青島幸男
テンプレート:出典の明記 テンプレート:政治家 テンプレート:Infobox 作家 青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年(昭和7年)7月17日 - 2006年(平成18年)12月20日)は、日本の作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家。東京都出身。 AB型。 参議院議員(通算5期)、東京都知事(第13代)を歴任。
目次
概要
テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った『スーダラ節』を作詞。クレージーキャッツはもとより、若大将シリーズなどでも映画の主題歌を作詞したり、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞、ドラマ『いじわるばあさん』で主演し国民的キャラクターとして定着するなど、多才の人として知られ「超マルチタレント」と呼ばれた。また、タレント政治家として高い人気を誇り、選挙期間中に選挙公報作成、政見放送録画以外の選挙運動を一切やらずに当選し続けた点等が逆に注目されたりした。
ただ、都知事時代はめぼしい業績を残さなかったことや世界都市博覧会中止以外の公約を反故にしたことにより、そのカリスマ性も薄れ、都知事退任後、国政復帰はならなかった。
経歴
生い立ち
東京府東京市日本橋区堀留町(現在の東京都中央区日本橋)の仕出し弁当店・弁菊の次男として生まれる。
東京都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)に入学するが学制改革に遭い、数ヶ月で新制早稲田大学高等学院に転校(旧制高等学校と新制高等学校の入れ替え時期と重なり、特例にて無試験入学)。
早稲田大学第一商学部に進学。卒業間際に結核を患ったので就職を断念して、1955年4月に同大学院商学研究科修士課程商学専攻に進学し、療養生活を送る。療養中に銀座でバー「カランタス」を経営。そのとき書いた漫才台本がNHKのコンクールで採用されたことをきっかけに放送作家としての活動を開始。1956年6月には大学院を中退。
結核回復後は働かずに実家で過ごしていたが、1961年に先輩であるすぎやまこういちから電話で呼び出され渡辺プロダクション社長である渡辺晋を紹介される。
マルチな才能を発揮
渡辺プロダクション制作の「おとなの漫画」(フジテレビ)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などの構成をし、放送作家本人が画面に登場する「青島だァ!」のギャグで一躍有名になる。
作詞家としても才能を発揮し、番組で関わったハナ肇とクレージーキャッツや坂本九らの作詞をする。特に作曲家萩原哲晶とのコンビでの作品で数多くのヒットがある。代表曲として『スーダラ節』『だまって俺についてこい』『明日があるさ』等がある。
1966年には映画『鐘』にて製作・脚本・監督・主演を担当した。同作はカンヌ国際映画祭の国際批評家週間に入選した。
俳優として、テレビドラマ『意地悪ばあさん』(長谷川町子原作 / レギュラー放映:1967年~1969年、1970年~1971年、1981年~1982年)に主演の意地悪ばあさん(波多野たつ)の役で出演。自身で作詞した主題歌「意地悪ばあさんのうた」も歌った。
あまり知られていない仕事として、ドラマのストーリーテラー(いわゆる狂言回し)がある。1969年 - 1970年にかけて円谷プロダクションが製作した大人向けの特撮ドラマ『恐怖劇場アンバランス』で、ストーリーテラーとして全13回すべてに出演していた。ただし、内容が陰惨なため製作後3年間オクラ入りした後、1973年にようやく放映されることになった際の追加撮影である。アメリカの怪奇ドラマ「ミステリー・ゾーン」に倣いストーリーテラーが案内してドラマが始まるという趣向を狙い、「ミステリー・ゾーン」のロッド・サーリングに相当する人物として青島が抜擢された。ただしコメントはプロデューサーの熊谷健の執筆である。
政治の道へ
1968年、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し2位で初当選。なお、1位は石原慎太郎、3位は上田哲であり、タレント議員のパイオニア的存在となる。なお、テレビ司会者として1968年より11年間に渡り『お昼のワイドショー』、他に高見知佳との名コンビで広く親しまれた『追跡』など引き続き芸能界でも活躍した。
