大友義長
大友 義長(おおとも よしなが)は、戦国時代の人物。豊後国の戦国大名大友氏第19代当主。第18代当主・大友親治の子で、初名は親匡(ちかただ/ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)。
青年期
先代の大友政親と大友義右(親豊)との父子対立による混乱を鎮めた父の親治により、1497年、当主として擁立された。当時の北九州においては周防の大内義興の力が大きく、義興は明応の政変により管領・細川政元に追放された足利義材(義稙)を擁立していたため、父である親治は当初は大内氏の支持を得るために義材に接近したが、義興は大友氏庶流の大聖院宗心(大友親綱の六男)の家督相続を主張し、親匡の家督相続の正当性を否定した。大友氏との敵対は望まない義材の仲裁により、義興とは一時的に和解したものの、親治・親匡父子は細川政元の擁立する京の将軍・足利義高(義澄)と通じるようになり、その援助により豊前へ進出し、宗心を周防へ追放した。1501年、将軍・足利義高(義澄)は親匡の家督を承認し、豊後・筑後・豊前の守護に任じた。親匡は義高の一字を拝領し義親と名乗った(後に義長と改名する)。このことにより義長が大友氏の正当な継承者として一段落する。
家督継承後
しばらくは義高(義澄)方の諸将の一人として少弐資元などと共に義材・大内氏と敵対したが、永正の錯乱により細川政元が暗殺されたため畿内が混乱し、それに乗じて大内義興が前将軍・足利義材(義稙)を擁して1508年に上洛すると、義澄を見限り大内氏との和睦を図るため、義興を資金的に援助し、義稙が将軍に復帰すると豊前守護の座を義興に譲っている。
肥後の菊池氏で家督争いが勃発すると、菊池武経を支持し1509年に菊池政隆を自刃に追い込むなど干渉し、武経の没落後には、子の重治を入嗣させるべく菊池氏家臣団への調略を続けた。また、筑後の星野氏など国人衆が大内氏に通じて謀反を起こすと、軍勢を率いて、長年の対陣の末、1513年にこれを鎮圧している。
治世の大半は隠居である父の親治との共同統治の状態が続いており、1515年、子の大友親安(義鑑)に家督を譲って隠居したものの、父同様に実権は握り続け、大聖院宗心の擁立を図った重臣朽網親満の反乱を鎮めた。1518年、父・親治に先立ち死去。父の親治と共に、大友氏の戦国大名化を成し遂げた名君であった。
大友氏の内部を安定させるため、『義長条々』という分国法を定めたとされるが、分国法としての整備は子の義鑑の時代においてなされたもので、義長の存命時の『義長条々』は家族への姿勢や思いやりなどにつき延々と述べるなど、家訓的な性格が強い。子である重治の菊池氏への入嗣問題など政治面での訓戒も見られ、警戒すべき一族として、筑後や肥後の国人領主である星野氏や阿蘇氏、相良氏だけでなく、大友一門の田原氏を挙げている(星野氏は義鑑の時代に、田原氏は義長の孫の大友宗麟の時代に謀反を起こすことになる)。
偏諱を与えられた人物
義親時代
義長時代
- 秋吉長将(あきよし ながまさ、?-1534)- 因幡守。
- 一萬田長泰(いちまだ ながやす) - 一萬田親実(鑑相)、高橋鑑種の伯父、一萬田鑑実の大伯父。
- 大津留長清(おおづる ながきよ)- 豊後大神氏の庶流、大津留氏の当主。祖父は繁綱、父は惟忠、子は鑑康か。
- 大野長基(おおの ながもと) - 豊後大神氏の庶流、大野氏の当主。
- 小野長幸(おの ながゆき)- 重兼の子。嫡男・鑑幸の子が小野鎮幸、もう一人の息子・幸広の子が小野成幸(なりゆき)で、この二人は立花道雪に仕えた。
- 臼杵長景
- 城井長房
- 斎藤長実(さいとう ながざね) - 子である斎藤鎮実の項を参照のこと。父は加賀守隆実(たかざね)とされる。同じく大友氏家臣として名前のある斎藤刑部少輔実治や斎藤安芸入道道柱などの齋藤姓の者も同族と思われる。
- 高橋長種
- 田北長政(たきた ながまさ) - 田北鑑生の伯父。
- 竹田津長重(たけたづ ながしげ)- 大友親隆の玄孫(大友氏から親隆の子・永世(ながよ)が日田氏を継ぎ、その子である永晴(ながはる)が竹田津氏を継いだとされる)。竹田津氏についてはこちらを参照。
- 中村長直(なかむら ながなお) - 他紋衆の一人として姓氏対立事件を起こして敗死。
- 古庄長方(ふるしょう ながかた)- 古庄氏の一族か。
- 山下長就(やました ながのり)
- 吉岡長増