アルベルト・シュペーア
テンプレート:政治家 ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905年3月19日 - 1981年9月1日)は、ドイツの建築家、政治家。アルバート・シュペーア、アルベルト・シュペールなどとも表記される。アドルフ・ヒトラーが最も寵愛した建築家として知られる。ヒトラー政権のもとで軍需大臣を務め、終身刑に処されたルドルフ・ヘス、および音楽指揮者アウグスト・クビツェクを除けば戦後を生きたナチ関係者の中で最もヒトラーと親しかった人物として知られる。
目次
生涯
生い立ち
1905年3月19日正午にドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市マンハイムに生まれる。父はアルベルト・フリードリヒ・シュペーア(Albert Friedrich Speer)。母はルイーゼ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ(Luise Mathilde Wilhelmine、旧姓ホメル(Hommel))。兄にヘルマン(Hermann)、弟にエルンスト(Ernst)がいる。父アルベルト・フリードリヒはマンハイムでも名の知れた裕福な建築家だった。祖父ベルトルトもドルトムントで成功した建築家で、彼がシュペーア家に財をなした。シュペーアが生まれた頃の一家は大変裕福であったので、第一次世界大戦で節約を迫られるまで自家用車を2台保有していた。この自動車はシュペーアの少年時代の技術的夢想の中心であったという[1]。シュペーアはマンハイムの上級実科学校では数学で最優秀の成績をとった。そのため初めは数学者になることを夢みたという。しかし父の反対にあい、父や祖父と同じく建築家の道を歩むことになった[2]。
地方の大学より中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は1923年のハイパーインフレーションで断たれ、シュペーアはカールスルーエ工科大学に進学した。1924年、インフレが安定化した頃、より格の高い大学であるミュンヘン工科大学に転学した。1925年、彼はさらにベルリン工科大学に転学している。彼はこの大学で、有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノウ(de:Heinrich Tessenow)の指導の下で学んだ。シュペーアはテセノウを非常に尊敬しており、1927年に彼の試験を通った後は助手となり、テセノウのゼミで週に3日学生に講義を行うなどした。この時期、1928年、シュペーアは7年前に知り合ったマルガレーテ・ヴェーバーと結婚している。テセノウは決してナチズムに賛同しなかったが、彼の学生にはナチズムに賛同するものが多く、学生らはシュペーアにベルリンのビアホールで行われる党集会に行くよう勧めた。
ナチ党入党
シュペーアは1930年12月のビアホールでの党集会に参加したが、後に、当時は若者の一人として政治にはあまり関心も知識もなかったと主張している。彼はこの時にヒトラーをはじめて見たが、党のポスターに描かれているような茶色の制服姿ではなく身なりのきちんとした青いスーツ姿で参加していたことに驚いた。シュペーアはこのときヒトラーの説く、共産主義の脅威やヴェルサイユ条約の破棄といった問題への解決方法に影響されたこともさることながら、何よりヒトラーという人物に強い影響を受けたと述べている。数週間後、シュペーアはまた党集会に出席したが、このときの司会はヨーゼフ・ゲッベルスであった。ゲッベルスが聴衆を逆上に追い込み感情を煽るやり方にシュペーアは嫌な思いをさせられたものの、ヒトラーから受けた強い印象を忘れることができなかったという[4]。1931年3月1日、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。党員番号は 474,481 であった[5]。党内で数少ない自家用車の所有者として国家社会主義自動車軍団(NSKK)に入団した[6]。
1932年春に助手としての給料が下げられ、更に助手の期限が切れたのを機にシュペーアはテセノウの下を離れ、ベルリンからマンハイムに戻った。マンハイムで建築家として独立して仕事を始めた。しかし父親から回してもらった貸し店舗の改築ぐらいしか仕事はなかったという[7]。
