高村光雲
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高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎、高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。
経歴
江戸下谷(現・台東区)に町人兼吉の子として生まれる。文久3年(1863年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。後に東雲の姉エツの養子となり、高村姓となる。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
明治22年(1889年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、同年10月2日帝室技芸員に任ぜられる[1]。明治26年(1893年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年には『山霊訶護』をパリ万博に出品。大正15年(1926年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。
代表作
- 老猿(東京国立博物館蔵) - 明治26年(1893年)シカゴ万博出品作。木彫。国の重要文化財に指定。
- 西郷隆盛像(上野恩賜公園)
- 明治30年(1897年)に完成し、翌年除幕式が行われた。傍らの犬は後藤貞行の作。
- 楠公像(皇居前広場)
- 山霊訶護(宮内庁蔵) - パリ万博出品作。
家系
祖先は鳥取藩士、中島重左衛門とされる。重左衛門の孫の富五郎が生まれる前に江戸で町人になっていたという。富五郎の息子が光雲の父・兼吉。
著書
- 『高村光雲懐古談』新人物往来社 1970
- 『人間の記録 高村光雲 木彫七十年』日本図書センター 2000
脚注
参考文献
- 高村規『木彫 高村光雲』中教出版 1999年 ISBN 4-483-00236-8