日本海中部地震
テンプレート:地震 日本海中部地震(にほんかいちゅうぶじしん)は、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖80km(北緯40度21.6分、東経139度4.4分、深さ14km)の地点で発生した逆断層型の地震。マグニチュードは7.7であった。
目次
概要
当時日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10mを超える津波による被害が出た。国内での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者である。家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻。被害総額は約1800億円。
震度3以上(当時の震度階による)を観測した地点は以下の通りであった[1]。
震度 | 都道府県 | 市区町村 |
---|---|---|
5 | 青森県 | 深浦町 むつ市 |
秋田県 | 秋田市 | |
4 | 青森県 | 青森市 八戸市 |
北海道 | 森町 江差町 | |
岩手県 | 盛岡市 | |
山形県 | 酒田市 | |
3 | 北海道 | 函館市 倶知安町 室蘭市 帯広市 |
岩手県 | 宮古市 大船渡市 | |
山形県 | 新庄市 山形市 | |
宮城県 | 仙台市宮城野区 | |
福島県 | 福島市 | |
新潟県 | 上越市 新潟市中央区 佐渡市 | |
石川県 | 輪島市 |
震源に最も近い秋田県能代市では当時まだ地震計が設置されておらず、震度5またはそれ以上と推測された。
解説
本震に先立ち、前震とみられる地震が5月14日22時49分頃(M5)、5月22日4時52分頃(M2.4)、同日23時14分頃(M2.3)に本震と同じ場所で発生している。本震は、約20秒間隔で発生した2つの揺れで構成されている[2]。本震発生後の余震は、6月1日0時まで有感地震が211回、無感地震が828回あった。さらに6月に入ってから6月9日21時49分にM6.1、同22時4分にM5.9、そして最大の余震(M7.1)が本震発生後の1か月ほど後の6月21日15時25分に発生した。この余震では津波が観測された。
気象庁が正式名称の「日本海中部地震」を発表するまでの間に報道各局が便宜上使用した名称として使われ、公式の記録上には残らないものに、「秋田沖地震」や「日本海秋田沖地震」の通称がある。
地学的知見
サハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯の日本列島の乗る島弧地殻と日本海の海洋地殻の境界付近で発生した地震[3]。後年の詳細な調査により、プレート境界型に近い地震発生様式である可能性が高いことが明かになった[4]。また、約1000年前に同様な大地震が発生していた可能性も指摘されている[4]。
青森県岩崎村の沖合約40kmで震源域のすぐ近くにある、長さ50m、幅13m程度の岩礁の島、久六島では約30cm - 40cm沈下したと考えられる[5]。
地震像
震源域は”く”の字を逆にした様な形で、総延長が約100km。
複数の手法による解析の結果、いくつかの破壊モデルが挙げられている。
その1つは、本震は約50秒間の3つのサブイベントからなる[6]。 第一イベントは最初の破壊点から北北東方向に久六島の西方沖まで破壊が進んだ。第二イベントは第一イベントの終了後約10秒間の時間をあけて北北西に進み北緯40.8付近で止まった。第三イベントは第二イベントが止まった北緯40.8付近で破壊方向を北北西方向に変え進んだ。
別な解析では、2つのサブイベントからなり主破壊は30 - 35km離れたところで24秒 - 26秒間隔で発生した[7]、などがある。
前震活動
1964年男鹿半島沖地震 (M 6.9)は破壊開始点が近接しており先行した地震と考える説もある[8]。また、本震発生の12日前の5月14日に 破壊開始点付近でM 4.9 の地震が発生し顕著な活動は、5月20日頃まで続いた[9]。また発生に先立ち、約10年間の静穏化が発生していた[10]。
