有島武郎
有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。
学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。ハバフォード大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。
経歴
東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩郷士(祖父も同じく郷士)で大蔵官僚・実業家の有島武の長男として生まれる。母は幸子。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校(現横浜英和学院)に通う。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。 アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会った事がなかった。
帰国後はふたたび予備見習士官や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。1916年に妻・安子(27歳没、肺結核の為)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表した。
しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922年、『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村の有島農場を開放。1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子[1]と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は'16年に妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。しかし秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる[2]。そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げた。7月7日に発見されるが、梅雨の時期に一ヶ月以上遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、『愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた』と残されていた。2009年7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡、各3通が札幌市にある『北海道立文学館』で一般公開された。
辞世の歌は 「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で / 修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん / 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」というものらしく、唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられている。(『自殺について』1950年)
また師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明した。
魯迅が紹介したことから中国での知名度が高く、教科書にも掲載され広く読まれている。
作品
小説
評論
- 惜みなく愛は奪ふ
- 宣言一つ
- 二つの道
童話
- 一房の葡萄
- 溺れかけた兄妹
歌詞
- 永遠の幸(札幌農学校校歌)
全集
親族
弟に、画家の有島生馬、作家の里見弴、日本油脂取締役の有島行郎。妹シマは東京慈恵会医科大学を設立した高木兼寛の長男喜寛と結婚。妹の愛は、三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ[1]。
妻安子は陸軍大将男爵神尾光臣の次女。二人の間に子として、行光(俳優の森雅之。森と愛人との間に日活ロマンポルノで活躍した女優の中島葵)、敏行(翻訳家。石井好子と婚約していたと言われるが[2]、若くして亡くなる)、行三(母方の神尾家を継ぎ、男爵。その次男はシンセサイザー奏者の神尾明朗)[1]。
甥(弟・行郎の息子)に創価学会初代音楽隊長で公明党代議士の有島重武。指揮者で作曲家の山本直純は、妹・愛の孫。
逸話
- 東京都千代田区六番町にある家には現在、落語家の3代目三遊亭圓歌が住んでいる。
- 1922年、大杉栄がベルリン国際無政府主義大会に参加するために密航を企図すると、密かに渡航費を大杉に渡し、のちに新聞記者に対し、「僕は大杉君とは立場が違うが、ああいう器局の大きい人物を、いたずらに日本のようなせせっこましい所に置いて、内輪喧嘩をさせておくのは惜しいような気がしたので、世界の大勢を見てきたほうがよかろうと考えたからである」と談話している。(大杉栄『日本脱出記』、大杉豊『日録・大杉栄伝』より)