1932年7月、ナチ党の選挙運動のためにベルリンへ赴いた際、ナチ党ベルリン大管区組織部長カール・ハンケ(シュペーアは彼の別荘の改築を無償で請け負った事があった)がベルリンの党大管区の建物の改修を計画していたベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスにシュペーアの事を紹介した。これがシュペーアにとって重大な転機となった[8]。シュペーアはこの仕事に熱心に取り組んだ。ゲッベルスはこの時期11月6日の国会議員選挙の選挙活動に忙しく、たまに視察に現れるぐらいであったが、改築作業が終わった後にはシュペーアに宛てて「非常に短い期間であったにもかかわらず、貴殿が改築を期限内に終わらせ、その結果すぐに新しいオフィスで選挙活動に邁進できた事を、我々は極めて心地よく感じている。」と書いて送っている[9]。
この仕事が終わった後、シュペーアはマンハイムに戻った。1933年1月30日のアドルフ・ヒトラーの首相就任もマンハイムで聞いた[10]。1933年3月に宣伝大臣秘書官カール・ハンケから再びベルリンに招集され、宣伝大臣ゲッベルスの国民啓蒙・宣伝省の建物改修を任せられた。
ゲッベルスはシュペーアの仕事ぶりに感銘を受け彼をヒトラーに紹介し、ヒトラーは彼のお気に入りの建築家である新古典主義建築家のパウル・トロースト(de:Paul Troost)教授が行なっていた総統官邸(初代)の改修を手伝うよう命じた。シュペーアはヒトラーの依頼にこたえ、総統官邸のうちヒトラーが大衆の前に姿を見せるためのバルコニーを追加するという貢献を見せた。シュペーアはこうしてヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人となり、ナチ党の中でも独特の地位を得た。シュペーアによれば、ヒトラーは官僚的と見た人物には強い軽蔑を隠さず、一方でシュペーアのような芸術家の仲間たちには、彼自身がかつて建築や芸術への野心を持っていたためにある種の絆を感じたのか、非常に尊敬した態度を見せていた。こうした状況からシュペーアは、晩年人を遠ざけることが顕著になっていったヒトラーの素顔について一級品の証言を残している。
党主任建築家
1934年1月21日にトローストが死去し、シュペーアが党主任建築家の地位を引き継いだ[11]。主任建築家となってからの彼に与えられた初期の仕事は、レニ・リーフェンシュタールの映画『意志の勝利』の舞台となり、彼の業績の中でももっとも有名なニュルンベルクの党大会会場(de:Parteitagsgelände)であった。自伝で彼は、最初のデザインではパレード会場がまるで「射撃祭り」(de:Schützenfest)に見えてしまうと自嘲気味に語っている。彼は一からデザインを作り直し、党大会会場の設計図を完成させた。
会場は古代アナトリアのヘレニズム期の建築、「ペルガモンの大祭壇」(ベルリンのペルガモン博物館に収められているもの)のドーリア式建築を参考とし、これを24万人を収容できる巨大な規模に拡大したものであった。1936年の党大会では、シュペーアはパレード会場を150基の対空サーチライトで囲み、夜間には垂直に照射して光の大列柱を作り出した。この「光の大聖堂」のヴィジュアルインパクトは今も語り草となっている。以後1938年まで毎年9月、この会場はニュルンベルク党大会のために使用された。シュペーアはニュルンベルクで他にもさまざまなナチ党の建築を計画したが、殆どは実現しなかった。例えば、オリンピックに代わる競技大会の会場となる、40万人収容のスタジアム、「ドイツ・スタジアム」(de:Deutsches Stadion (Nürnberg))はその一例である。
これら党建築の設計に当たり、シュペーアは「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」を創案した。ヒトラーが熱烈に支持したこの理論によれば、今後新築されるすべての建築は、数千年先の未来において美学的に優れた廃墟となるよう建築されるべきだということであった。古代ギリシア・古代ローマの廃墟がその文明の偉大さを現代に伝えているように、ナチスドイツが残す廃墟は第三帝国の偉大さを未来にまで伝えるべきものであった。この理論から、鉄骨や鉄筋コンクリートによる建築よりも、記念碑的な石造建築が多く生み出されることとなった[12]。
1937年にはシュペーアはパリ万博のドイツ・パビリオンを手がけた。この建物は、スターリン様式を代表する建築家ボリス・イオファンが手がけたソ連パビリオンの正面にあり、巨大さを競い合っていた。両バピリオンはそのデザインにより金メダルを同時受賞している。