地震被害
死者・負傷者数 | 住宅被害棟数 | その他 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
地域 | 死亡 | 負傷 | 全壊 | 半壊 | 全半焼 | 一部損壊 | 道路 | 山崩れ |
北海道 | 5 | 55 | 2 | 3 | ||||
青森県 | 18 | 167 | 587 | 2 | 1265 | 77 | ||
秋田県 | 4 | 36 | 757 | 1029 | 3 | 1735 | 535 | 40 |
山形県 | 1 | 1 | ||||||
新潟県 | 1 | |||||||
合計 | 4 | 59 | 924 | 1616 | 5 | 3056 | 616 | 43 |
- 倒壊物等により秋田県内で4人が死亡した。
- 秋田市大町二丁目の本金デパートの名物「本金タワー」が倒壊し屋根を直撃、四階で催事の準備をしていた主婦3人が下敷きになり1人が死亡した。
- 家屋の被害は、全壊934戸、半壊2115戸、一部損壊3258戸、流出52戸、浸水214戸、その他2582戸に達し、被害総額は1482億3827万円余。秋田県では太平洋戦争下の土崎空襲以後の最大の災害であった。
- 火災被害の報告は一般家屋ではなかったが、秋田県秋田市の東北電力秋田火力発電所内の原油の浮屋根タンクで火災が発生し、新潟でも石油タンクが石油の溢流を起こした。これらは、長周期地震動によるスロッシングによるものであることが後にわかった[11][12]。
- 液状化現象によって、港湾・道路・鉄道・八郎潟の干拓堤防の破壊などが起きた。液状化現象は1964年(昭和39年)の新潟地震から注目された現象であったが、この地震での広範囲にわたる被害により、さらに注目されるようになった。
- 地震による直接的な被害は比較的少なかったが、電力・通信・ガス・水道・交通などのライフラインが被害を受け、特に水道やガスなどの被害は市民生活に長期間の影響を与えた。二次被害が心配されたが、梅雨の時期を迎えてもこの年は比較的降雨量が少なく、大事に至らなかった。
- 283箇所の人造の溜め池の堤体(堤)の全体が崩壊、あるいは堤体の一部崩壊、亀裂、沈下が発生、10箇所では決壊も生じた。決壊は最大震(本震)の直後から数十分程度で生じたと考えられる。なお、堤体の築造後10年以内の被害率および被害の程度が大きかった事が報告されている[13]。
津波被害
死者・負傷者数 | 住宅被害数(棟) | 船舶(隻) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
地域 | 死亡 | 負傷 | 全壊 | 半壊 | 流出 | 一部損壊 | 沈没 | 流出 | 破損 |
北海道 | 4 | 19 | 9 | 12 | 42 | 180 | 289 | ||
青森県 | 17 | 4 | 21 | 65 | 228 | ||||
秋田県 | 79 | 71 | 485 | 52 | 202 | 60 | 136 | 483 | |
山形県 | 9 | ||||||||
新潟県 | 2 | 8 | 24 | ||||||
石川県 | 3 | 1 | 2 | 12 | 6 | ||||
京都府 | 7 | 18 | |||||||
島根県 | 5 | 104 | 56 | 145 | |||||
合計 | 100 | 104 | 10 | 499 | 52 | 202 | 235 | 451 | 1187 |
当時のシステムで津波警報が発令されたのは地震発生後14分後であったこと、日本海側に津波は来ないという俗説がまかり通っていたことが人的被害を広めた。
到達が最も早かった青森県深浦町では、地震発生約7分後に引き波として到達、8分後第1波として到達している。最大潮位は65cmであった。最も波高が高かった場所は青森県車力村(現在のつがる市)で、14.9mを記録した。秋田県峰浜村(現在の八峰町)では波高14mを記録した。男鹿半島でも6mの津波を記録している。しかし、冬の季節風による強烈な波浪を防ぐために作られた日本海側特有の頑丈な港湾施設が波を弱めたとも言われている。
