湾岸戦争

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 湾岸戦争
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右回りに、炎上するクウェートの油田、グランビー作戦下のイギリス軍AC-130からの映像、死のハイウェイM728戦闘工兵車
戦争:湾岸戦争
年月日1990年8月2日 - 1991年2月28日
場所イラククウェートサウジアラビア
結果:多国籍軍の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon クウェート
テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国
テンプレート:Flagicon サウジアラビア

テンプレート:UK
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テンプレート:Flagicon イタリア
テンプレート:Flagicon バングラデシュ
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など

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ
テンプレート:Flagicon ジョージ・H・W・ブッシュ
テンプレート:Flagicon ノーマン・シュワルツコフ
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テンプレート:Flagicon ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
テンプレート:Flagicon アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ
テンプレート:Flagicon ジョン・メージャー

テンプレート:Flagicon ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー
テンプレート:Flagicon サッダーム・フセイン

テンプレート:Flagicon アリー・ハサン・アル=マジード

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width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 959,600[2] 545,000 (クウェート領内 100,000)テンプレート:Citation needed
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 多国籍軍:
死亡 240-392[3]
負傷 776[4]
クウェート軍:
死亡 1,200テンプレート:Citation needed
死亡 20,000-35,000[4]

テンプレート:Battlebox/nested

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湾岸戦争(わんがんせんそう、テンプレート:Lang-arテンプレート:Lang-faテンプレート:Lang-en)は、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、国際連合多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事に始まった戦争

概説

1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始める[9]国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、対イラク経済制裁措置を発表した。その6ヶ月後、ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成された。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍には、サウジアラビア、イギリス、エジプトが順に参加した。

国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ合衆国イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラク攻撃への態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき[10]、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。

イラク大統領サッダーム・フセインは、開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した[11]。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる[12]この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた[13][14][15]

このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。

空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。

戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた[16]

湾岸危機(開戦までの経緯)

イラクとクウェートの摩擦

1988年8月20日に、イラクはシーア派イスラーム共和制国家のイランとの8年間に及ぶイラン・イラク戦争停戦を迎えた。

ファイル:Iraq, Saddam Hussein (222).jpg
サッダーム・フセイン

戦争中にアメリカ合衆国やソビエト連邦などの大国や、ペルシア湾岸のアラブ諸国に援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大となったが、イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなり、戦災によって経済の回復も遅れていた。イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレル15から16ドルの安値を推移し、イラク経済は行き詰っていた。

イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、サッダームは追い詰められた。

サッダームはOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、カタールアラブ首長国連邦の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。

一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPECの割当量を超えた石油の増産を行なっていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全に無視して大量に採掘し、原油価格は値崩れを起こした。こうして石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。

1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてサッダームは「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。

これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。7月18日、イラクのターリク・アズィーズ外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えて石油を生産したことによって、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。

クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田については、イラクも領有を主張しており、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。また、クウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。

この事態に周辺のアラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。 これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。7月21日には、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクが、サッダームと電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。

事態を重く見たムバーラクは、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結させた。同日、ムバーラクはイラクを訪問し、サッダームに対して、クウェートに対する軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。これに対してサッダームは、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、これが受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバーラクの提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたサッダームは、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。

同日、サッダームと会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に共和国防衛隊を集結しているところをアメリカ軍の偵察衛星も確認した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。

アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。OPECはサッダームを懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、サッダームはすでに交渉による解決に関心を示さなかった。一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していたワルバ島とブービヤーン島をイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。これに対してクウェート側代表のサアド首相は、イラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。イラクは、次回協議をバグダードで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。

8月1日に、両国を仲介していたムバーラクとパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤーセル・アラファートは「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。

イラクのクウェート侵攻

ファイル:Cheney meeting with Prince Sultan.jpg
サウジアラビア皇太子のスルターン・ビン・アブドゥル=アズイーズと会談するアメリカ国防長官のディック・チェイニー
ファイル:Saddam1990.jpg
会見を行うフセイン

テンプレート:Main 1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊の機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始した。ムバーラクとアラファートを完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。

クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領した。同時に革命評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、アラー・フセイン・アリー首班のテンプレート:仮リンク(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートの首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハはサウジアラビアへ亡命した。異父弟のシェイク・ファハド・アル=サバーハは、少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した。

多国籍軍

イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。

8月7日アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはサウジアラビアへ圧力をかけて、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にメッカという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、異教徒の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。