ベルリン建設総監
1937年シュペーアはベルリン建設総監 (de:Generalbauinspekteur für die Hauptstadt Berlin) に任ぜられ、ベルリンの再開発計画にも関与した。大ドイツの首都にふさわしくベルリンを改造するメガロマニアックな首都改造計画「ゲルマニア計画」である。
ベルリン市街は、ブランデンブルク門や国会議事堂の西寄りに建設される、長さ 5km の巨大な南北軸(Nord-Süd-Achse)の大通りに沿って再編成され、巨大な新古典様式の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「国民ホール(en:Volkshalle)」と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。
1939年4月のヒトラー50歳の誕生日前夜に東西幹線道路が開通し、シューペアはヒトラーへの誕生日プレゼントとして、15年前にヒトラーがスケッチした凱旋門の模型を官邸に用意してヒトラーを喜ばせた[3]。
南北軸の南端には凱旋門が計画されたが、これもパリのエトワール凱旋門を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」、「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40km に渡り伸びる予定だった。これらの大建築の設計の一部には、ヒトラーが若いころに構想してデッサンに残した建築デザインが使用された。
シュペーアの記述(シュパンダウ刑務所で書かれた回顧録)によれば、計画がすべて完成すれば8万軒の建物が立ち退きのために壊されると見られていた。シュペーアはこの計画のためにユダヤ人をベルリン市内の住宅から追放し、立ち退きに遭うアーリア人種をそこに住まわせようとしたという主張があるが、実際にシュペーアがそのような考えを持っていたか、ユダヤ人追放の責任があるかどうかについては議論がある。
ゲルマニア計画の最初のステップは1936年のベルリンオリンピック会場(ヴェルナー・マルヒ (de:Werner March) 設計)であった。またシュペーア自身はヴェルサイユ宮殿の鏡の間より2倍長い大ホールのある新総統官邸を設計した。シュペーアは多くの労働者に過酷な労働を強いて1年足らずで完成させ、その手腕にヒトラーは「わが天才」と称えた[3]。ヒトラーはさらに大きい三代目の総統官邸を設計するよう要請したが、これはついに実現しなかった。ゲルマニア計画は1939年の第二次世界大戦開戦により中断され、以後再開されることはなかった。
ヒトラーは壮大なゲルマニア計画に強い思い入れがあり、実現をベルリン陥落の迫る最期の時まで気にかけていた。新総統官邸は1945年のベルリン市街戦で大きく損傷し、戦後、占領軍であるソ連軍によって破壊された。
南北軸は実現しなかったものの、ブランデンブルク門を基点とする東西軸(Ost-West-Achse)は着工しており、ティーアガルテンに街灯などが残存している。現在ティーアガルテンに建っている戦勝記念塔も、この計画のために国会議事堂前から移設されたものである。
シュペーアには、同じくヒトラーお気に入りの建築家であるヘルマン・ギースラーという建築上のライバルがおり、二人は建築上の問題やヒトラーからの関心を惹くためにたびたび衝突していた。
軍需相
1942年2月7日に軍需相(兵器・弾薬大臣)のフリッツ・トートが飛行機事故死した。シュペーアは後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った[13]。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀なテクノクラートであったからと思われるが、シュペーア本人はヒトラーは指導的地位を素人で固める事を好み、ヒャルマル・シャハトのような専門家閣僚は好まなかったのが原因だろうと分析している[14]。
一般的に部品の共通化などの生産体制の効率を推し進め、軍需生産を増大させたのは全てシュペーアの功績であるように言われているが、実は彼が行った政策の殆どは前任者であるトートが既に考えていたものであった。しかしトートは、ヒトラーから政治的に全幅の信頼を寄せられていたシュペーアとは違い、政治的権力を持っていなかったため、各企業や省庁間などの利害関係の調整を纏めきれず、結果的にあまり成果を挙げることができないまま、事故死してしまう。 後任のシュペーアはヒトラーの信頼というバックボーンを活かし、トートが立案していた部品の共通化などの実現に向け関係企業・省庁を纏めあげ、見事生産体制の効率化を達成、結果的に功績は全て彼のものとなった。