津波による死者の内訳は41人が護岸工事中の作業員、釣り人が18人、遠足中の小学生13人などであった。地震発生が晴天の昼間、当日の波が穏やかだった等の事情により、沿岸には作業船、漁船、レジャー船などが多数出船していた。そのため、直ちに救助作業や遺体の収容作業が行われ、遺体が収容できなかった行方不明者は無かった[14]。
津波は概ね10分位の周期であった。
秋田県の被害
- 当時、東北電力能代火力発電所建設のため埋め立て工事中であった能代港では、埋め立ての外枠となるケーソン上で作業中の作業員や、潜水士などが津波に飲み込まれ、35人が死亡する最大の被害が出た。能代港には殉難者慰霊碑が設立されている。
- 男鹿市の加茂青砂では、遠足で訪れていた北秋田郡合川町(現在の北秋田市)立合川南小学校の児童43人と引率教諭たちが津波に襲われた。多くは漁船や付近の女性などに救出されたが、児童13人が死亡した。遺留品の散乱する現場の空撮映像が全国ニュースで配信されたこともあって、県民や国内はもとより日本国外にも大きな衝撃を与えた。合川南小学校にはローマ法王ヨハネ・パウロ2世をはじめ、全世界からメッセージが寄せられた。また同校では外国人音楽家による無料演奏会も催された。男鹿市立加茂青砂小学校(2001年(平成13年)4月に北陽小学校へ統合され廃校)には、合川南小学校の慰霊碑が建立されている。
- 男鹿市の男鹿水族館で、観光客のスイス人女性が津波にさらわれて死亡した。その後、記憶に留め、慰霊するために、水族館駐車場脇に像が建てられた。このほか男鹿では日本海中部地震津波慰霊の碑に波の高さが刻まれている。
- 漁船が転覆するなどして、能代市・山本郡峰浜村・八森町(現在の八峰町)で漁業関係者10人が死亡した。また、峰浜村で波が砂丘を乗り越えて押し寄せ海岸線から800メートル奥まで流されるなど、農作業中の3人が死亡したほか、八森町では2人が死亡した。
- そのほか磯釣りをしていた10人など県内全体で79人が死亡した。
- 能代港・秋田港・八森港・男鹿漁港など港湾施設で大きな被害が出たほか、漁船や沿岸部の建築物も大きな被害を受けた。
青森県の被害
- 県内外から来ていた釣り客9人が津波に襲われ死亡した。ほか、漁港の修築工事中に逃げ遅れた者、作業中の漁業関係者など合計17人が死亡した。
- 震源地に近い日本海側沿岸の町村で853隻の漁船が損壊するなどの水産関係で大きな被害を受けた。
その他の県
- 能登半島の石川県輪島市では、当日午前中、漁港近くで別の取材をしていたNHK金沢放送局の記者が津波襲来時の撮影に成功。市内中心部を流れる輪島川河口を、高さこそ1m強ながら凄まじいエネルギーで逆巻いて遡上する激しい波の姿や、河口に隣接する輪島漁港内から逃げ遅れて波にまかれ転覆する小型刺し網漁船と辛くも脱出する船長の姿など、津波の現実を生々しく捉えた映像が全国へ送り出され、その映像記録は後々まで研究者の貴重な資料として活用されている。
- 輪島漁港の様子が放映される一方で、その沖合50km北に位置する舳倉島の被害は、ほとんど伝えられることはなかった(地元の教師が撮影した津波の映像は上記のNHKの番組で放送されている)。津波警報からわずか5分後に津波が襲来、海抜わずか11mとあって家屋等の被害も甚大であった。満足な通信設備のなかったことや、島民に死者がでなかったことなどが背景にある。小規模だった堤防は役に立たず、小さな漁港は漁網や流入物で接岸できなくなり、満足な重機もなかった上に支援に入ることもままならなかった島では、人力中心の復旧となり、完全復旧するには夏までかかった。
- 津波は遠く山陰や九州北部にまでも到達し、島根県の江の川などでも中流で川を遡る50cm以上の波が、はっきりと空撮で報道された。
- 震源域から直接到達した波のほかに、対岸の朝鮮半島や沿海州で反射した波も、2 - 5時間後に積丹半島・山陰沿岸・能登半島などに顕著な震幅の波として到達している[15]。
日本国外