しかし、サウジアラビアとしても、石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。

しかし、国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、イギリスやフランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(砂漠の盾」作戦 operation desert shield )。

イラクの反応

イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として、イラク第19番目の県「カーズィマ県」として併合を宣言した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。

8月12日にイラクは、「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日エルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になる。

「人間の盾」

さらにイラクは8月18日に、クウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、米国や英国などの民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。この行為は世界各国からの批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。

しかしその後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。

戦争推移

ファイル:Operation Desert Storm.jpg
「砂漠の嵐」作戦進路

砂漠の嵐

1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )を開始した。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃はサウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート側に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍B-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を実況生中継して世界に報道した。

1月27日アメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。

なお多国籍軍の圧倒的に有利な状況を受けて、イラク軍は航空兵力の損失を恐れて空中戦を積極的に行わないばかりか、自国軍機をイランなどの周辺国に強制的に退避させた他、イラク航空旅客機についても同じように周辺国に退避させた。

周辺諸国攻撃

一方、フセインは「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。

イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセインが攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した[7]

イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセインのもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。

アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役に立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。

1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃する。しかし、戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。

砂漠の剣

ファイル:British gulf war.jpg
塹壕で訓練中のスタッフォードシャー連隊第1大隊C中隊(イギリス陸軍第1機甲師団)の兵士たち(1991年1月6日

1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止される。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦operation desert saber)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。

大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。

イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた[8]。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退を開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。同日中にアメリカのブッシュ大統領が停戦を発表し、フセイン大統領は敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結した。

停戦協定

3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラクが敗戦を認めたと同時に停戦したため、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセインは、温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。

国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。

その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。

損失

一般市民

巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダードを標的とした。イラク軍の統制及びサッダーム・フセイン大統領の権力が座す同市は、爆撃の重要な標的となった。これは、市民から多大な数の犠牲者を生む原因となった。

地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた、200人から400人の市民が死亡した[17]。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、イラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるため、故意に動かされたとの主張がなされ、これを巡る論争は激した。

カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテ(Beth Osborne Daponte)の調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された[18][19][20]

イラク

正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている[18]。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった[21]。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。

サッダーム・フセイン政権は、イスラーム諸国からの支持を得るため、市民からの死傷者数を大きく発表したテンプレート:要出典。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張したテンプレート:要出典。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した[22]

連合国

ファイル:Patriot missile launch b.jpg
パトリオットミサイルの発射

国防総省は、テンプレート:仮リンク(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のテンプレート:仮リンクが追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した[23]。イギリスは47名(友軍砲火により9名)、フランスは2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した[23]。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である[24]

多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのテンプレート:仮リンク28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡したテンプレート:要出典

多国籍軍の、戦闘による負傷者数は、アメリカ兵458名を含む776名であった[25]

しかし、2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる、183,000人の復員軍人は、復員軍人省により、恒久的に参戦不能であると診断された[26][27]。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている[28]

ファイル:DF-ST-92-08022-C.jpg
砂漠の嵐作戦に参加し、地雷を除去するサウジアラビア陸軍M-113装甲兵員輸送車及び軍事車両。1991年3月1日、クウェート

イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により、379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。また、アメリカ人女性兵3名が死亡した。

これは国別の多国籍軍の死亡者数である。

テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国 - 294名 (114名が敵からの攻撃、145名が事故、35名が友軍相撃による)
テンプレート:Flagicon イギリス - 47名 (38名が敵からの攻撃、9名が友軍相撃による)
テンプレート:Flagicon サウジアラビア - 18名[29]
テンプレート:Flagicon エジプト - 11名[30]
テンプレート:Flagicon アラブ首長国連邦 - 6名[31]
テンプレート:Flagicon シリア - 2名[32]
テンプレート:Flagicon フランス - 2名
テンプレート:Flagicon クウェート - 1名 (砂漠の嵐作戦下)[33]

友軍相撃

イラク戦闘員による多国籍軍間の死亡者数は非常に低く、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、 さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。

論争

ペルシア湾への石油流出

テンプレート:Main 1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった[34]。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった[35]

クウェートにおける石油火災

テンプレート:Main クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された[36]

生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約テンプレート:Convertの石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した[37]。しかし、火災は発生より10ヶ月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。