また、能率化、コストダウンを重視していたためV2ロケット、ドーラなど、ヒトラーが欲していた高コストで大きな破壊力を誇る兵器よりも小型で使い勝手のいい兵器を作りたがっていた。しかし、建築でこそヒトラーと対等に渡り合ってきたシュペーアであったが兵器に関しては全くの素人であったこともありヒトラーに押し切られてしまい、結局シュペーアの懸念が現実のものとなり新兵器開発計画は頓挫してしまった。そして初めてシュペーアはヒトラーに対し不満を覚えることになり、シュペーアは部下にヒトラーに対する愚痴をこぼしていたと、シュペーアの元部下のW.シェルケスは証言している[3]。
戦中
シュペーアはたびたび前線に視察に赴き前線の意見を軍備計画に反映させることにつとめた。大戦末期、シュペーアは資源の備蓄が底を突き始めていることを政府幹部のなかで最も痛感している一人であった。1944年1月、シュペーアは心労と過労のため倒れベルリン郊外の病院で静養生活に入った。そこで彼はヒトラーに疎んじられているとの周囲の雑音に心痛し、ヒトラーに対して辞職を申し出た。
辞職願を受け取ったヒトラーは驚きすぐさま病院へ使いを出し「君に嫉妬する者が、あらぬ噂を煽り立てているだけだ。私は決して君を疎んじてなどいない。頼りにしている。病を治し一日も早く復帰することを願っている」と手紙を書き送った。5月になるとシュペーアは心労から立ち直り、現場に復帰した。その頃、米英による軍需施設や生産施設、輸送機関に対する空爆作戦でドイツの生産能力は甚大な被害を受けていた。シュペーアは燃料工場の9割が破壊されたことを受けこの時初めて「将来の破局」という直接的な表現をつかいヒトラーを戒めた。しかし、シュペーアに限らず部下の悲観的意見には決して耳を傾けることがなかったヒトラーはこの報告を無視したため、シュペーアは従来どおりの仕事を続けざるを得なかった。
1944年10月、イギリス軍やアメリカ軍を中心とした連合国軍によるドイツ西部侵攻が始まった。そしてその冬、ドイツ工業の心臓部ともいえるルール地方が連合国の激しい砲火によって壊滅した。シュペーアはルール地方を視察に訪れ、もはやドイツに戦争を継続し得るだけの能力がないことを確信し、これまでの「戦争に必要な物資をいかに生産調達するか」という方針から「いかに早く敗戦後のドイツが復興できるか」という方針に転換することを決意した。
そのため国内の工場や産業をいかに戦火から守るかということに苦心したが、これはヒトラーら軍幹部の方針とは正反対であった。1945年に入りヒトラーは工場、企業、インフラストラクチャー施設などの破壊(焦土作戦)命令を下した。シュペーアはヒトラーのこの命令に対して激しく抵抗し、あの手この手でヒトラーにその非を直訴した。一度は翻意したヒトラーであったが結局焦土作戦は遂行され戦後ドイツ復興の足枷となった。
この作戦が決行された時のシュペーアの様子について当時の部下は「こんなに激昂したシュペーアを見たことはいまだかつてなかった」と証言している。また、焦土作戦が決定されたことを受け、反逆罪を覚悟した上で、「3月18日までは戦況の好転に望みをつないでいました。しかしもうその望みは潰えました。ドイツ国民の生活基盤を破壊する破壊という手段を総統自ら行使しませんよう」とドイツを破壊するヒトラーを真正面から非難し焦土作戦の愚を書き連ねた信書をヒトラーに手渡した。しかし、ヒトラーは何もなかったかのようにその手紙のことについては不問とした。その後シュペーアは戦後復興を目指し戦後処理に向けた仕事をするためヒトラーとは別に行動するようになった。
しかし4月23日、ドイツ北部から飛行機で総攻撃真っ只中のベルリン・首相官邸地下壕を訪問し、ヒトラーと会談した。その内容は、シュペーア自身は『緊急の目的』とだけ語り、誰にも詳細を明かすことはなかった。しかし、シュペーアの副官M・V・ポーザーは、シュペーア自身がヒトラーから後継者に指名されることを懸念し、ヒトラーに反対の意を直訴したのではないかと推測している[15]。結局、これが二人の最後の面会となった。
ベルリン脱出後、シュペーアはカール・デーニッツ海軍元帥の元に向かい、ヒトラー自殺後に後継指名されたデーニッツの政府で閣僚となった(フレンスブルク政府)。しかし連合軍は政府の存在を認めず、5月23日にシュペーアは他の閣僚たちとともに逮捕された。
