ウィリー・メッサーシュミット

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“ウィリー”ヴィルヘルム・エミール・メッサーシュミットWilhelm Emil "Willy" Messerschmitt1898年6月26日 - 1978年9月15日)はドイツ航空機設計者である。1934年にヴァルター・レーテルと設計したメッサーシュミット Bf109の設計者として知られる。Bf 109は第二次世界大戦ドイツ空軍の主力レシプロ戦闘機で、35,000機が生産された。その他に速度の世界記録を記録したBf109R(Me209)やメッサーシュミットの会社が開発・製造した双発ジェット戦闘機Me262などで知られる。ナチス党党員。

フランクフルトワイン商人の息子として生まれた。青年のとき、ドイツのグライダーのパイオニアであるフリードリッヒ・ハルトと親しくなった。メッサーシュミットがミュンヘン工科大学で学ぶ間も、ハルトとともにバイエルン航空機製造(Bayerische Flugzeugwerke、BFW)で航空機の製作を行った。1921年にグライダーS8を製作し、航続記録の世界記録を樹立した。同じ年にメッサーシュミットが単独で設計したグライダーS9を飛行させた。

1923年にハルトから独立してアウクスブルクに自らの会社、メッサーシュミット航空機製造工場を設立し、モーターグライダーM17、全金属製単葉輸送機のM18などを製造した。1927年にはバイエルン州政府の意向でBFWに吸収合併されたが、合併後も設計は引き続きメッサーシュミットが担当した。1928年にメッサーシュミットが設計した軽輸送機M20ルフトハンザで事故を起こし、契約は破棄され、BFWは1931年に破産した。ルフトハンザの社長エアハルト・ミルヒは事故で友人を失い、メッサーシュミットと対立することとなった。

1933年ナチス政権に帝国航空省(Reichsluftfahrtministerium)が設立されると、航空省を率いたミルヒはドイツ航空工業の再編を行い、BFWを再建した。メッサーシュミットは低翼単葉のスポーツ機M37を設計した。これは航空省によってBf108という記号がつけられた。Bf108には先進的な技術が取り入れられ、若き天才としてメッサーシュミットが世界に注目されるきっかけとなった。

1936年には航空省による単座戦闘機の競争試作でメッサーシュミットが設計したBf109が勝利した。このBf109の勝利に対して、競争相手のエルンスト・ハインケルは「He112がパイロットの支持を多くうけ、試作後期では性能的にも上回っていたのに敗北したのは、メッサーシュミットがナチス党員であったからだ」とする(ハインケルの自著)。しかし、当時の情勢として、試作初期の段階で仮想敵であるイギリススピットファイアの高速性があきらかになりつつあり、また当時数をそろえなければならなかったドイツ空軍は一撃離脱性能に優れ、生産性にも配慮されたBf109を選んだとされる。ただし、メッサーシュミットがハインケルより宣伝に長けており、空軍や航空省に協力にアプローチした事実はある。この戦闘機Bf109こそが彼の名を歴史に長くとどめる理由である。1938年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定した「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞する。

1938年7月11日にメッサーシュミットはBFWの支配人となり、社名もメッサーシュミット株式会社(Messerschmitt AG)に改められたが、メッサーシュミットは経営的にも優れた才能を発揮した。さらに双発の戦闘機としてBf110が採用されたが、バトル・オブ・ブリテンでは爆撃機の護衛という任務を達成することができず、作戦失敗の原因のひとつとなった。その後、双発ジェット戦闘機、Me262を開発したが、軍の干渉が設計にまで及びはじめ、かつての生彩はそこにはなかった。

第二次世界大戦での敗戦後、強制労働の罪で1948年に有罪となり、2年間収監された。釈放後はメッサーシュミット社に戻ったが、航空機の製造や研究は1955年まで禁止されたので、プレハブ住宅や小型自動車ミシンを製造する一方、スペインのイスパノ航空(Hispano Aviacion)のジェット練習機HA 200を設計した。航空機製造の解禁後、メッサーシュミット社はフィアットG.91ロッキードF-104ライセンス生産ヘルワン HA 300の設計を行った。

メッサーシュミット社は合併を経て1969年メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム(Messerschmitt-Bolkow-Blohm、MBB)となるが、メッサーシュミットは会長の座にとどまり、翌1970年に引退した。