円覚寺
円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清[1]もここに参禅したことが知られる。
目次
歴史
鎌倉幕府8代執権・北条時宗は、弘安元年(1278年)から文永の役の戦没者の菩提を弔うためと、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い円覚寺創建を始めた。弘安5年に落慶したがその間、文永の役に続いて弘安の役も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)は弘安元年7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜していた。そして弘安2年(1279年)に来日した中国僧・無学祖元(仏光国師)を開山に招いた。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、円覚寺は北条氏の私寺という性格がより強かったといわれる。また、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあった。
山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。また寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘った所、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるというが(『本朝高僧伝』等による)、これは建長寺開山と因縁つけようとした意図のある伝説であると円覚寺はみている。
当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
円覚寺は弘安10年(1287年)以降たびたび火災に遭っている。中でも応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元禄16年(1703年)の震災などの被害は大きく、大正12年(1923年)の関東大震災でも仏殿などが倒壊する被害を受けている。
伽藍
創建当時は総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置であったが、現在、法堂は失われている。
- 馬道(めどう、うまみち)
- 北鎌倉駅前交番付近で鎌倉街道に並行している小道。本来の円覚寺境内は鎌倉街道が通る位置も含み、鎌倉側、大船側の境内外境にそれぞれ門が設置されていたため、馬道が境内を通らない迂回路として形成された。馬道と鎌倉街道との間に円覚寺境界の土塁がある。なお、鎌倉街道にあった門は、関東大震災で倒壊した後再建されず、近年まで門柱の一部のみ残存していたが、これも撤去されている。
- 白鷺池(びゃくろち)
- 円覚寺総門の手前、横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部である。明治時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR横須賀線)の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっている。「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むという。
- 総門
- 瑞鹿山の額が掲げられている。
- 三門(山門)
- 天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと言われる。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆とされる。楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置する。
- 仏殿
- 昭和39年(1964年)再建で、コンクリート造りだが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられている。堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像などを安置する。天井画の「白龍図」は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いたもの。
- 方丈は元来は寺の住持の住む建物を指すが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっている。前庭のビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝える。
- 舎利殿(国宝)
- 神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る、重要な塔頭である。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建てに見えるが一重裳階付きである。堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右には地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、細部は典型的な禅宗様になる。元から円覚寺にあったものではなく鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀(室町時代中期)の建築と推定されている。鎌倉時代建立の善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものとして、評価は高い。通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開される。なお神奈川県立歴史博物館に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができる[2]。