ドイツ降伏後、シュペーアはハンブルクのラジオ局から演説を行い、「今は敗戦を悲しむよりも復興のために働くべきだ」と訴えた。
ニュルンベルク裁判
ニュルンベルク裁判では、唯一戦争犯罪を認めた被告として注目を集めた。検察側に頑強に抵抗したヘルマン・ゲーリングと対極的立場に立つことになり、両者は互いに罵りあった。シュペーアはアメリカ首席検事ロバート・ジャクソンから高評価を得、ジャクソンからの反対尋問はシュペーアに有利になるような物が多かった[16]。裁判の結果、1946年10月1日に禁錮20年の刑を受ける。
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、彼の知能指数は128であった[17]。
戦後
1966年にシュパンダウ刑務所を出獄後、誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録を出版した。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られている。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからのゲーリングの異様な行動、ボルマンの心情、ヒムラーの言動、ライの異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていくゲッベルスなど、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判でのデーニッツやヘス等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。
1981年、イギリスの愛人宅において心臓発作で倒れ、ロンドンのセント・メリー病院で死亡した。BBCに出演するために渡英していた際の死亡とされ、現在ではハイデルベルクのベルクフリートホーフに夫婦そろって埋葬されている。
評価
シュペーアはニュルンベルク裁判の被告の中で唯一人、自己の戦争犯罪を認めた。また、釈放された後も積極的にマスコミ等でドイツの犯罪を批判し続けた。しかしその一方でユダヤ人虐殺については「自分は直接関知していない」「うすうす感じてはいたが積極的に知ろうとしなかったので知らなかった」などと述べている。
一連のシュペーアによる弁解については、建設総監・軍需相として強制収容所の囚人や捕虜が使役されていた採石所や軍需工場を度々視察し、労働者の増員を労働力配置総監のフリッツ・ザウケルに度々要求していたシュペーアが知らなかったはずがない、という見方が現在も強くある。
上記に記した建設総監時代に計画責任者として従事した「ゲルマニア計画」においては、退去を命じられたベルリン市民の代替居住地の供給案として、本人の弁によれば「あくまで、その場での思い付き」「いかに効率よくコストを下げる方法のひとつとして」と前置きした上で「ユダヤ人の居住地域を、退去を命じられたベルリン市民に与えてはどうか」とヒトラーに進言し、それが実行に移された。またユダヤ人退去計画の具体的な実行計画を計画したのも彼がトップを務めた建設総監であった事が最近の研究で明らかになっている。但し、どういったプロセスを経過して、彼がユダヤ人退去計画に関わり、どういうポジションにいたのかは詳細はまだまだ不明な部分が多い。
また鋼材やセメントといった戦略物資の分配を職権に持つ軍需相として強制収容所建設のための材料配分を認める書類も現存しており、シュペーアの言い分に信を置くことはできない。特にアウシュヴィッツ強制収容所の拡張計画設計においては詳細な内容(死体置き場の数、死体焼却所の数等、それら建設に伴う積算書)を記した計画設計書に、彼の部下が現地調査を実施し、その報告を元に、拡張計画書と設計図に彼が目を通し、それに許可を与えたサインが近年発見されている。しかし拡張計画をどの部署が計画し、その設計図を誰が書いたかはわかっていない。V2ロケット製造工場(ミッテルバウ・ドーラ強制収容所)の立ち上げは軍需相時代の業績のひとつであるが、ここでは多数のオランダ、ポーランドの戦争捕虜、政治犯が強制労働で死亡しており、ここの視察にシュペーア本人が何度も訪れていた事が、最近の研究結果で確認されている。
またシュペーア自身、戦後はヒトラーをはじめとするナチス幹部を批判し続けた。これに関しても、彼の良心からでた告白ではなくて保身のための変心にすぎない、との意見もある。これは彼が友人ルドルフ・ヴォルタース(de:Rudolf Wolters)に宛てた手紙とヴォルタースの日記(Chronik文書)と戦後、彼がマスメディアに向かって発信した言葉を比較検討した場合、戦前と戦後では明らかな違いがある。しかしこれは彼に限ったことではなく、戦後を生きたその他大勢のドイツ政府首脳にも当てはまる上、そもそも発言の違いの原因が何であったのかはわからない。
