今川義忠
今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家6代当主。義元の祖父にあたる。
生涯
嘉吉3年(1441年)、嘉吉の乱に際して父・範忠の名代として1,000騎を率いて尾張国まで出陣している[1]。
康正2年(1454年)、享徳の乱で室町幕府より今川氏へ鎌倉公方・足利成氏討伐が命じられ、父の名代として出陣して鎌倉を攻略し、8代将軍・足利義政より感状を受けた。この前後には元服して将軍・義政の偏諱(「義」の字)を受け義忠(「忠」は父・範忠の1字)と名乗っている。寛正2年(1461年)に父の危篤を受けて駿河守護職を継承。家督を継承した義忠は、将軍・義政よりその庶兄である堀越公方・足利政知への援助を申し受けている。また、寛正6年(1466年)には甲斐国の武田信昌と共に鎌倉から古河へ移った成氏の討伐を命じられている。
今川氏は本拠の駿河以外に遠江国の守護を保持していたが、応永26年(1419年)以降は遠江は斯波氏の分国となっていた。また、遠江にあった今川了俊系の分家の所領が今川範将が反乱を起こして討たれた後に、斯波氏の被官の国人に奪われており、今川氏と斯波氏との対立が深まっていた[2]。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、政知と相談の上で1,000騎を率いて上洛する。山名宗全は義忠を西軍を引き入れようとするが、将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。かねてから対立している遠江守護の斯波義廉が西軍であったために東軍に属したと考えられている[3]。
この上洛中に伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹の北川殿と結婚したと考えられている[4]。新九郎は長年素浪人とするのが通説で、北川殿は側室とされていた[5]。しかし、近年の研究で新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で備中伊勢氏の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっている[6]。上洛中に義忠は政所執事・伊勢貞親をしばしば訪ねており、盛時の父・盛定が今川家との申次衆を務めていた。その縁で北川殿が義忠に嫁いだと考えられ、正室とするのが妥当である[7]。北川殿との間には文明5年(1473年)に嫡子・龍王丸(後の氏親)が生まれている。
応仁2年(1468年)、細川勝元の要請で東海道の斯波義廉の分国を撹乱すべく駿河へ帰国。帰国した義忠は積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
文明5年(1473年)、東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣している。その為に将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って同じ東軍の尾張国守護・斯波義良(乱発生後、西軍方の斯波義廉に代わって遠江守護に任じられていた)及び三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼした。そのため、同じ東軍の義良、成之と敵対することになった。
文明7年(1475年)東軍は西軍の義廉の重臣・甲斐敏光を寝返らせ遠江守護代として、義忠と敵対。遠江の情勢は混沌とする[8]。義忠は遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。
文明8年(1476年)、遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が義忠に背き斯波氏に内通して見付城を修復して抵抗の構えを見せたために、500騎を率いて出陣して勝間田城と金寿城(横地氏の拠点)を囲んで、両人を討った。その帰途の夜、遠江小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。義忠は馬に乗って指揮をとるが、流れ矢に当たって討ち死した。塩見坂は金寿城から駿府に戻る経路とは反対方向にあり、金寿城で敗走した義忠は坂の南にあった今川氏方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性もある[9]。
『今川記』などでは、横地・勝間田の両名をあたかも幕府に背いた謀叛人であるかのように記しているが、内通したのが幕府が任じた守護の斯波義良であれば、むしろ両名は幕府・守護の指示に従っただけで、これを攻撃して討たれた義忠の方が幕府に反抗した謀叛人という事になってしまう。義忠の不慮の死により、僅か6歳の龍王丸(のちの氏親)が残されたが、龍王丸は幼少である上に義忠の行為によって室である北川殿や龍王丸も反逆者の家族として討たれる可能性が生じた。このため、今川氏では義忠の従弟の小鹿範満が家督継承を主張して内紛状態になり、範満の縁戚でかつ享徳の乱では幕府(東軍)と協力関係にあった扇谷上杉家(実際は家宰太田道灌)が介入することになるが、範満や道灌は龍王丸を討つことも考慮していたとみられている[10]。幕府は今川氏嫡流である龍王丸の討伐までは考えていなかったものの、義忠死去の経緯から幕府が龍王丸の保護に乗り出す必要が生じていた。そのため、今川氏の内紛を調停(実際は龍王丸の保護)するために、それを調停するために長年駿河・遠江の問題に関わってきた伊勢盛定の息子で北川殿の兄弟でもあった幕府申次衆の伊勢盛時が駿河へ下向している[11]。このことが盛時と今川氏との絆を強め、後の盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。
脚注
参考文献
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- 家永遵嗣「伊勢宗瑞(北条早雲)の出自について」(初出:『成蹊大学短期大学部紀要』29号(1998年)/所収:黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)
関連項目
- ↑ 『今川記』では範政とされているが、範政は永享5年(1433年)に没しており、名代は龍王丸(義忠)と思われる。小和田(1983),p.124.
- ↑ 小和田(1983),pp.129-130.
- ↑ 小和田(1983),pp.131-132.
- ↑ 小和田(1983),p.134.
- ↑ 小和田(1983),p.133.
- ↑ 家永(2005),pp.42-43.
- ↑ 家永(2005),p.43;小和田(1983),pp.133-134.
- ↑ 家永(2005),p.45.
- ↑ 家永(黒田2013),pp.235-236.
- ↑ 家永(黒田2013),pp.235-236.
- ↑ 家永(黒田2013),pp.236-238.