上野恩賜公園
テンプレート:公園 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。
目次
概要
東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、恩賜上野動物園などの文化施設が集中して立地している。また彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像があることでも知られる[1]。
高台となっている忍ヶ岡は、近世からの桜の名所としても有名であり、日本さくら名所100選に選定されている。桜の開花時期になると大勢の花見客が押し寄せることで有名である。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池(しのばずのいけ)は、夏には池の一部を覆い尽くすほどの蓮に覆われ、一面の緑の葉と桃色の蓮の花が美しい。冬には鴨をはじめとした数多くの種類の水鳥が飛来し、とても賑やかになる。
歴史
江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている[2]。
2012年時点で、世界に文化と芸術を発信する「文化の森」を創出することを目的として、2010年度から2015年度までの計画で「上野恩賜公園再生整備事業」が行われている。
沿革
- 1868年7月4日 上野戦争により寛永寺伽藍の大部分を焼失
- 1873年5月 太政官達により東京府公園に指定[3]
- 1876年5月 公園建設完成、開園
- 1876年 園内に新聞縦覧所、自働体重計(自動販売機の日本最古の記録)が設置される
- 1877年 寛永寺本坊跡地にて第1回内国勧業博覧会を開催
- 1881年 第2回内国勧業博覧会を開催、閉会後に博物館が使用する前提で煉瓦造の建物を建設
- 1882年3月20日 国立博物館および付属動物園が開館
- 1890年 帝室御料地となり宮内省の管轄に置かれる
- 1924年 宮内省から東京市に払い下げられ、この経緯から「上野恩賜公園」という名称となった
- 1933年 京成本線日暮里駅 - 京成上野駅間に博物館動物園駅が開業
- 1973年 公園指定100周年を記念して、ボードウィン博士の銅像を建立。ただし、顔がボードウィン博士の弟のものに取り違えられていた
- 1997年 博物館動物園駅営業休止
- 2004年 博物館動物園駅廃止
- 2006年 ボードウィン博士の銅像の(正しい顔への)建て替えが行われる
- 2012年 「上野恩賜公園再生整備事業」における「竹の台・文化施設エリア」の再整備工事(噴水・オープンカフェ・園路の再整備と樹木伐採)が完了
施設
日本国内でも有数の都市公園で、公園の内外に歴史建築物や文教施設が多数存在しており、一帯が文化・芸術の集合地域を形成している。
東京都立恩賜上野動物園をはじめ、動物園の付近に旧東京音楽学校奏楽堂などの芸術博物館、東京芸術大学、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京都立上野高等学校などの教育施設が広がっている。
鶯谷駅方面には徳川家霊廟の歴史的建築などが存在する寛永寺や東京国立博物館、国際子ども図書館があり、噴水池周辺には東京都美術館、国立科学博物館があり、上野駅公園口近くには国立西洋美術館、東京文化会館がある。
さらに、京成上野駅そばには上野の森美術館や西郷隆盛像がありその西側に桜並木が続く。桜並木沿いに清水観音堂(寛永寺)、五条天神社・花園稲荷神社がある。脇道に逸れると上野東照宮、寛永寺五重塔(東京都所有)があり、伊豆栄梅川亭、上野精養軒など老舗料理屋がある。
西側に坂を降りると不忍池が広がり、橋を渡ったところに不忍池弁才天(寛永寺:谷中七福神)がある。池の周りには下町風俗資料館や水上音楽堂が点在している。
公園内施設等
美術館
博物館・資料館
大学・図書館
その他の文化施設
歴史的建築・旧跡
- 旧東京音楽学校奏楽堂テンプレート:Smaller
- 上野東照宮
- 寛永寺
- 清水観音堂テンプレート:Smaller
- 旧寛永寺五重塔テンプレート:Smaller
- 不忍弁天堂
- 徳川家霊廟
- 厳有院霊廟(徳川家綱)テンプレート:Smaller
- 常憲院霊廟(徳川綱吉)テンプレート:Smaller
- 森鴎外旧居跡
- 京成電鉄博物館動物園駅跡
- 藤堂高虎墓
- 上野大仏
- 摺鉢山古墳
- 彰義隊墓所
- 時の鐘
- 五条天神社