のちに無所属議員による院内会派第二院クラブに所属。「参議院議員は内閣に関与すべきではない」との立場から、首班指名は必ず棄権していた。
ある日、佐藤栄作が「自分は参院選の応援の為に日本全国を回った」と得意気に話すので、「自分はテレビでの知名度があって当選できた。選挙の立候補者も放送を通じて政見を述べればよい」と答える。そして青島の提案により、政見放送が実施される。
1971年3月29日予算委員会の代表質問において、与党自由民主党に対する財界からの政治献金の莫大さを批判。首相の佐藤栄作を次のように評した。
「もし理想的な政治資金規正法がつくられまして、これが厳密に運用されたら、自民党政府の存立はあり得ないでしょう。そのことはだれも知っておりますし、一番よく御存じなのは、佐藤さん、あなた御自身だと私は思います。だから、これは政治資金規正法の改正というのは私はできないと思います、あなたには。できもしないことを、やるのだやるのだとお約束になるから、ますます国民の不信を買うばかりであると私は信じます。(中略)資本主義国家なんですから、企業からお金を集めてそれを政治資金にするというのは、私は明らかにすればそれでいいと思うのです。できないならできないと明確におっしゃったほうが、一そうはっきりするのです。その代わり、政府はスポンサード・ガバメントであり、総理は財界のちょうちん持ちで男メカケである」と一刀両断、大いに物議を醸した(永六輔は、後年にこの発言を「あれは一種の媚び、ああいう媚び方というのがある、芸者がお座敷で権力者の禿頭を叩くのと同じ、あんなこと言われても総理は痛くも痒くもない。かえって喜んでる」と批判した)。
自民党は懲罰動議を出し、また同党の要求で、太字の箇所は国会会議録より削除された。しかし、青島懲罰の委員会決議は見送られた。青島によると、懲罰を決議するためには本会議で弁明の機会を与える必要があり、この弁明は時間無制限であったためではないかとしている[1]。
1974年の第10回参議院議員通常選挙以降、候補者の青島自らが街頭演説などの選挙運動を一切しないという独自の選挙活動を行う。これは青島が超有名人気タレントだから可能な戦法であった。
1981年、「人間万事塞翁が丙午」で同年上半期の直木賞を受賞。この作品は本人が直木賞を取ると周囲に公言して執筆、出版し、実際に受賞してみせた、しかもその作品が小説としては処女作であったという、ある意味では日本の文学史でも他に類を見ない離れ業であり、青島の豊かな才能の一端を示すエピソードとして知られている。
1989年4期目途中で消費税法案の強行採決に抗議して議員を辞職するが、直後に予定されていた第15回参議院議員通常選挙に立候補するものの落選した。この行動は、中途辞職による比例代表名簿次点登載者であったいずみたくの繰り上げ当選と、自身の当選によって所属会派の議席増をもたらすため、「比例代表制度を恣意的に利用するものである」と批判された。
1989年、韓国の盧泰愚大統領宛に「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」という署名を133名の国会議員と連名で提出し、日本人拉致実行犯辛光洙ら29名の無罪放免を訴えた。
1991年に悪性リンパ腫が発見され『追跡』など当時の全てのレギュラー番組を降板し治療に専念した。後に寛解するも、この時の抗癌剤治療が死因である骨髄異形成症候群の遠因となったと言われている。
1992年の第16回参議院議員通常選挙で、国会議員に返り咲く。金丸信と東京佐川急便の癒着疑惑につき、検察庁が罰金のみの略式起訴で幕引きを図ったときには抗議のハンガーストライキを行う。
東京都知事