- 対岸の韓国にも津波が来襲し、死者1人、行方不明者2人と報道された。韓国で被害が発生したのは、日本海中央部にある大和堆によって津波が増幅されたのではないかとも言われている。韓国中央気象台の観測によれば、2 - 5mの浸水高を観測し、約4億ウォンの被害を計上した[16]。
- ロシア(この地震発生当時はソ連)でも沿海州で津波が観測されている。ウラジオストクでは、日本海中部地震の情報から住民を高台に避難させたという。ウラジオストクでは津波の高さはそれほどでもなく、人的被害はなかった。
津波警報
この地震によって生じた津波では、津波警報の発表が遅れ実際に津波が来襲してから津波警報が発表されている場所が多かった[17]。これは、震源と海岸線が近いこともあるが、気象庁の「ゴクオオツナミ」(5区大津波)という津波警報を「極大津波」と勘違いした地区の担当者がいたこともあった。5区とは日本海側北部と陸奥湾のことであったが、勘違いのため津波が少ないとされていたこの地区の担当者の通報が遅れた。ただ、仮に勘違いがなかったとしても津波警報は間に合わなかったとされた。
津波警報の遅れは問題視され、その後各種の改善策が採られた。一例として、無線による各地への津波警報を伝え、海岸線の人々にそれを伝えるシステムが構築されたことが挙げられる。このシステムは北海道南西沖地震でも役立ったが、奥尻島では地震発生後わずか3分で津波が到達し、システムの限界も露呈した。
日本海中部地震の経験から作り上げたシステムは、スマトラ島沖地震で甚大な被害を受けた地区にも紹介された。
報道
テンプレート:節stub それまでも、大きな事件や政変等に際して報道特別番組が組まれる事はあった。しかし、地震による長時間の報道特別番組が本格的に組まれたのは、各放送局の記録上ではこの時からである。また、地方の放送局や一般家庭にもビデオカメラが普及し始めた時期であり、地震の瞬間や津波の鮮明な映像が初めて多く残されたことも1つの特徴である。
テレビ
- NHKではちょうど正午のNHKニュースを放送中だったが、地震発生の一報を受け緊急放送に切り替えて進行。途中で津波警報を発令したが前述のように間に合わなかった。このあともNHK秋田放送局やNHK青森放送局とつなぎ18時のNHKニュースまで通常のプログラムを白紙化、休止して地震報道を行った。また、当時高視聴率の連続テレビ小説「おしん」も休止されている。[18]また、秋田局のカメラマンが取材中に秋田市内で地震に遭遇・ガソリンスタンドなどが激しく揺れる瞬間を記録しており、現在に至るまで地震を取り上げる番組で使用されている。
- 日本テレビ(NNN)ではお昼のワイドショーを放送中に一報が入り、番組内容を変更して対応した。また青森市農業会館で開かれていた青森県農業政策会議の最中に地震が発生し、椅子が動くなか大勢の参加者が立ち上がれなくなった生々しい映像を、青森放送の新米カメラマンだった葛西真也が偶然撮影し、NNNの記録[19]として残った他、アメリカNBCなど世界にもこの映像が配信された。
- フジテレビ(FNN)では笑っていいとも![20]の放送中の一報だが、テレフォンショッキング(ゲスト・小室等)を流したことまでは確認されている。当時(今も)青森県にはFNNの系列局がないためフジテレビ青森支局が取材を行ったほか、秋田テレビや仙台放送、北海道文化放送など周辺の局が取材団を組んで対応。秋田テレビでは、公園の噴水の水が激しい揺れで四方八方に飛び散る映像や、秋田市営八橋球場で高校総体予選の野球大会中に地震が発生して選手や観客がパニックになった映像を撮影し、繰り返し報道した。また、この年の4月にFNN入りしたばかりの福島テレビでは、この地震の報道特番がFNN入り後初めて放送されたFNN報道特別番組であったほか、FNNの取材団として取材活動にも尽力した。
- TBS(東京放送)(JNN)ではスーパーダイスQの放送中の一報からJNN報道特別番組(ネット冠つきかは不明)を放送。当時(今も)秋田県にはJNNの系列局がないため、被害状況は岩手放送や青森テレビ、東北放送など周辺の局が取材団を組んで対応した。なおザ・ベストテンは通常通り放送された。
