アストラハン州
テンプレート:基礎情報 ロシアの連邦構成主体 アストラハン州(アストラハニ州とも;ロシア語:Астраханская областьアーストラハンスカヤ・オーブラスチ、Astrahan Oblast)は、ロシア連邦を構成する州(オーブラスチ)のひとつ。
北カフカースに位置し、南部連邦管区に属する。 面積47,236km²、人口1,010,300(2004年)、州都はヴォルガ川河口の街アストラハンである。
地形
東にカザフスタンと接し、西にカルムイク共和国、北にヴォルゴグラード州と接する。 カスピ海北部、プリカスピスカヤ低地に位置し、海面下である。カスピ海に注ぐヴォルガ川の河口付近は「ヴォルガ・デルタ」(三角州)になっている。テンプレート:仮リンクとキルギス・ステップを擁す。
歴史
テンプレート:Main テンプレート:Seealso テンプレート:Seealso
1630年にテンプレート:仮リンク(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつトルグート部の指導者テンプレート:仮リンク太師にカルムイク人が率いられてヴォルガ河畔(ノガイ・オルダ)へ移住しテンプレート:仮リンク(1630年 - 1771年)が成立。1670年、ステンカ・ラージンの率いた軍勢にカルムイク人も参加し、アストラハンが占領され、ロシア政府に対する抵抗の拠点となった。
18世紀に入ると、ピョートル1世がアストラハンに造船所を建設。1704年には、ピョートル1世が導入した新税に反発して反政府の蜂起が発生し、当時の地方長官が処刑される事件が起こったが、軍によって鎮圧された。1717年11月2日にロシア帝国がアストラハン県を設置。1719年11月23日に、クリミア・ハン国や東方のタタール(ジュンガル)との緩衝地帯形成を目的とする、ロシア皇帝ピョートル大帝の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へドイツ人の移民誘致が始まり、ロシア人やウクライナ人、ドイツ系(ヴォルガ・ドイツ人)の移住者に圧迫されて、カルムイク人は荒地に押しやられた。
1755年に清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服(テンプレート:仮リンク)、疫病(天然痘)の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になる。1771年、ヴォルガ・カルムイク人の指導者テンプレート:仮リンクは、父祖の地である東トルキスタンのイリ地方への帰還を決定した。 ところがその年は暖冬で、ヴォルガ川が凍結しなかったためヴォルガ西岸にいた半数は取り残されることになった。この取り残された人々がカルムイク共和国のカルムイク人の祖先である。このときみすみすカルムイク人たちを逃がしたロシア政府の辺境守備での無能振りと権威の失墜(ウラル・コサックの蜂起 (1772年))が、2年後の1773年にドン・コサックが蜂起したプガチョフの大乱を招くきっかけとなった。
1957年、現在の領域が確定。
標準時
アストラハン州は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+4時間で、夏時間はない。(2011年3月までは、標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4であった)
関連項目
外部リンク
- テンプレート:Ru icon アストラハン州政府公式ホームページ
- テンプレート:Ru icon アストラハン州の地理的領域
- テンプレート:Ru icon アストラハン州およびアストラハン市ウェブサイト
- テンプレート:Ru icon アストラハン州における政治的抑圧の犠牲者に関する記憶1918年から1986年まで1万955人に上る犠牲者一覧