぐ三角州・ヴォルガ・デルタは160kmにわたり伸びており、その中にアストラハンなどの街があり、500程度の分流に分かれている。
帝政ロシア時代にはヴォルガ川海軍艦隊が置かれた。ヴォルガ川は水運が盛んなほか、ヴォルガ・ドン運河、モスクワ運河、ヴォルガ・バルト水路など多くの運河が建設されており、運河やドン川を伝って、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海(黒海)などの間が水路で繋がっている。また巨大なダムと水力発電所が流域に多数建設され、多数の町を沈めた海のような貯水湖がいくつも連なっている。ヴォルガ川は冬季結氷し、上流では11月下旬から4月中旬ごろまで、下流では12月上旬から3月中旬まで船舶の航行ができない[1]。
周辺の気候は、上流部は森林で、南下するに従い森林ステップ、サラトフ以南はステップと半砂漠になり、河口のアストラハン周辺は砂漠気候となる[2]。
流域は肥沃で麦が大量に生産される。また、石油・天然ガス・岩塩などの鉱物資源も豊富である。ヴォルガ・デルタとカスピ海は漁業が盛んで、アストラハンはキャビア生産の中心地となっている。一方で沿岸の化学工場による汚染も問題となっている。
世界主要河川の比較 | ||||||
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アマゾン川 | ナイル川 | ミシシッピ川 | 長江 | ヴォルガ川 | コンゴ川 | |
長さ(km) | 7,025 | 6,671 | 3,779 | 6,300 | 3,700 | 4,700 |
流域面積 (100万km²) |
7,0 | 2,9 | 3,2 | 1,8 | 1,3 | 3,7 |
平均流量 (1000m³/s.) |
209 | 2-3 | 18 | 32 | 8 | 41 |
支流
下流より記載
河川施設
9つの大規模水力発電所と多数の人工湖がヴォルガ川に沿って続いている。人工湖には以下のようなものがある。上流より記載
- ヴォルゴ湖 (Volgo Lake)
- イワンコフスコエ湖(モスクワ海) (Ivankovskoye Reservoir)
- ウグリチ湖 (Uglich Reservoir)
- リビンスク湖 (Rybinsk Reservoir)
- ゴルコフスコエ湖 (Gorkovskoye Reservoir)
- チェボクサリ湖 (Cheboksary Reservoir)
- クイビシェフ湖(サマラ湖) (Kuybyshev Reservoir / Samara Reservoir)
- サラトフ湖 (Saratov Reservoir)
- ヴォルゴグラード湖 (Volgograd Reservoir)
歴史
古代のアレクサンドリアの学者、プトレマイオスは著書『テンプレート:仮リンク』(第5巻、第8章、アジアの地図のその2)においてヴォルガ下流に触れている。彼はこの川をスキタイ人の呼び名である「ラ(Rha)」と呼んだ。プトレマイオスは、ドン川とヴォルガ川は上流でつながっていて、極北の楽園・ヒュペルボレオイ(Hyperborea)の山々から流れてくると考えていた。
ヴォルガ下流は、インド・ヨーロッパ祖語を話した原インド・ヨーロッパ民族(クルガン仮説を参照)の文明のゆりかごと広く信じられている。紀元1世紀から10世紀ころまでにフン族ほか多くのテュルク系遊牧民が移住しスキタイ人と入れ替わった。
その後、ヴォルガ川流域はアジアからヨーロッパにかけての民族移動に大きな役割を果たした。中世初期にはルーシ族などのヴァイキング(ヴァリャーグ)が北欧からヴォルガ川に進出し、ヴォルガ川からカスピ海を経てペルシャやバグダードに至る交易路を築いたほか、ヴォルガ川流域やカスピ海沿岸を盛んに襲った。ヴォルガ川上流とその支流域ではフィン・ウゴル語派の諸民族に代わりロシア人による諸公国が栄え、ロシア人の政治や精神文化のゆりかごとなった(これらの公国のあった古都は「黄金の環」と呼ばれている)が、ヴォルガ中流域より下流はテュルク系民族の世界であった。ヴォルガ川中流では、テュルク系ブルガール人の強力な政権ヴォルガ・ブルガールがヴォルガ川とカマ川の合流点付近に成立し農業や交易で栄えた。ヴォルガ下流からカスピ海にかけての広い範囲にはハザール王国があった。ハザールがヴォルガ河口に建設した首都イティル(Atil、アティル)、ヴォルガ下流のサクシン(Saqsin、サクスィーン)、同じく後にモンゴルがヴォルガ下流に建てたサライ(Sarai)などは東西交易で栄え、中世の世界でも有数の都市として知られていた。
ハザールは衰退し、11世紀ごろテュルク系キプチャク人に取って代わられたが、その後テンプレート:仮リンクがテンプレート:仮リンク(743年 - 1220年)を興し、さらにモンゴル人が侵入して中央政権(黄金のオルド)の置かれたサライの街を中心とするジョチ・ウルス(キプチャク汗国)が建てられた。中央政権没落後は各ハン国に分裂し、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、ヴォルガ下流のアストラハン・ハン国などが成立したが、16世紀半ばにはモスクワ大公国のイヴァン4世(イヴァン雷帝)によって次々征服された。
