宗長

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宗長(そうちょう、1448年文安5年) - 1532年4月11日天文元年3月6日))は室町時代後期の連歌師である。号は柴屋軒。駿河国島田(現在の静岡県島田市)の出身。鍛冶職五条義助の子として生まれた。

生涯

寛正6年(1465年)に出家して後に今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると駿河を去り上洛した。宗祇に師事して連歌を学び水無瀬三吟百韻長享2年(1488年))、湯山三吟百韻延徳3年(1491年))などの席に列する。大徳寺一休宗純に参禅、大徳寺真珠庵の傍らに住み宗純没後は神奈備に近い山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。明応5年(1496年)、駿河に戻って今川氏親に仕える。文亀2年(1502年)、宗祇が箱根湯本で倒れたときその最期を看取った。宗祇没後は連歌界の指導者となる。また有力な武将や公家との交際も広く三条西実隆細川高国大内義興上杉房能とも交流を持ち今川氏の外交顧問であったとも言われている。永正元年(1504年)、斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び京との間を往還して大徳寺の山門造営にも関与した。永正6年(1509年)には白河の関を見ようと下野に立ち寄った際に下野宇都宮氏家臣の壬生綱重によって鹿沼の館に招かれた。そこで連歌会を開いたという。綱重と宗長は同年齢であり、親しみを込めて「六十あまりおなじふたつの行末は君が為にぞ身をもをしまむ」と歌を詠んだ。

急がば回れ」を唱えた人。

代表作として句集「那智篭(なちごもり)」、日記「宗長手記」、「宗長日記」があり、ほかに「東路の津登(あづまじのつと)」、「宇津山記」、「宗祇終焉記」がある。

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