戦後補償

国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。

フセイン政権は1994年から賠償金を支払い、現在までに301億5000万ドル(2兆6000億円)が支払われた。しかし、残高が223億ドル(1兆9300億円)も存在し、現行ペースでは完済に十数年かかると見られている。

このため、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。

国境画定問題

現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、テンプレート:仮リンクに基づいて画定された[38]。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した[38]。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された[39]。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。

戦費

アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした[40]。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)[41]ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた[40] 。多国籍軍の内アメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。

投入兵器

ファイル:Missouri missile BGM-109 Tomahawk.JPG
ミズーリから発射されたトマホーク。湾岸戦争は、戦艦が使用された最後の紛争であった(2011年現在)

トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾F-117ステルス攻撃機パトリオットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾全地球測位システム (GPS)、F-15E戦闘爆撃機など、この戦争において特にアメリカは数々の新兵器を投入した。

中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。

アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといった誘導爆弾は、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにもかかわらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。ジャーナリストたちが、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行われた。

多国籍軍が投下した爆弾うち、7.4%は精密誘導によるものであった。クラスター爆弾を含む複数の子弾を四散させる爆弾[42]及び15,000ポンド爆弾デイジーカッターは、数百ヤードにわたる範囲内の建造物を破壊可能である。

全地球測位システムは、砂漠全域における円滑な部隊運用を可能にした。

早期警戒管制機 (AWACS)及び衛星通信システムもまた重要な役割を果たした。アメリカ海軍E-2ホークアイ及びアメリカ空軍E-3セントリーがその一例である。これらの航空機は作戦範囲における司令及び管制に使われた。これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った多くの理由の内の一つである。

「陰謀説」

この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする意見がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなものである。

  • 1990年7月25日にイラクがクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。しかしこれはアメリカが第3国間の領土問題に対する姿勢としては普通のものである。例えば竹島問題ではアメリカはノーコメントである[43]
  • 1990年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取ったとされる。ただし、イラク軍のクウェート侵攻の準備はこの日より以前に開始されているし、この会談の席でイラクは、領土割譲を要求してクウェート側を怒らせている。
  • 1990年10月、クウェートの少女がアメリカ議会において、クウェート市内のイラク兵が病院で乳児を保育器から出し床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言(「ナイラ証言」)、戦争に疑問を抱いていたアメリカ世論は一挙に反イラク色に染まったが、後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。さらにその後、その殺害された乳児を埋葬したと主張するクウェート人医師も証言を行ったが、こちらも同様に虚偽であった。クウェートが占領された後の話で、戦争勃発原因とは関係ないが、アメリカの世論を反イラクに傾けることになった。
  • アメリカ政府は戦前、戦中にかけて、ことさらイラク軍の脅威を誇張し、世論を「武力制裁やむなし」と言う流れに変えたという意見がある。しかし地上戦になると、実際のイラク軍は装備も貧弱で士気もまるで無く、多国籍軍の猛攻から逃げ回るばかりだった。ただし、この種の話はよくあることで、イラクだけが特別ではなく、また、将兵の士気の低さを指摘する意見もあった。
  • 湾岸危機から戦争にかけて石油価格は値上がりし、結果的には欧米の石油メジャーは利益を得た。また、ソ連は和平工作をすることによって存在感を表したが、それは戦争直前のことである。

しかしながら、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、さらにイラクは、「イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守った」と自負していたが、クウェートが100億ドルとも言われるイラン・イラク戦争時の戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始した挙句クウェートに侵攻したものの、友好国を含む国際社会からの批判を黙殺するなど、非難されるのはイラクの方であるという考え方が現在では主流である。

テロリストへの影響

サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国への米軍の駐留に反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによる米国への同時多発テロを実行したと発表されている[44]

過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦『コール』を攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたターリバーンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしターリバーンは引き渡しに応じず、2001年アメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。

思想的にはイスラム原理主義のアルカーイダは、アラブ社会主義をとるフセイン政権とは対立関係にある。ただし、同じアラブ社会主義国であるシリアは対イスラエル政策のカードとして、レバノンヒズボラに対して支援を行なっており、逆にシリア国内の原理主義勢力に対しては弾圧政策(1980年代初頭のハマ事件など)を取っている。このため、思想的に距離があったとしても、利害関係に一致する点(ここでは反イスラエル)が見出されれば互いに手を結ぶ可能性は残されている。