- テレビ朝日(ANN)ではまだ秋田・青森にマストバイ局がなく(1990年代に開局)、クロスネットの秋田テレビや青森放送の映像を利用した。先に述べた会議場での様子(青森放送撮影)や噴水の様子(秋田テレビ撮影)がANNの記録として残り、現在秋田朝日放送や青森朝日放送で利用されている。なお、この2局はクロスネットの枠の都合上ANN報道特別番組は放送されなかったほか、時差放送で第一報時にアフタヌーンショーを放送していた局も本来のメイン系列の報道特番優先で放送がなされず返上されたところもあった。
- 当時普及しつつあった家庭用ビデオカメラなどを使って、地元住民や旅行者等が津波の克明な映像・写真を多数撮影した。男鹿市鹿山(ろくざん)小学校(現 北陽小学校)では全校児童が校庭に避難する中、津波が延々と押し寄せ、恐怖のあまり児童が叫ぶ様子が家庭用ビデオで撮影され、繰り返し放映された。秋田県立男鹿水族館で、津波によって駐車場から自動車がさらわれてしまう映像が撮られた。青森県十三湖では人々や車が次々に津波に飲み込まれるショッキングな連続写真が撮られ、これも多数報道された。
ラジオ
- 地震発生後、秋田放送では午後11時まで緊急特別番組を放送した。地震後の秋田市内の道路事情の悪さ(亀裂など)からラジオカーの出動が困難になったため、アマチュア無線家からも情報を募った。しばらくして男鹿市にある秋田県立船川水産高校のアマチュア無線クラブから津波の情報が寄せられた。
- 青森放送でも午後4時30分まで緊急特別番組を放送した。
- 北海道放送でも特別番組を放送した(放送時間不明)。これは当時同局のアナウンサーだった鎌田強が妻の出産で秋田に帰省していたときに偶然にもこの地震に遭遇したためである。鎌田は札幌に戻る際、局から「取材に功あったため、帰路は出張扱いにする」と連絡を受けたという。なお、札幌市は震源地から距離があったこともあり、STVラジオ(当時:札幌テレビ放送)では定時ニュースで触れたのみだった。
地震史
有史以来東北北部日本海側に被害を及ぼした地震は多いが、そのほとんどが内陸部に震源を持ち、人的被害は住宅が壊れたことなどによるものが多かった。1964年(昭和39年)5月7日には日本海中部地震とほぼ同じ場所でM6.9の男鹿半島沖地震が発生しているが、このときは堤防決壊が3カ所、山崩れが5カ所、全壊住宅1戸、半壊住宅5戸の被害で津波は1m未満しかなく、津波による被害はなかったため、逆に海岸に避難した方が安全であった。また、研究不足から日本海東縁海底を震源とする巨大地震とそれに続く津波に対する危険性の認識を低くさせていた。明治以降たびたび津波に襲われた三陸海岸の住民と違って、地震を津波に直接結びつける意識が行政および住民になく、津波警報がテレビで放映されても住民はそれに疑念を持った。そのことも前述のような津波被害につながる原因となった。反面、地震発生時が正午頃にもかかわらず、火災発生が全くなかったのは、地震と火災を結びつけて考えていた住民の意識と行政の啓蒙の成果とされている。
東日流外三郡誌では、十三湊の安東氏の勢力が失われるのは、巨大地震とそれに続く津波が原因であるとするが、現在東日流外三郡誌は偽書とされ、また十三湊には巨大津波の痕跡はないことが、発掘により明らかになっている[21]。
この地域では、1000年以上のサイクルで地震が発生すると想定され[22]、その対策の効果を疑問視する人もいた。だが、わずか10年後巨大地震である北海道南西沖地震が発生して、対策の効果はある程度確認されている。
その後の研究により、日本海東縁地域は実は活発な地震地帯であり18世紀以降、100年に4 - 5回程度津波を伴う地震が続いていることが明らかとなり、太平洋側の相模湾・駿河湾や東海地域なみの観測態勢が望まれている[23][24]。
備考
- この地震をきっかけに、5月26日は秋田県の「県民防災の日」となり、県内各地で大地震を想定した防災訓練が毎年行われている。
- 2003年(平成15年)の三陸南地震は、秋田県内のテレビ局で日本海中部地震から20周年を特集したニュースを放送している最中に揺れを観測した。