- 妙香池(みょうこうち)
- 夢窓疎石作と伝える庭園の遺構である。
- 弁天堂
- 三門向かって右の鳥居をくぐり、長い石段を登りきった先に位置する。江ノ島弁天と関係が深く、近くには洪鐘(梵鐘)がある。
塔頭
塔頭の本義は、祖師や高僧の墓塔を守るために、師の徳を慕う弟子らが建立した小寺院を意味するが、転じて大寺院の境内周辺に建てれた小寺院を指す。円覚寺には最盛期には42か院の塔頭があったが、現在は19か院を残す[3]。塔頭のうち常時公開されているのは仏日庵、黄梅院、桂昌庵(閻魔堂)のみ。松嶺院は春秋などに時期を限って公開。他の塔頭は原則非公開である。[4]
- 正続院 (しょうぞくいん)
- 円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。山号は万年山。本尊は文殊菩薩。無学祖元は弘安9年(1286年)、建長寺で没した。祖元の遺骨は建長寺に葬られ、墓塔ははじめ建長寺に建立され、正続庵と称した。その後建武2年(1335年)、円覚寺15世で祖元の法孫にあたる夢窓疎石は、後醍醐天皇の勅命を奉じて、正続庵を円覚寺に移して正続院とし、祖元の墓塔も円覚寺の裏山に強制的に移された。天明元年(1781年)には円覚寺中興と称される誠拙周樗によって正続院内に坐禅道場が開かれ、今日に至っている。境内奥には無学祖元の木像を安置する開山堂があり、その手前に建つ舎利殿(昭堂)は鎌倉時代の禅宗様建築の代表例として国宝に指定されている。舎利殿は鎌倉市西御門にあった尼寺・太平寺(廃寺)から移築したものである。
- 仏日庵 (ぶつにちあん)
- 8代執権北条時宗の廟所(開基塔)。9代執権貞時・14代執権高時も合葬されている。本尊は地蔵菩薩。北条氏滅亡後は衰退したが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭とした。本堂には地蔵菩薩坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置。開基廟には十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗・貞時・高時の木像を安置。境内の茶室烟足軒は、鶴隠周音の隠居所の名を継いだもので、川端康成の小説『千羽鶴』に登場する茶室のモデルとなった。
- 続燈庵 (ぞくとうあん)
- 第30世大喜法忻(だいきほうきん)の塔所。山号は万富山。本尊は観音菩薩。
- 蔵六庵 (ぞうろくあん)
- 宗務本所の南側の竹林の中に位置する。第2世大休正念の塔所。本尊は釈迦如来。大休正念が寿福寺に寿塔(生前に建てる墓)として開創したもので、大休の没後、門弟によって円覚寺境内に移された。
- 帰源院 (きげんいん)
- 第38世傑翁是英の塔所。本尊は仏慧禅師(傑翁是英)。夏目漱石や島崎藤村が参禅したことで知られ、漱石の小説『門』に登場する一窓庵は当院がモデルである。境内には漱石の句碑がある。
- 臥龍庵 (がりょうあん)
- 第17世大川道通(だいせんどうつう)の塔所。本尊は大川道通。
- 正伝庵 (しょうでんあん)
- 第24世明巌正因の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
- 寿徳庵 (じゅとくあん)
- 第66世月潭中円 (げったんちゅうえん)の塔所。山号は南山。本尊は聖観音。
- 済蔭庵 (さいいんあん)(居士林)
- 第58世曇芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔所。本尊は不動明王。現在は居士林、すなわち在家信者のための坐禅道場となっている。建物は牛込(東京都新宿区)にあった柳生流の剣道場を、昭和3年(1928年)柳生徹心居士より寄進され移築したものである。
- 龍隠庵 (りょういんあん)
- 居士林の裏手、長い石段を上った先にある。第102世大雅省音の塔所。本尊は聖観音。
- 松嶺院 (しょうれいいん)
- 第150世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、開高健(作家)、田中絹代(女優)、佐田啓二(俳優)など著名人の墓があることでも知られる。有島武郎はこの寺にしばしば逗留し、『或る女』などを書いた。寺内は通常は非公開だが例年春と秋に期日を限って公開される。
- 桂昌庵 (けいしょうあん)
- 閻魔十王像を祀ることから、閻魔堂または十王堂とも呼ばれる。第49世承先道欽の塔所。本尊は地蔵菩薩(矢柄地蔵)。永禄9年(1566年)、大道寺資親の寄進により創建された[5]
- 富陽庵 (ふようあん)
- 第61世東岳文昱(とうがくぶんいく)の塔所。本尊は文殊菩薩。開基は上杉朝宗。東岳文昱が1416年(応永23年)に没しているため、その頃の創建と推測される。寺宝に東岳文昱坐像と円覚寺4世桃渓徳悟(とうけいとくご)の坐像がある。古くは夢窓疎石の筆による額があったようだが、江戸時代の後期には失われている。[6]
- 伝宗庵 (でんしゅうあん)
- 桂昌庵脇の道を西方向に進んだ先にある。第11世南山士雲の塔所。本尊は地蔵菩薩。境内は広く、一部は北鎌倉幼稚園となっている。
- 白雲庵 (はくうんあん)
- 伝宗庵のさらに西に位置する。第10世東明慧日(とうみんえにち)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
- 雲頂庵 (うんちょうあん)
- 山号は大機山。山内のもっとも西に位置する。蘭渓道隆の法嗣である空山円印の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。
- 昌清院 (しょうせいいん)
- 鎌倉市山﨑にある境外塔頭。如意庵の末寺。山号は山崎山。開山は如意庵8世の以足徳満。本尊は釈迦如来。
文化財
史跡
史跡・名勝
国宝
- 舎利殿(既述)