日本への影響

湾岸危機から戦争にかけて石油価格が値上がりし、バブル景気に浮かれていたものの、原油の多くを中東からの輸入に依存していた日本経済を直撃し、その終焉と時をほぼ同じくして、一気にバブルが崩壊した。さらに、アメリカ合衆国政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合はこれを拒否。さらに当時の外務大臣中山太郎が、外国人の看護士あるいは介護士、医師を日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空運航乗務員組合と整備員の加入する組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した[45]。急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党ハト派社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は、第二次海部内閣の改造内閣であった。

政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)の資金援助を行ったが、アメリカを中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難された。ただし、日本の拠出した総計135億ドルという額は、日本の経済規模や中東石油への依存度を考えるとそれほど突出した額ではない。

クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議を出したが、日本はその対象に入らなかった。もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカの手に渡ったことも要因となる。また、クルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)の内、695億5000万円がアメリカの手に渡った(いずれも1993年〔平成5〕4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より)。

これを受けて日本政府は、国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させ、ペルシャ湾機雷除去を目的として海上自衛隊掃海艇を派遣、自衛隊海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。これを「自衛隊の海外派遣」として反対する運動が高まり、国内を二分した。なおこれに代わり多額の援助を諸国にもっと評価させるべきとの主張もなされた。

なお、クウェートが日本に感謝決議を出さなかったのは、クウェート外相の個人的感情によるものとの異説がある。かつて大平正芳が外務大臣であった時、来日したクウェートの外相と会談した。大平は目をつむって話を聞いたが、クウェートの外相は居眠りしていると勘違いして、怒って席を立ってしまった。彼は20年後の湾岸戦争時もまだクウェート外相の座にあり、大平への恨みを持つ人間が日本に対し感謝決議を出させるはずがないというのである[46]

また、鶴見俊輔鈴木正文などは、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織した[47]

多国籍軍に参加した国一覧

呼称の変動

日本では英語の“Gulf War”を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。

一方イラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。

アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争 (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。

また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、「ニンテンドー戦争 (Nintendo War)」とも呼ばれた[48][49][50]

作戦名

ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。

  • 砂漠の盾作戦 (Operation Desert Shield) - 1990年8月2日から1991年1月16日にかけて行われた、アメリカによる、戦力増強及びサウジアラビア防衛の作戦名。
  • 砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm) - 1991年1月17日から1991年4月11日にかけてのエアランド・バトル
  • ダゲ作戦 (Opération Daguet) - フランス軍による作戦名
  • フリクション作戦(Operation FRICTION) - カナダ軍の作戦名
  • ロクスタ作戦 (Operazione Locusta) - イタリアの諸作戦
  • グランビー作戦(Operation Granby) - イギリス軍の諸作戦
  • 砂漠の送別作戦(Operation Desert Farewell) 1991年のクウェート解放後のアメリカ軍部隊および装備のアメリカ合衆国本国への帰還作戦。しばしば「砂漠の平穏作戦」(Operation Desert Calm)と呼称される
  • 砂漠の剣作戦 (Operation Desert Sabre) 1991年2月24–28日、「砂漠の嵐作戦」の一部として行われた、アメリカ軍によるクウェート地域のイラク軍への「100時間戦争」(the "100-hour war") 。 砂漠の剣作戦の初期においては、デザート・ソード作戦 (Operation Desert Sword) とも呼ばれた。

これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。

戦闘

アメリカ合衆国は、この紛争を以下のように大きな3つの戦闘に分けた。

  • 「サウジアラビアの防衛」(Defense of Saudi Arabia) - 1990年8月2日から1991年1月16日までの期間。
  • 「クウェートの解放と防衛」(Liberation and Defense of Kuwait) - 1991年1月17日から1991年4月11日までの期間。
  • 「中東アジア停戦」(Southwest Asia Cease-Fire) - 1991年4月12日1995年12月30日までの、テンプレート:仮リンクを含む期間。

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Persian Gulf Veterans National Medal of US

脚注

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参考文献

  • 『湾岸戦争-いま戦争はこうして作られる』著:ラムゼイ・クラーク 訳:中平信也 ISBN 978-4885031151
  • 『フセイン流戦略の深層』著:佐々木良昭 :フットワーク出版 ISBN 978-4876890408

関連項目

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テンプレート:アメリカの戦争

テンプレート:Link GA

テンプレート:Link GA
  1. Foreign Affairs
  2. Gulf War Coalition Forces (Latest available) by country www.nationmaster.com
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