保科正之
テンプレート:基礎情報 武士 保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。
目次
生涯
生い立ち
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・テンプレート:ルビの娘(『以貴小伝』『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である静(志津、後の浄光院)。秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。「会津松平家譜」では江戸神田白銀の竹村次俊宅にて出生したとある。
近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている[1]。また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であり、幸松の出産は武田信玄の次女である見性院(穴山信君の未亡人)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中土井利勝や井上正就他、数名のみしか知らぬことであったという。また、「会津松平家譜」では武田氏に預けられたのは慶長18年(1613年頃)としている。また、正之が生まれた場所は静の姉婿に当たる神田白銀町の竹村助兵衛方であったともいわれる[2]。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。ただしこの時、正之は正光の養子にすでに左源太という男子がいることをお供の女性が茶飲み話していたのを聞いて、母にむかって「肥州(正光)には左源太という子がいるからいかぬ」と駄々をこねて母を困らせ、母の説得でようやく高遠入りしたという[2][注釈 1]。正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母とともに生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという[2]。正光は自らの後継者として正之を指名し、養子の左源太にも生活に不自由しないよう加増や金子を与えること、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している[3]。
なお、長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされて知ったとされ、後で成就院は家光より寺領を寄進された[4][注釈 2]。後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している[注釈 3]。
また次兄徳川忠長と対面しており、忠長からは大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている[注釈 4]。
寛永8年(1631年)、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり[5][6]、正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。以後、会津中将と通称される。
会津藩主
秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石を拝領した。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる[7]。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去した。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666年)には神仏習合を排斥して領内の寺社を整理しており、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。
生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。
経歴
※日付=旧暦
- 1613年(慶長 18年)3月2日、見性院のもとで養育開始。
- 1617年(元和3年)11月14日、信濃国高遠藩主保科正光のもとに移り、養育開始。
- 1629年(寛永 6年)9月、兄駿河府中城主徳川忠長と初対面。
- 1631年(寛永8年)11月12日、高遠藩主として襲封。11月27日、諱を正之と名乗る。11月28日、従五位下肥後守に叙任。
- 1632年(寛永9年)12月28日、従四位下に昇叙し、肥後守は兼任留任。
- 1634年(寛永11年)7月16日、兄将軍徳川家光に供奉して上洛し、侍従に任官。肥後守は兼任留任。
- 1636年(寛永13年)7月21日、出羽国山形20万石として移封。
- 1643年(寛永20年)7月4日、陸奥国会津若松23万石として移封。その他、会津南山5.5万石の幕領を預かる。
- 1645年(正保 2年)4月21日、左近衛権少将に転任。肥後守は兼任留任。7月14日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将及び肥後守は留任。
- 1651年(慶安 4年)4月20日、家光最期に際し、後継将軍家綱の補佐を厳命される。
- 1653年(承応 2年)10月13日、従三位左近衛権中将に昇叙転任。但し、従三位昇叙は固辞。以後、会津中将の称を生じる。12月13日、正四位下に昇叙し、左近衛権中将及び肥後守は留任。
- 1668年(寛文 8年)4月11日、会津家訓十五箇条を制定。
- 1672年(寛文12年)12月18日、卒去。
- 1864年(元治元年)3月4日、下記のような宣命により、従三位の贈位(子孫松平容保が参議任官を固辞し、代わりに先祖正之に従三位贈位を朝廷に願い許される)
故保科正之贈従三位宣命 (土津霊神社文書)
天皇我詔良萬止、故正四位下行左近衞權中將源朝臣正之爾詔倍止聞食止宣布、往昔将家乃輔翼止成利氐、不懈須不愆須、國家乃善政乎遂計行比、其身者遠久罷利去利奴禮止、其名者今爾彌高志、如此餘勲乎續岐繼計爾因氐、苗裔乃世爾及比、守護乃職掌乎毛至忠爾至誠爾奉仕禮留状乃雄雄志岐乎慈給比、今既爾容保爾參議乃冠乎授給牟止所念行爾、曩祖賀遺志爾基計留乎以氐、譲利申岐、古典爾毛云留本根不揺登岐者、枝葉茂栄登者汝乃事爾有倍岐奈利、故是以昔日志毛榮級乎上給比志爾、固久不受志乎歎給比惜給比氐、今更爾從三位乃位爾贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣
元治元年三月四日