ロシアがテュルク系諸政権を征服した後も辺境の気風は残り、17世紀半ばにはドン・コサックの頭領、スチェパン・ラージン(ステンカ・ラージン)によってヴォルガ川水系は下流から上流まで、さらにカスピ海沿岸のペルシャまで荒らされ、彼の組織した反乱軍はヴォルガを遡って皇帝のいるモスクワにまで迫ろうとした。1719年11月23日にロシア皇帝ピョートル大帝の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へドイツ人の移民誘致が始まり、タタール人との緩衝地帯形成が期待された。19世紀末にはヴォルガ・ドイツ人は179万人に達し、ヴォルガ沿岸は大きく開発された。
ヴォルガ川がドン川に向かって大きく曲がる地点は古来より要衝であり、16世紀後半にツァリーツィン(後のスターリングラード、現在のヴォルゴグラード)の要塞が建てられた。第二次世界大戦時、カフカスに向かって侵入したドイツ軍はじめ枢軸国軍とソ連軍との間で行われた野戦・市街戦、スターリングラード攻防戦はロシア史上のみならず世界戦争史上でも最も激しい戦いであった。
ロシア人のヴォルガに対する感傷には深いものがあり、音楽や文学などにしばしば取り上げられている。(『ヴォルガの舟歌』などは顕著な例である。)
民族
ヴォルガ川・オカ川の上流域の先住民はフィン・ウゴル語派の民族、テンプレート:仮リンク(Merya)であったが、東スラヴ人がルーシの北東の方へ進出してヴォルガ川に達し勢力を広げた。10世紀ごろにはメリャ人はロシア人に同化したと思われる。その他のフィン・ウゴル語派民族は、ヴォルガ中流域に暮らすマリ人(チェレミス人、現在はマリ・エル共和国を構成する)やモルドヴィン人などがいる。
テュルク系の民族は紀元600年ごろヴォルガ流域に現れ、ヴォルガ川の中・下流域にいたフィン・ウゴル語派民族やインド・ヨーロッパ語族の民族を同化した。この子孫がキリスト教徒で現在チュヴァシ共和国を構成するチュヴァシ人、およびムスリムのタタール諸民族である。
またモンゴル帝国の侵入とともにモンゴル人も多く移住したが、ヴォルガ下流域からカフカス北部を支配したノガイ・オルダの末裔であるモンゴル系ノガイ人は後にダゲスタン人に取って代わられた。17世紀には仏教徒でモンゴル系民族のオイラトがヴォルガ下流に移住しロシア帝国と同盟したが、後にロシア人やドイツ人らに圧迫され中央アジアに戻っていった。このうち戻れなかった人々が、現在ヴォルガ川の西側にあるカルムイク共和国に住むカルムイク人である。
ヴォルガ川沿岸地方はドイツ系少数民族、ヴォルガ・ドイツ人の故郷でもある。エカチェリーナ2世は1763年に、さまざまな報酬を申し出た上で、すべての外国人に対しヴォルガ川流域に来て定住するよう招待する勅令を発した。これは沿岸地域の開発という目的もあったが、ロシア帝国と東側のモンゴル系国家(ジョチ・ウルスの末裔の国々)との間に緩衝地帯を形成する目的もあった。フランス人やイギリス人農民はアメリカへの移住を選び、ロシア帝国の呼びかけに応えたのは貧しいドイツ農民たちであった。ドイツ人の人口は19世紀末には179万に達したが、ロシア革命とその後のロシア内戦によりボリシェビキなどの敵視を受け多くの人口が失われた。ソビエト連邦の下でヴォルガ沿岸の一部にヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国が設立されたが、第二次世界大戦前後にその全てが中央アジアなどに移住させられるか処刑され、以後もほとんどの人々はヴォルガ川沿岸に戻ることはなかった。
水運
ヴォルガ川はロシアの内陸水運や国内輸送の重要な幹線となっている。川沿いに建設された巨大ダムには閘門が設けられ、門を通ることのできる大きさの船はカスピ海からヴォルガ川最上流まで航行することができる。またヴォルガ・ドン運河によってヴォルガ川やカスピ海からドン川、およびアゾフ海・黒海まで航行することも可能である。また、ヴォルガ川から北にある湖(ラドガ湖、オネガ湖)を繋ぐヴォルガ・バルト水路によって、サンクトペテルブルクやバルト海へも航行でき、オネガ湖と白海を結ぶ白海・バルト海運河にもつながる。テンプレート:仮リンクはモスクワ川とヴォルガ川を繋ぎ、首都モスクワとこれら内陸水路との連絡路となっている。これらの内陸水路は比較的大きな船舶(閘門の規模はヴォルガ川の各ダムで 290m × 30m 、その他の支流や水路ではもう少し小規模になっている)が通ることができるよう設計されている。
ロシア内陸水路への外国船の航行は、ソ連崩壊後も長らく制限があり、限られた船舶しか入ることができなかった。しかし欧州連合(EU)とロシアとの経済交流の増加により、ロシア内陸航路の航行制限を緩和する新政策が施行されようとしている。これにより、外国船のヴォルガ川水系の航行が大きく許可されることが期待されている[3]。
脚注
外部リンク
- Information and a map of the Volga's watershed
- Volga Delta from Space
- Photos of the Volga coasts
- "CABRI-Volga": EU-Russian project on environmental risk management in the Volga Basin