松川事件

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テンプレート:Infobox 事件・事故 松川事件(まつかわじけん)とは、1949年昭和24年)に福島県日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。

下山事件三鷹事件と並び、第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の一つといわれており、容疑者逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、未解決事件となった。

概要

三鷹事件から約1か月後の1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分頃[1] 、福島県信夫郡金谷川村[2][3](現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆した。現場は、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルトナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。更にレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、殆ど真直ぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。

捜査の経過

下山事件、三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官増田甲子七が、三鷹事件等と「思想底流において同じものである」との談話を発表、世論もそのような見方に傾き、捜査当局は当初からそれらの事件との関連を念頭に置いていたことが伺える。

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、東芝松川工場(現北芝電機労働組合国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行との見込みを付けて捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名及び東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕、起訴された。

裁判の経過

1950年(昭和25年)12月6日福島地裁による一審判決では、被告20人全員が有罪(うち死刑5人)、1953年(昭和28年)12月22日仙台高裁による二審判決では17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となったが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、作家の広津和郎中央公論で無罪論を展開。

また宇野浩二吉川英治川端康成志賀直哉武者小路実篤松本清張佐多稲子壷井栄作家知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

1959年(昭和34年)8月10日最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。検察側の隠していた「諏訪メモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。被告達のアリバイを証明していた。使用者側の記録者の名から)の存在と、検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」(松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが判明した。

1961年(昭和36年)8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告全員に無罪判決

1963年(昭和38年)9月12日、最高裁は検察側による再上告棄却、被告全員の無罪が確定した。
判決当日、NHKは最高裁前からテレビ中継を行い、報道特別番組『松川事件最高裁判決』として全国に放送した。無罪判決確定後に真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日午前零時、汽車転覆等及び同致死罪の公訴時効を迎えた[4]

被告たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、1970年8月に裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

20人の被告人に関する判決

松川事件
人物 一審判決 二審判決 最高審
国鉄29歳男性・謀議首謀 死刑 死刑 無罪
東芝47歳男性・謀議首謀 死刑 死刑 無罪
東芝28歳男性・実行者 死刑 死刑 無罪
国鉄23歳男性・実行者 死刑 死刑 無罪
国鉄26歳男性・謀議首謀 死刑 無期懲役 無罪
国鉄28歳男性・謀議首謀 無期懲役 無期懲役 無罪
国鉄31歳男性・謀議首謀 無期懲役 無罪  
国鉄25歳男性・実行者 無期懲役 懲役15年 無罪
東芝33歳男性・謀議 無期懲役 懲役15年 無罪
国鉄19歳男性・実行者 無期懲役 懲役13年 無罪
国鉄29歳男性・謀議首謀 懲役15年 無罪  
国鉄23歳男性・謀議 懲役12年 無罪  
東芝23歳男性・謀議 懲役10年 懲役10年 無罪
東芝20歳男性・実行者 懲役12年 懲役10年 無罪
国鉄19歳男性・謀議 懲役12年 懲役10年 無罪
東芝20歳男性・実行補助 懲役7年 懲役7年 無罪
東芝18歳男性・実行補助 懲役7年 懲役7年 無罪
東芝24歳男性・アリバイ工作 懲役10年 懲役7年 無罪
東芝19歳男性・実行補助 懲役7年 懲役7年 無罪
東芝25歳女性・アリバイ工作 懲役3年6ヶ月 懲役3年6ヶ月 無罪

謀略説

この事件は、「日本共産党支持層であった東芝社員らの労働運動を弾圧するためにGHQ警察が仕組んだ謀略である」とする説が事件直後からささやかれた。事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休、警察が余りにも早く現場に到着した点や、事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性の不審死などの不可解な部分があると言われており、これらを元に謀略説の可能性が指摘されている。

事件から20年経った1970年(昭和45年)7月、中島辰次郎が『アサヒ芸能』上で事件の真犯人であると告白、国会でも取り上げられたことがある。中島はキャノン機関のメンバーと共にレールを外した工作の経緯を詳細に語ったが、信憑性を疑う見方も多く真偽は不明である。