- 旧因州池田屋敷表門
彫像・記念碑
スポーツ施設等
- 正岡子規記念球場
- 不忍池ボート場
上野公園(町名)
江戸時代は寛永寺地であり町名はなかった。1872年(明治5年)不忍池弁天島に不忍天竜町が設定され、1873年(明治6年)それ以外が上野公園地となった。1875年(明治8年)不忍天竜町は上野公園地に編入された。1924年(大正13年)上野恩賜公園に改称した。
上野恩賜公園一帯には1967年(昭和42年)1月1日、住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施され、従来の上野恩賜公園に上野桜木町・上野花園町・五条町の各一部を併せて成立した「上野公園」が正式の町名となっている[4]。本項で既述の動物園、博物館等施設のほか、東京都立上野高等学校(10番14号)、台東区立忍岡中学校(18番20号)、護国院(10番18号)なども「上野公園」の町域に含まれる。なお、寛永寺の本堂および墓地は町域外で、住所は台東区上野桜木一丁目である。
町としての「上野公園」は、「丁目」の設定がない単独町名である。街区符号は1番から18番まであり大部分が公有地や寺社地であるが、18番街区には上述の忍岡中学校のほか、民間のビルや集合住宅も立地している。
町名の変遷
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ、各町名等の一部) |
---|---|---|
上野公園 | 1967年1月1日 | 五条町(全域)、上野恩賜公園、上野花園町、上野桜木町 |
池之端一丁目 | 池之端仲町(全域)、茅町一丁目(全域)、茅町二丁目、上野恩賜公園 | |
池之端二丁目 | 上野恩賜公園、茅町二丁目、池之端七軒町(全域) | |
池之端三丁目 | 谷中清水町、上野恩賜公園、上野花園町 | |
上野桜木一丁目 | 上野恩賜公園、上野桜木町 |
上野公園の考古学
上野忍岡遺跡の発掘
現在上野公園が位置する台地一帯は、縄文・弥生から古墳時代の遺跡、あるいは幕末維新期の動乱で焼失した、江戸時代の寛永寺の主要伽藍及びその子院群の遺構を地下に包含する、上野忍岡遺跡(うえのしのぶがおかいせき)でもある。 1994年より、再開発に伴う発掘調査が国立科学博物館構内を嚆矢として、国立西洋美術館前庭部分、東京芸大構内、東京国立博物館構内と続き、近年も台東区教育委員会による発掘調査が、公園内及び周辺地で断続的に続けられている。調査の結果は報告書として刊行され、科学博物館構内からは、寛永寺子院青龍院(しょうりゅういん)の遺構、弥生時代の竪穴住居跡、埴輪片が出土。隣接する西洋美術館構内からは、多数の古墳時代竪穴住居跡が確認され、かつて当地にあった寛永寺子院凌雲院跡の遺構、徳川吉宗側室の墓跡などが確認された。
その他
- 1990年代初頭、当公園付近に不法残留の外国人がたむろし、変造テレホンカード等の売買など違法行為が頻発して問題になった時期があった。特に在日イラン人のコミュニケーションの場として機能していた。
- 1989年に、緑の文明学会と社団法人日本公園緑地協会が選定した日本の都市公園100選に選ばれている。
脚注
参考文献
- 小俣悟2001「加藤先生と台東区の発掘調査」『ツンドラから熱帯まで:加藤晋平先生古稀記念考古学論集』227-228。※台東区内の遺跡調査の歴史を紹介している。
- 小俣悟1996「台東区の遺跡」『武蔵野』74巻2号。
- 国立科学博物館上野地区埋蔵文化財発掘調査委員会編1995『上野忍岡遺跡:国立科学博物館(たんけん館・屋外展示模型地点)』
- 国立西洋美術館埋蔵文化財発掘調査委員会1996『上野忍ヶ岡遺跡:国立西洋美術館地点』
- 台東区文化財調査会2001『国立科学博物館:おれんじ館地点』埋蔵文化財発掘調査報告書10集。
- 台東区文化財調査会1999『国立国会図書館支部上野図書館地点』埋蔵文化財発掘調査報告書5集。
※その他、上野公園内各所の発掘調査報告書多数が、台東区文化財調査会により刊行されている。既刊の発掘調査報告書は、台東区及び都内各公立図書館で自由に閲覧できる。また、台東区教育委員会では、上野公園内を始めとする区内の遺跡を紹介した小冊子『台東区の遺跡』を年度毎に作成、無償配布している。
- 台東区の遺跡(台東区教育委員会生涯学習課) 台東区生涯学習センター
関連項目
外部リンク
公式サイト以外を掲げる。
- 東京都公園協会 上野恩賜公園
- 台東区文化財の調査報告書 - 上記の小冊子の案内。台東区生涯学習センター