- 梵鐘 - 仏殿東方の石段を上った小高い場所にある鐘楼に架かる。寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読ませている。北条貞時の寄進によるもので、正安3年(1301年)、鋳物師物部国光の制作。高さ2.6メートルを超える大作である。
重要文化財
- 絹本著色五百羅漢像 33幅
- 絹本著色被帽地蔵菩薩像
- 絹本著色仏光国師像 弘安七年九月の自賛あり
- 紙本淡彩鍾馗図 山田道安筆
- 紙本淡彩跋陀婆羅像 宗淵筆
- 絹本著色虚空蔵菩薩像
- 絹本著色仏涅槃図
- 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 文永八年銘
- 木造仏光国師坐像(開山堂安置)
- 髹漆須弥壇 1基・髹漆前机 1脚
- 円覚寺開山箪笥収納品 一括(細目は後述)
- 伝法衣
- 青磁袴腰香炉
- 仏日庵公物目録
- 円覚寺文書(三百八十六通)(2004年度に20通が追加指定されている)
- 円覚寺境内絵図
- 富田庄図
- 円覚寺禁制(永仁二年正月日)
- 円覚寺制符(乾元二年二月十二日)
- 円覚寺年中用米注進状(弘安六年九月廿七日)
- 無学祖元書状(七月十八日)
- 北条時宗書状(弘安元年十二月廿三日)
- 北条時宗書状 (七月十八日)
- 定額寺官符
- 寒山詩(五山版)
- 足利義満筆額字 普現、宿竜、桂昌
- 印章「無學」2顆
- (帰源院所有)
- 絹本著色之庵和尚像 元弘三年自賛
- (蔵六庵所有)
- 大休正念法語(弘安元年五月)
- (伝宗庵所有)
- 木造地蔵菩薩坐像
- (白雲庵所有)
- 木造東明禅師坐像
- (黄梅院所有)
- 絹本著色夢窓国師像 自賛あり
- 華厳塔勧縁疏
- 黄梅院文書(百一通)
- (続燈庵所有)
- 銅造仏応禅師骨壺
上記の文化財のうち、国宝の梵鐘は常時見学可能。梵鐘、木造仏光国師坐像、須弥壇、東明禅師坐像(白雲庵)以外の重要文化財の大部分は鎌倉国宝館に寄託されており、同館の展示で順次公開されるほか、例年11月3日前後に3日間行われる「宝物風入れ」という行事の際、寺内で公開される。なお、近くの建長寺でも同時期に同様の「宝物風入れ」が実施される。
焼失した文化財
- 法華経 足利尊氏筆(続燈庵旧蔵)
- 銅経筒 元亨3年銘(続燈庵旧蔵)
以上2件は旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されていたが、関東大震災時に続燈庵で火災が発生した際に焼失した。
開山箪笥収納品
円覚寺に伝来する、「開山箪笥」(かいさんたんす)と称される箪笥の引き出しに収納される染織品等の一括遺品で、寺では開山無学祖元所用の遺品と伝えて重視している。箪笥は平素は封印されており、年に一度、11月3日前後に行われる「宝物風入れ」の際にのみ、封が解かれ収納品が公開される。収納品には、中国及び日本の中世の染織品が含まれ、染織工芸史研究上、貴重な資料である。昭和54年(1979年)に重要文化財に指定された。指定品の明細は以下のとおりである。
< >内は特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝』(五島美術館、2006)による表記。時代表記も同図録による。
- 丹地霊芝形雲文金襴九条袈裟 明時代
- 黄地片輪車文綾九条袈裟 坐具付<褪紅色葦手文綾九条袈裟> 南宋時代・鎌倉時代
- 香色地平絹九条袈裟 南宋 - 元時代
- 紺地宝尽雲文銀襴九条袈裟 坐具付<紺地霊芝雲文銀襴九条袈裟> 明時代
- 黄地牡丹文紗掛絡(から)<黄地牡丹折枝文羅大絡子> 南宋時代
- 黄地菱繋文直綴(じきとつ)<黄地入子菱文綾直綴> 元時代
- 黄地平絹直綴<金茶地平絹直綴> 鎌倉時代
- 白地平絹禅衣(ぜんね) 鎌倉時代
- 萌黄地平絹頭陀袋<萌黄地紬頭陀袋> 南宋時代・室町時代
- 石畳縫合地果蝶雲文刺繍袱子<緞子縫合編繍大袱紗> 明時代
- 酔翁亭図堆黒盆 南宋時代
- 椿梅竹文堆朱盆 南宋 - 元時代
- 孔雀牡丹文堆朱香合 南宋時代
- 尾長鳥椿文堆黒香合 南宋時代
- 念珠 3連 鎌倉時代
- 払子 2握 鎌倉時代
- 団扇(だんせん) 江戸時代
- 竹箆(しっぺい) 時代不詳
- 環 4箇 南宋 - 明時代
- 組紐残欠 2条 鎌倉時代
- 附:欝金地桐竹鳳凰文縫箔槌巾(ついきん) 桃山時代
- 附:染付合子 明時代
- 附:黒角製香合 南宋 - 元時代
アクセス
参考文献
- 井上靖・佐和隆研監修、中里恒子・足立大進著『古寺巡礼東国4 円覚寺』、淡交社、1982
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』87号(称名寺ほか)、朝日新聞社、1998
- 特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝 七百二十年の歴史を語る禅の文化』、五島美術館、2006
- 貫達人『円覚寺』、円覚寺発行、1996
- 『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 神奈川県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:鎌倉五山- ↑ 読書遍歴三木清、青空文庫
- ↑ ただし、厨子や前机は本物とは異なり、菩薩像はない。
- ↑ 「17か院」とする資料もある。
- ↑ 本節の記述は、特別展図録『鎌倉円覚寺の名宝 七百二十年の歴史を語る禅の文化』(五島美術館、2006)、pp.132 - 144、および、貫達人『円覚寺』(円覚寺発行、1996)、pp.53 - 56、かまくら春秋社編、2001、『鎌倉の寺小事典』かまくら春秋社 ISBN 4774001732による。
- ↑ 『新編相模国風土記稿』巻之八十 鎌倉郡巻之十二 桂昌庵の項
- ↑ 新編相模国風土記稿巻八十 富陽庵の項に「普済国師筆による額があったが失われた」という記載あり。普済国師は夢窓疎石の諡号
- ↑ 『図説日本の史跡 6 中世』(同朋舎、1991)p.279