総合的に判断すれば、シュペーアが「ホロコースト」、「戦争捕虜の強制労働」と言ったドイツの戦争犯罪を知っていた事は間違いない。しかし、それらの政策にどれだけ関わっていたかは現在も不明である。シュペーア以外のナチス側の証言者、ユダヤ人と戦争捕虜側の証言者、それそれが独自の主観で証言をしており、現在の研究者により一定の信憑性を以って、それらの証言が迎えられているのが現状である。
家族
シュペーアは、妻マルガレーテ(1905年 - 1987年)との間に二男二女をもうけた。長女のヒルデ(1936年生まれ)は緑の党の政治家となった。長男のアルベルト(1934年生まれ)は父と同じく建築家となり、フランクフルトでドイツ有数の建築設計事務所アルベルト・シュペーア&パートナー(Albert Speer & Partner)を開き、ドイツ国内や世界各国で都市計画やビル設計を手掛けている。次女のマルガレーテ(1938年生まれ)は写真家となった。そして、次男のアルノルトは医師となった。
語録
シュペーア本人の発言
- 「優れた専門知識を備えた指導者が、政治的意思の証として、数千年を経てなおも、その偉大な時代を証言する石造建築を生みだすのは、歴史上これが最初で最後となろう」(1934年)[18]
- 「総統は期待なさっている。前線の兵士のために新しい武器を鍛えることが必要ならば、故国はいかなる犠牲もいとわない事を。我々は前線の兵士に誓う。我々の義務を引き続き遂行するだけではなく、最善を尽くして業績を上げ、休むことなく毎月生産力を向上させる事を」(1943年)[19]
- 「私は適切な関係者にだけ明かすべき、軍事技術に関するある情報を持っております。ドイツ軍との空中戦で米軍の犯した過ち、二度と繰り返すべきではない過ちを知っているのは私だけです。いかなる産業であれ永久に操業できなくさせる方法も私は知っています。私をソ連の手に渡すべきではありません。私の知識は米国側に留めるべきです。私が死刑になった場合には、その知識が全て消滅してしまう事になります」(ニュルンベルク裁判開廷直前にアメリカ主席検事ロバート・ジャクソンに宛てて書いた手紙)[20]
- 「被告人が一緒に食事や作業をするのはまずいですよ。ゲーリングが彼らを脅しつけて従わせようとしますからね」(アメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート大尉に)[21]
- 「まずカイテル、つぎにフランク、そして今度はシーラッハが、自分の罪を認め、ナチ党政権を批判したことで、ゲーリングの唱えた共同戦線が崩壊していってるんですから喜ばしい事です。私とシーラッハは親友になりましてね。お互いに「きみ(ドゥー)」で呼びあっていますよ」(1946年5月23日、ギルバートに)[22]
- 「ゲーリングと自分は争っています。ゲーリングは喧嘩腰で検察に反抗する側の代表、自分はナチスの罪を認める側を代表しているわけです。ゲーリングの反対尋問をしたのは主席検事のジャクソンでしたが、私に対しては彼の部下である貴方が反対尋問を行うそうですね。貴方には大変失礼ですが、この差を他の被告人が見逃すでしょうか。彼らの目には私がゲーリングより劣っていると映り、彼らを私の方に引き入れるのが一層困難になるのではないでしょうか」(1946年6月、アメリカ次席検事トム・ドッドに)[23]
- 「最近、弁護士から極刑につながるような戦争犯罪の告白は止めた方がいいという説得を受けました。しかし私は終身刑をせしめるために、真実を隠して、一生自己嫌悪に陥るつもりはありませんよ」(1946年6月、ギルバートに)[24]
- 「もし私が何もかも知っていたならば、私は別の行動を取っただろうか。私は何百万回もこの事を自問した。私が自分に出した答えはいつも同じだった。私はそれでもなお、この男が戦争に勝つように、なんとかして協力しただろう」(1979年)[25]
人物評
- 「私が愛していると、シュペーアに伝えてくれ」(1944年春、アドルフ・ヒトラー。エアハルト・ミルヒ空軍元帥に語った言葉)[26]
- 「シュペーアに関しては、彼が必ずしも我々古参の国家社会主義の血統ではない事を忘れてはならない。彼は何と言っても天性の技術者で、政治の事は常にほとんど気にかけてはいなかった。したがって彼はまた、このような危機にあっては、生粋のナチよりも、いくらか抵抗力に欠ける」(1944年、ヨーゼフ・ゲッベルス)[26]