「真犯人」からの手紙

1958年11月、被告側弁護団の一員だった松本善明宛に、「私達は現犯人」(原文ママ)と記した手紙が届いた。「私達は福島列車転覆事件を実際にやった私達今(原文ママ)、被告として裁判に付されている方々本当に申し譯なく思います」などとあり、事件に関わったのは7人で、名古屋(3人)、前橋(2人)、岡山(2人)にいる、とし、更に、「事件には当時の共産係ニ名に関係して居ります」と記されていた。また、手紙が愛知県名古屋市熱田区から出されたことが封筒の裏面に記載されていた[5]

弁護団はジャーナリストなどとこの手紙を調査し、名古屋市熱田区の旅館で書かれた可能性があることを突き止めた。手紙の筆者は、年齢当時35歳以上、高等小学校卒、文章をほとんど書かない、肉体労働に従事、東日本出身(東北地方北海道)で、若い頃から外国で生活していた、という人物像が浮かんだ[6]

事件当時、松川駅の方から歩いてくる9人の背の高い男が目撃されており(『にっぽん泥棒物語』で映画化)、「真犯人」からの手紙の人数と一致し、手紙の信用性を「決定的に高めた」としている[7]。手紙を受け取った松本は「これは本物だ」と第一印象を述べている[8]

推理小説作家の推理

高木彬光は松本善明宛ての手紙を真犯人からのものと断定、事件は命がけで固い同志的結束が必要なこと、文章には軍人的固さがあることから、シベリアからの引揚者で「民主化グループ」に強い恨みがある者達と考えた。高木は文章中2か所ある「日本人として」という言葉に注目、犯人は帰国した日本が赤化目前に見え、事件に関与したが、無実の人間が死刑になることから「日本人として」の良心が手紙を書かせたと推理した[9][10]

慰霊と記念

松川記念塔

時効を迎えた1964年8月16日午後2時から事後現場から約150mほど離れた線路脇で合同慰霊祭が開催された。この慰霊祭には捜査関係者や遺族など約100名が集まった。またこの慰霊祭のあと午後3時から同じ場所で慰霊塔(松川記念塔)の建設着工式も開催された[11]

発生60周年記念全国集会

2009年10月17日・18日、松川事件発生60周年記念全国集会が福島大学で開催された。集会スローガンは「松川の教訓を活かし、次世代に伝えよう!」。主任弁護人だった大塚一男弁護士は「被告となった20人は事件がなければそれぞれの生活を過ごせたはず。当初からの弁護人としてはそれが残念でならない」、元被告の一人は「一、二審の死刑は自白偏重の結果だったと思う。どういう形で自白があったのか、事実を正確に発言していきたい」と述べた。延べ2000人が参加[12]

松川事件研究所

福島大学は2010年5月12日、松川事件研究所を開設した[13]。松川資料室[14]と連携して研究する。研究テーマは、松川事件の背景と実相、松川裁判、松川救援運動、出版報道の論調。戦後の経済復興政策と事件との関連、新旧刑事訴訟法・判決の分析、支援運動での文化人の役割なども研究予定。2012年度に事件がテーマの授業も行う[15]

映画

演劇

書籍

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  1. 当時はアメリカ軍イギリス軍を中心とした連合国軍による占領中サマータイムが導入されており、それを考慮しない場合、午前2時9分頃
  2. 事件名は、事故現場の最寄駅であった松川駅が由来とされている(松川事件五○年、p.27)。
  3. テンプレート:Cite book
  4. 旬報社デジタルライブラリー 松川運動史編纂委員会編「松川運動全史」603〜655 第6章I〜II 613頁
  5. 大野達三(1991)、pp.11-14
  6. 大野達三(1991)、pp.21-22
  7. 大野達三(1991年)、pp.23-27
  8. 松本善明『謀略 再び歴史の舞台に登場する松川事件』(新日本出版社、2012年)、p.87
  9. 大野達三(1991)、pp.27-28
  10. 「私達が自首しない為にこのような最高裁判になった結果について日本人として本当に私達七人は申し譯なくおもいますどうか、七人が自首する迄お詫びいたします」「日本人として正しく裁かれる日を待つ日、近く自首する私達七人に栄あれ」
  11. 朝日新聞・昭和39年8月17日記事
  12. 共同通信2009年10月17日、松川資料室「資料室便り」
  13. 松川事件研究所
  14. 松川資料室
  15. 福島民報2010年5月13日、福島大学プレス発表資料
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 旬報社デジタルライブラリー 松川運動史編纂委員会編「松川運動全史」「松川運動史年表」