稲葉正勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

稲葉 正勝(いなば まさかつ、慶長2年(1597年)- 寛永11年1月25日1634年2月22日))は、江戸時代初期の大名老中常陸柿岡藩主、下野真岡藩2代藩主、相模小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。幼名は千熊。通称は宇右衛門。

稲葉正成の次男、母は春日局斎藤利三の娘)。異母兄に正次、同母弟に正利、異母弟に正吉。正室は山田重利の娘。子に正則(次男)、娘(酒井忠能正室)。堀田正盛は甥。官位は従五位下丹後守。

生涯

母・春日局が3代将軍徳川家光乳母となったことから父に可愛がれ、乳兄弟として幼少時より家光に小姓として仕え、将来を期待された。

元和7年(1621年)、書院番頭に任じられる。元和9年(1623年)に年寄衆(老中)に任じられ、寛永元年(1624年)には常陸真壁郡に5000石を加増され、それまでの所領と合わせて柿岡藩1万石を領する大名に列する。この時、従五位下丹後守に叙任した。その後も父の遺領を相続するなど加増を重ね、下野真岡藩4万石を経て相模小田原藩8万5千石となる。寛永9年(1632年)には、肥後熊本藩加藤忠広改易に際して熊本城接収の副使を務めている。

しかし激務の疲労がたたったのか、寛永10年(1633年)の夏頃から吐血するなど体調を著しく悪化させ、翌寛永11年(1634年)に死去した。享年38。法名は紹大道号古穏。次男の正則が跡を継ぎ、幼少のため母方の伯父の斎藤利宗、次いで甥の堀田正盛が後見人となった。

なお、徳川忠長に仕えていた弟の正利が忠長に連座して配流にされることを死の床で知ると、最後の気力を振り絞って幕府に懇願して縁戚に当たる細川忠利[1]の熊本藩への流刑を求め、更に遺言で忠利にあてて50貫目を託して正利が赦免されるまでの保護を依頼している[2]

脚注

テンプレート:Reflist

稲葉正勝が登場する作品

テレビドラマ

漫画


テンプレート:柿岡藩主 テンプレート:真岡藩主

テンプレート:小田原藩主
  1. 正勝の外祖父斎藤利三は、忠利の外祖父明智光秀の親族でその重臣であった。
  2. 『大日本近世資料』細川家史料「細川忠興書状」寛永11年3月5日・21日付。