脚注
参考文献
- 『秋田県地震対策基礎調査報告書』1982年 東京大学地震研究所 宇佐美龍夫 他著 東京大学地震研究所蔵
- テンプレート:Cite web
関連項目
- 激濤 Magnitude 7.7 - 矢口高雄による当地震を題材にした漫画。
- 日本海東縁変動帯
- 北海道南西沖地震 - 1993年(平成5年)7月に発生した北海道の地震。津波で多くの人命が失われた。
- 東北地方太平洋沖地震 - 2011年(平成23年)3月に東北の三陸沖で発生した日本の観測史上最大の地震。
外部リンク
- 青森県防災ページ 「地震総覧 日本海中部地震」
- 秋田県の被害状況
- 昭和58年(1983年)日本海中部地震 秋田地方気象台
- テンプレート:PDFlink(独) 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 弘前大学構内で観測された日本海中部地震の加速度記録 弘前大学理学部(地震予知連絡会会報 第31巻)
- ↑ テンプレート:PDFlink 地震予知連絡会
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:PDFlink 地震予知連絡会 会報第90巻
- ↑ 1983年日本海中部地震による久六島の沈下 地震 第2輯 Vol.38 (1985) No.1 P81-91, テンプレート:JOI
- ↑ 余震分布・地殻変動・津波データによる1983年日本海中部地震の静的断層モデル 測地学会誌 Vol.32 (1986) No.4 P290-302
- ↑ 広帯域地震観測記録による1983年日本海中部地震の特性 地震 第2輯 Vol.39 (1986) No.2 P301-311
- ↑ 1964年男鹿半島沖地震 (M6.9): 1983年日本海中部地震に19年先行したすべり? 地震 第2輯 Vol.53 (2000-2001) No.3 P263-268
- ↑ テンプレート:PDFlink 地震予知連絡会 会報第31巻
- ↑ テンプレート:PDFlink 東京地学協会
- ↑ テンプレート:PDFlink 株式会社インターリスク総研 災害リスク情報・第33号
- ↑ 工藤一嘉,坂上実:1983年日本海中部地震による石油タンク被害と地震動の特徴について:新潟における石油溢流の問題点 東京大学地震研究所彙報. 第59冊第2号, 1984.10.20, pp. 361-382
- ↑ 谷 茂、長谷川 高士:日本海中部地震を中心とした溜池の地震被害農業土木学会誌 Vol. 55 (1987) No. 10 P 939-947,a1
- ↑ テンプレート:PDFlink 歴史地震研究会 歴史地震・第18号
- ↑ 日本海津波における大陸からの反射波東京大学地震研究所彙報. 第61冊第2号, 1986.12.10, pp. 329-338
- ↑ テンプレート:NAID 韓国東海岸を襲った日本海中部地震津波 (Report of the 1983 Nihonkai-Chubu Earthquake Tsunami along the East Coast of the Republic of Korea)] 防災科学技術研究資料 90, 1-96, 1985-01-14,(独)防災科学技術研究所
- ↑ 日本海中部地震による津波失敗百選
- ↑ 現在は人気ジャーナリストになった池上彰は当時、東京の社会部に所属し、地震発生直後に飛行機で秋田へと向かい現地リポートを担当した。
- ↑ 葛西ら取材クルーが遅刻したことによるもの。他局は撮影を終えて帰っていた。
- ↑ 秋田テレビでは最初の4分間、十字屋テレビショッピングを放送。
- ↑ 十三湊遺跡
- ↑ 日本海東縁部の地震活動の長期評価について地震調査研究推進本部
- ↑ テンプレート:PDFlink (独) 防災科学技術研究所
- ↑ 日本海沿岸における歴史津波の挙動とその波源域 東京大学地震研究所彙報. 第52冊第1号, 1977.11.30, pp. 49-7,テンプレート:ISSN