(訓読文) テンプレート:ルビがテンプレート:ルビらまと、故正四位下行左近衛権中将源朝臣正之にテンプレート:ルビりたまへとテンプレート:ルビをテンプレート:ルビさへとテンプレート:ルビりたまふ、テンプレート:ルビ将家(徳川将軍家)の輔翼と成りてテンプレート:ルビらず、テンプレート:ルビはずテンプレート:ルビのテンプレート:ルビを遂げ行ひ、其の身は遠くテンプレート:ルビり去りぬれど、其の名は今にテンプレート:ルビし、テンプレート:ルビ如く余すテンプレート:ルビをテンプレート:ルビぎテンプレート:ルビげるにテンプレート:ルビりて、テンプレート:ルビの世に及び、守護のテンプレート:ルビをもテンプレート:ルビにテンプレート:ルビに仕へテンプレート:ルビれるテンプレート:ルビのテンプレート:ルビしきを慈しみ給ひて、今既に容保に参議のテンプレート:ルビを授け給はむとテンプレート:ルビに、テンプレート:ルビがテンプレート:ルビしにテンプレート:ルビけるをテンプレート:ルビて譲りテンプレート:ルビしき、古きテンプレート:ルビにもテンプレート:ルビはれるテンプレート:ルビ揺るがざるときは、テンプレート:ルビも栄ゆとは、テンプレート:ルビの事に有るべきなり、テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビて、昔日しも栄級をテンプレート:ルビげ給ひしに、固く受けざりしを歎き給ひ惜しみ給ひて、今更に従三位の位を贈り給ふ、テンプレート:ルビがテンプレート:ルビをテンプレート:ルビにテンプレート:ルビさへとテンプレート:ルビる、元治元年(1864年)3月4日
※参考文献 「東京大学史料編纂所データベース」、「会津藩家世実紀」吉川弘文館、「内閣文庫藏 諸侯年表」東京堂出版
政策
幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。
この時代の幕閣(正之の他、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)全般に言えることではあるが、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに多くの支出を差し向けたが、貨幣の改鋳などの経済政策の欠落もあり、幕府は急速に財政難へと陥っていった。正之の死後、第5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。
藩政
藩政にも力を注いだ。会津に入った寛永20年の12月、留物令によって、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを手形の有無で制限し、一方では許可なくしては伐採できない樹木として漆木を第一にあげる[8]など、産業の育成と振興に勤めた。正保4年(1647年)、諸宿駅を定める。明暦元年(1655年)に飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制が創設された。万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じた。寛文元年には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行った。藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じた。また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げた。また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の始まりとされる。 稽古堂も設け藩士の子弟教育に尽力、後の日新館となった。
同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。
正之と朱子学・神道
正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。正之は卜部神道第55代の伝統者である。[9]
また、熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが藩政への積極的な参画を避けた。加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に配流された。
家族
- 実父:徳川秀忠
- 実母:於静(「志津」とも。神尾栄嘉の娘。浄光院)
- 養父:保科正光
- 正室:内藤政長の娘・菊姫(1619年 - 1637年)
- 長男:幸松(1634年 - 1638年) - 夭折
- 継室:藤木弘之の娘・於万(1620年 - 1691年) - かつては正之の異母姉・東福門院に仕えていた
- 側室:牛田氏(1623年 - 1651年)
- 三女:菊姫(1645年 - 1647年) - 夭折
- 四女:摩須(1648年 - 1666年) - 前田綱紀正室
- 沢井氏
- 八女:金姫(1658年 - 1659年) - 夭折
- 側室:沖氏(1645年 - 1720年)
- 六男:松平正容(1669年 - 1731年)
- 九女:算姫(1673年) - 正之の死後に誕生、夭折
長女・媛姫は上杉家に嫁した後、実母・於万の方による四女・摩須毒殺未遂事件で誤って毒を飲んで急死した。於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺を謀ったらしい。事件後、媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られた。正之は於万の方を遠ざけ、後の上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助している。
この事件のために、会津家家訓の第4条には、婦女子についても記載されている。摩須は無事に前田家に嫁した(しかし綱紀の子を産むことはなかった)。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 福田千鶴『江の生涯』中公新書、2010年。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』 P19
- ↑ 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』 P18
- ↑ 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』 P22
- ↑ 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』 P20
- ↑ 正光は先に実弟の正貞を養子にしていたが、正貞を廃嫡・義絶して正之を嫡子とした。
- ↑ この際、正之の嘆願で正貞も大名(上総飯野藩)に取り立てられて保科氏を存続させた。
- ↑ 『会津事始』「七木八草四壁竹本御定法事」
- ↑ 『図説 福島県史』
伝記文献
- 相田泰三 『保科正之公傳』 保科正之公三百年祭奉賛会、1972年
- 宮崎十三八編 『保科正之のすべて』 新人物往来社、1992年 ISBN 978-4-404-01974-5
- 中村彰彦 『保科正之 ─徳川将軍家を支えた会津藩主』 中公新書 1995年 ISBN 978-4-121-01227-2、中公文庫、2006年 ISBN 978-4-122-04685-6
- 中村彰彦 『保科正之言行録』 中公新書、1997年 ISBN 978-4-121-01344-6、中公文庫、2008年 ISBN 978-4-122-05028-0
- 中村彰彦 『慈悲の名君 保科正之』 角川学芸出版[角川選書]、2010年 ISBN 978-4-047-03458-7
- 中村彰彦 『保科正之 民を救った天下の副将軍』 洋泉社歴史新書、2012年 ISBN 978-4-8003-0034-8
参考文献
関連項目
テンプレート:会津松平家
テンプレート:高遠藩主
テンプレート:山形藩主
テンプレート:会津藩主
テンプレート:江戸幕府大老