アストラハン

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テンプレート:世界の市 アストラハンアストラハニとも;ロシア語:Астрахань アーストラハニラテン文字転写の例:Astrakhan)は、ロシア南部の都市である。アストラハン州の州都。人口は502,800人(2004年)。カスピ海低地ヴォルガ川下流域デルタに位置する。カスピ海岸から約90km。市街は11の島からなる。地域の商業の中心。カスピ海で獲れるチョウザメで有名でキャビアの加工地でもある。

市街はキーロフスキイ、ソヴィェーツキイ、レーニンスキイ、トルソフスキイの4つの地区に分けられている。1580年代につくられた城壁や、18世紀初めに建設されたウスペンスキイ大聖堂が残る。高等教育機関が5つ、劇場が4つ、ほかに博物館などがある。

歴史

古くからテンプレート:仮リンクXacitarxanまたはActarxan)などと呼ばれ、ヴォルガ川右岸に町があった。ハザールの時代にはこの一帯はハザールの主要な地域であり、アストラハンの南南西40kmにある村・テンプレート:仮リンクはハザールの都・イティルと推定されている。ジョチ・ウルスの時代には主要な交易都市・行政都市となる。しかし、1395年にはティムールによって灰燼に帰した。そこで12kmほど南の今日のアストラハンの地に町を再建。15世紀後半からアストラハン・ハン国の首都であったが、1547年クリミア・ハン国の軍勢に包囲される。1556年にはイヴァン4世(雷帝)によって征服され町は炎上する。1569年にはオスマン帝国の侵攻・包囲を受けるが、結局、オスマン帝国は撤退。以降、ロシアの前哨都市として発展。アルメニア人ペルシア人インド人ヒヴァ人なども居住する国際的な交易都市となる。1670年ステンカ・ラージンの率いた軍勢に占領され、ロシア政府に対する抵抗の拠点となった。18世紀に入ると、ピョートル1世がこの地に造船所を建設、しかし、1704年には、ピョートル1世が導入した新税に反発して反政府の蜂起が発生し、当時の地方長官が処刑される事件が起こったが、軍によって鎮圧された。その後、アストラハンはロシアの中央アジア侵略の基地として機能していく(en:Alexander Bekovich-Cherkassky)。町は18世紀を通じて何度も大火に遭い、また1719年にはサファヴィー朝ペルシアの侵略も受け、1735年に和睦した。1830年コレラの流行で多くの人命を失う。

1942年ドイツ国防軍ブラウ作戦を展開、ドイツ空軍によって市内の石油基地や港湾施設が空襲された。

気候

ステップ気候に属し、冬寒く夏暑い。当地はヨーロッパで最も乾燥している地域の一つである。降水量は乏しいが、一年を通じて安定している。安定した降水量と低い年平均気温のため砂漠気候には属さない。冬は寒くなりがちだが、ロシア国内では温暖な方である。夏は暑く、40度を超えることもある。春と秋は、基本的に夏と冬の過渡的な季節である。

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姉妹都市

著名な出身者

哲学者ニコライ・チェルヌイシェフスキーが一時暮らしていたことがある。

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脚注


外部リンク

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