- 「シュペーアは己の無罪を主張したいがために、あんな愚劣なことをしゃべった。あいつは昔から今に至るまで裏切り者なのだ」(ニュルンベルク裁判で拘禁中、ヘルマン・ゲーリング。ブロス弁護士に語った言葉)[27]
- 「フリッツ・トート博士は、以前から私にシュペーアは陰険な嘘つきだと私に警告していた。その頃の私は同じ意見ではなかったが、今になってトート博士の意見の正しさが判明した」(ゲーリング。同上)[27]
文献
著者氏名は、刊行当時の表記。
- アルバート・シュペール・著、品田豊治・訳 『ナチス狂気の内幕 -- シュペールの回想録』 読売新聞社 1970年
- 回顧録。原題は、Erinnerungen von Albert Speer。
- アルベルト・シュペーア・著、品田豊治・訳 『第三帝国の神殿にて -- ナチス軍需相の証言』(中公文庫BIBLIO20世紀.全2巻) 中央公論新社(上巻:2001年7月 ISBN 4-12-203869-3、下巻:2001年8月 ISBN 4-12-203881-2)
- ※上記の文庫版、『ナチス狂気の内幕--シュペールの回想録』(読売新聞社)
- H.R.トレヴァ=ローパー著、橋本福夫訳『ヒトラー最期の日』(筑摩叢書・筑摩書房、1975年)
- ※ヒトラー研究の古典。著者はヒトラー政権幹部の中でシュペーアを高く評価し、その評価に多くの頁を割いている。
- ロバート・ジェラトリー・編、レオン・ゴールデンソーン・著、小林等・高橋早苗・浅岡政子・訳 『ニュルンベルク・インタビュー 上』 河出書房新社 2005年11月 ISBN 4-309-22440-7
- ※上巻「第1部 被告」に、「軍需相 アルベルト・シュペーア」のインタビューを収録。
- グイド・クノップ 高木玲訳『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち』 原書房 2001年
- ※上巻第5章に「建築家―アルベルト・シュペーア」がある。
- アルベルト・シュペーア・著 Spandauer Tagebücher, Propyläen, 1975, ISBN 3-549-17316-4
- 回顧録。
- Arndt Verlag・編 Hitlers Neue Reichskanzlei,Haus des Deutschen Reiches 1938-1945, Kiel,2002,ISBN 3-88741-051-3
- ※アルベルト・シュペーアの設計による新総統官邸の写真集。
- ルドルフ・ヴォルゲースの手紙と日記(1941-1981)――所謂、Chronik文書。シュペーアの友人であり、ナチスの中堅幹部でもあったヴォルタースがシュペーアに宛てた手紙と、彼の事を特に記録した日記。シュペーアを研究する上では一級史料となっている。
メディア
シュペーアを演じた俳優
- ハーバート・ナップ『ニュルンベルク軍事裁判(2000年)』DVD発売名「ヒトラー第三帝国最後の審判 ニュールンベルグ軍事裁判」
- ハイノ・フェルヒ『ヒトラー 〜最期の12日間〜(2004年)』
ドキュメンタリー
- 『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』 ハインリッヒ・ブレロアー監督 ; ハインリッヒ・ブレロアー, ホルスト・クーニグスタイン脚本 ; ゲモット・ロール撮影監督 ; ハンス・ピーター・ストローアー音楽 ; ティロ・クライン, ミカエル・ヒルド製作
- 再現ドラマシーンを交えたシリーズ伝記作品 DVD-BOX5枚組の構成は、
- 「ドキュメンタリー 本当に彼は知らなかったのか?~20年後のシュペーア~」
本稿の参考文献
- グイド・クノップ 高木玲訳『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち』 原書房 2001年
- アルバート・シュペール著、品田豊治訳 『ナチス狂気の内幕 -- シュペールの回想録』 読売新聞社 1970年
- 阿部良男著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、2001年、柏書房、ISBN 978-4760120581
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年
出典
外部リンク
- Albert Speer's New Reich Chancellary - a documentation
- BBC - BBC Four - Audio Interviews - Albert Speer
- A tribute to Speer's architecture
- Testimony of Albert Speer at us-israel.org
- Speer und Er German docudrama broadcast in May 2005, presenting new incriminating evidence of Speer's role, e.g. in the construction of Auschwitz.
- 3d animated Reich Chancellery
- シュペーアの墓について
テンプレート:ヒトラー内閣 テンプレート:ニュルンベルク裁判被告人
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)17ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)21ページ
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 ドキュメンタリー『アルベルト・シュペーア ヒトラーと6人の側近たち』(ZDF、ドイツ、1996年)
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)29ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)278ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)30ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)31ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)33ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)279ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)34ページ
- ↑ 『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』263ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)67ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)209ページ
- ↑ 『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)212ページ
- ↑ 『ヒトラーと6人の側近達』
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)217頁
- ↑ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)285ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)304ページ
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)172頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)20頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)199頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)208頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年) 209頁
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)277ページ
- ↑ 26.0 26.1 『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』(原書房)275ページ
- ↑ 27.0 27.1 金森誠也著『ゲーリング言行録 :ナチ空軍元帥大いに語る』(荒地出版社、2002年)160頁-162頁