大徳寺

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大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にあるで、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍寶山(りゅうほうざん、新字体:竜宝山)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園障壁画茶道具中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。

歴史

大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。

その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に同郷の赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。

後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。

しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。このため大徳寺は、足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎千利休小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。

享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。

江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭紫衣事件流罪の圧迫を受けたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。

伽藍

勅使門・三門・仏殿・法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。

  • 勅使門(重要文化財)
    慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。
  • 三門 (重要文化財)
    二層の山門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置したが、このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。
  • 仏殿 (重要文化財)
    寛文5年(1665年)、京の豪商・那波常有(なわ じょうゆう)の寄進で建てられた。
  • 法堂 (重要文化財)
    寛永13年(1636年)、小田原城稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作。
  • 方丈および玄関 (国宝)
    江戸時代初期の建築で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる日本様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造桟瓦葺(本来は檜皮葺)、玄関は桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。方丈は寛永12年(1635年)、玄関はその翌年に豪商・後藤益勝の寄進で建てられたもので、開祖・大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して新築されたものである。玄関は翌寛永13年に完成している。「方丈」は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画は狩野探幽の作。枯山水庭園は国の特別名勝および史跡に指定されている。
  • 唐門 (国宝)
    近世初頭の四脚門切妻造檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門本願寺豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる、本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があり、唐門は三門西側から大慈院に通じる通りに建っていた。聚楽第から大慈院に移築されたと伝わるが、明治19年(1886年)に明智門を南禅寺金地院に売却したことに伴い大徳寺方丈前に移築された。この門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。平成14年(2003年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることがほぼ確定した。

別院・塔頭

ファイル:Ryogen-in.JPG
龍源院 方丈前庭
ファイル:Zuihou-in.JPG
瑞峯院 方丈前庭
ファイル:Mitsunaridaitokuji.JPG
三玄院前の石田三成墓所石碑

大徳寺は別院2、塔頭22を有する。2014年現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院である。

文化財

ファイル:Guanyin, Monkeys, and Crane.jpg
観音猿鶴図 南宋時代 牧谿筆

大徳寺本坊所有の国宝・重要文化財は以下のとおり。

国宝

  • 唐門 - 1952年3月指定。
  • 方丈及び玄関 - 1956年6月指定。
  • 絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 1951年6月指定
    中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。
  • 絹本著色大燈国師像 - 1953年3月指定
    開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。
  • 虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 1952年3月指定
    中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。
  • 後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 1951年6月指定
    後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。

重要文化財

ファイル:Yoryu Kannon (Daitokuji).jpg
楊柳観音像 高麗時代
  • 建造物
    • 勅使門
    • 仏殿(附明月橋)
    • 法堂(附廊下)
    • 山門
    • 浴室
    • 経蔵
    • 廊下
    • 寝堂
    • 庫裏
    • 侍真寮
    • 鐘楼
  • 絵画
    • 絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり
    • 絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり
    • 絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり
    • 絹本著色大燈国師像
    • 絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛
    • 紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり
    • 紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆
    • 絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪周季常等筆 82幅
    • 絹本著色後醍醐天皇像
    • 絹本著色十王像
    • 絹本著色楊柳観音像 - 1900年重文指定
    • 絹本著色楊柳観音像 - 1907年重文指定
    • 絹本著色楊柳観音像 - 1908年重文指定
    • 紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
    • 紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏
    • 絹本墨画竜虎図 - 牧谿
    • 絹本墨画竜虎図 - 伝牧谿筆
    • 紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆
    • 紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽
    • 方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
      • 紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
      • 紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
      • 紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
      • 紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
      • 紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
      • 紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
      • 紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
      • 紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
      • 附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
      • 附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
  • 彫刻・工芸品
    • 木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
    • 鳳凰沈金経箱
  • 書跡典籍・古文書
    • 花園天皇大燈国師御問答書 2幅
    • 紺紙墨書法華経 - 近衞家熈筆
    • 大蔵経 2018冊うち版本6冊
    • 法華経 - 常子内親王
    • 徹翁義亨墨蹟 言外号
    • 虚堂智愚墨蹟 尺牘
    • 花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛
    • 宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
    • 宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
    • 大燈国師自筆法語(解夏小参語)
    • 景徳伝燈録 - 宗峰妙超(大燈国師)筆
    • 大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
    • 大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
    • 大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
    • 大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
    • 大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
    • 大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
    • 大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
    • 中納言奉書並高家庄絵図
    • 徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
    • 大徳寺文書 4267通

史跡・特別名勝

  • 方丈庭園

拝観

  • 大徳寺本坊は非公開(例年10月上旬の日曜日に襖絵等を公開する曝涼展が行われる)。
  • 塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
  • 龍光院は常時非公開。

アクセス

参考文献

  • 井上靖塚本善隆監修、有吉佐和子小堀南嶺著『古寺巡礼京都16 大徳寺』、淡交社、1977年
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛中』駸々堂、1984年
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』18号(大徳寺)、朝日新聞社、1997年
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目

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外部リンク