西アジア・中東史
テンプレート:出典の明記 西アジア・中東史(にしアジア・ちゅうとうし)では、メソポタミア文明に始まり、現代にいたるまでの西アジア・中東の歴史を述べる。
概要
世界四大文明の一つであるメソポタミア文明はウルなどの都市国家主体で、ジッグラトを建造するなどの卓越して洗練された文明を誇った。やがて、バビロニア、アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アルサケス朝パルティア (前247? - 226)、サーサーン朝ペルシャ (226? - 651) などが支配した後、ムハンマドがジブリールよりアッラーの啓示を受けイスラム教を開くと、正統カリフ時代 (632 - 661) 、ウマイヤ朝 (661 - 750) 、アッバース朝 (750 - 1258) と変遷の間に周辺地域を次々と征服していき、イスラム教系の王朝は西はイベリア半島、東はインダス川、南はエジプト、北は小アジアをその領土とし、暗黒の中世を送ったヨーロッパとは対照的に非常に優れた文明を誇った。10世紀にブワイフ朝、11世紀に、セルジューク朝がバグダードへ入城した。イラン東部とアフガニスタン、いわゆる歴史上のホラーサーン地方では、11世紀にガズナ朝、12世紀にホラズム・シャー朝とゴール朝が繁栄した。
その後モンゴル帝国の台頭とともに、ホラズム・シャー朝は滅ぼされ、大半はイル・ハン国の領土となる。
イル・ハン国滅亡後、ティムール帝国が西アジアのほぼ全域を支配した。小アジア半島に建国したオスマン帝国 (1299 - 1922) は1402年のアンカラの戦いで一時ティムールに敗れるが、やがて勢力を回復。1453年にコンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡、一気にバルカン半島、エジプトを征服し、東地中海を内海とする大帝国が完成した。 一方、シーア派系の神秘主義教団の指導者であったイスマーイール1世は、白羊朝を倒して1502年にサファヴィー朝を建国した。サーサーン朝以来900年ぶりのイラン人による民族王朝とされる(ただし異論もある)。一時火器をたくみに使うオスマン帝国との戦いに敗れるものの、16世紀末に即位した英主アッバース1世のもとで軍制を改革するとともに貿易によって首都イスファハーンは世界の半分といわれるほどの繁栄を誇った。サファヴィー朝の衰退後はアフシャール朝、カージャール朝と続くが、欧米諸国とロシアによって半植民地化されていく。
オスマン帝国は、第一次世界大戦の敗戦により、勝戦国であるイギリスとフランスにより解体された。トルコの敗戦に際してはアラブ民族の反乱の力も大きかったが、英仏など列強はアラブ民族の民族自決を認めず、中東一帯はヨーロッパ諸国の植民地とされた。敗戦で多くの領土を失ったトルコは近代化を掲げてケマル・アタテュルクらが小アジアで革命を起こし、トルコ共和国となった。
しかし、イギリスとフランスは第二次世界大戦で勝戦国になったものの、ナチスドイツに圧迫されたツケは大きく、終にはアメリカ合衆国に覇権を奪われて現在に至る。同様に、植民地化された地域も1945年以後(第二次世界大戦後)に次々と独立、ほぼ現在ある国々となった。
1945年以前
1945年以後
1945年から現在に至るまでの中東の特徴は、アメリカ合衆国との対外関係が物を言う時代である。
1945年9月2日に第二次世界大戦が終結すると、疲弊したイギリスとフランスは植民地を続々と手放し、アメリカ合衆国率いる冷戦の反共主義陣営に加わった。そして、冷戦時代の中東は、アメリカとの対外関係を重視すると同時に、ソビエト連邦から兵器の援助を受けるなど、米ソの「緩衝地帯」となった。この冷戦初期に樹立された親米国家がイスラエルであり、冷戦時代には「イスラム教諸国vsイスラエル」の構図で四度に亘る中東戦争が勃発した。
そして、1989年12月3日のマルタ会談で冷戦が終わると、中東は、アメリカによる一極体制と対峙する地域になった。1990年8月2日から1991年2月末日まで続いた湾岸戦争では、中東は「イラクvsイラク以外」の構図に分かれた。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに端を発して対テロ戦争が起こり、同時多発テロから1年半後の2003年3月20日にはイラク戦争が勃発した。しかし、同時多発テロによってアメリカ国内でイスラム教への敵意が膨れ上がったことから、単純な「イラクvsイラク以外」の構図にはならなかった。
リーマン・クライシスに端を発した2008年の世界金融危機により、アメリカによる一極体制は崩壊し、世界は多極体制に回帰して、アメリカ政府による中東への締め付けは緩くなった。この最中で起こった出来事が、2011年のアラブ民主化革命である。
関連項目
- 中東関連
- 中東以外の世界史