1995年、東京都知事選挙に参議院議員を辞職し、無所属での出馬を表明する。当初は内閣官房副長官を長年務め、7人もの内閣総理大臣を補佐した、自民・自由連合・社会・公明4党が推薦し、新党さきがけが支持する石原信雄の当選が有力視され、5選不出馬により勇退する鈴木俊一知事も事実上、石原を後継に考えていた。しかし、青島は開発が進む臨海副都心地区で開催が予定されていた、鈴木前知事肝煎りの世界都市博覧会中止を公約に掲げ、石原や大前研一、岩國哲人、上田哲ら有力候補を破り、170万0933票を獲得して圧勝する。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。青島知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決したが、青島は「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定。バブル景気崩壊と失われた20年が始まった時期で体力の無かった建設業界などに影響を及ぼした。建設業では、都市博向けに人員を確保したものの突然の解雇、建設途中のブースを放棄し費用の不払いが各社で発生、資材を購入した建設業者の倒産などが相次いだ。
1995年5月16日午後7時頃、都庁舎の都知事秘書室で青島知事宛の小包が爆発する事件が起こり、この小包を開梱していた職員は左手の全ての指と右手親指を失う重傷を負った(東京都庁小包爆弾事件)。後にこの事件はオウム真理教による犯行と断定されている。オウム真理教の宗教法人の所轄庁が東京都であり、宗教法人法による解散請求問題が浮上していたため、都知事の青島が狙われた。
1998年には絵画「循環」で二科展入選を果たした。
しかし都市博中止以外に特に目立った施策はなく、2信組救済の税金投入をしないなど、他の公約を守ることもなく官僚・役人任せの行政に終始し、徐々に青島知事に対する批判は高まった[2]。もっとも、オール野党(ただし日本共産党・生活者ネット・自治市民'93などは青島の政策に一定の肯定的評価を出しており、都政を革新する会は青島を全面的に支持していた)であるために、独自色を出すことができないためにそうせざるを得なかったという見方もある。
1期を務め1999年に任期満了で退任となった。この時、実は2期目に立候補をするかどうか直前まで決めておらず、態度表明の記者会見の直前でも都政担当記者はおろか、ナンバー2である副知事でさえも退任するかどうかを知らなかった。
「ポスト青島」をめぐる1999年東京都知事選挙では、民主党を離党し、衆議院議員を辞職して出馬した鳩山邦夫を後継指名したが、石原慎太郎が当選し、鳩山は次点に終わった。
都知事在任中は知事公舎に入居しており、退任後は江東区に転居した。
晩年
2001年、二院クラブ代表に復帰。第19回参議院議員通常選挙に比例区から出馬するが落選。
2004年の第20回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(定数4)から無所属で出馬。ポスターには「選挙にも行かないでがたがた抜かすんじゃねぇこの野郎!! 青島だぁ文句あるか!?」の極めて挑発的な言葉を書き、自分がかつて作詞した歌「どんと節」の選挙版の替え歌(自己パロディ)を陽気に3回も熱唱し歌の合間に政見を少し話すという極めて異色な政見放送を行った[3]。596,272票を獲得したが、次点で落選した。青島はこの年の参議院選挙での落選を最後に、事実上政界を引退することとなった。
2006年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため死去。テンプレート:没年齢。叙・正四位、旭日重光章受章。戒名は廉正院端風聚幸大居士。今上天皇から、一般の香典にあたる祭祀料を下賜される。都の職員100人以上が、ボランティアとして、通夜・葬儀を手伝った。
青島の葬儀には盟友である植木等も参列したが、この時には植木も肺気腫により体調を崩しており酸素吸入器を付けなければならない状態で、彼にとってもまたこれが公の場で見せた最後の姿となった。なお、植木は青島の後を追う様に、それから3ヶ月後に死去している。
人物
人物像
高度経済成長期に「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」を作詞して“ニッポン無責任時代”を演出した立役者でもあるが、青島自身にサラリーマン経験は無い。また、「うちのお父さんはサラリーマンですが、ちっとも気楽じゃありません。あんな歌はやめてください」という苦情の手紙を受け取ったことがある。青島は「卒業、就職の時期に結核を患い、やむなく大学院に籍を置いて、療養生活を余儀なくされ、身の保証の何一つないヤクザな稼業に追いやられた私としては、「サラリーマンがナンボのもんじゃい」とうらみがましく思っていた」と語っている[4]。
1990年代に青島はアメ横で購入したモッズコートを頻繁に着用しており、それに目を付けたTV局関係者が後述の『踊る大捜査線』の主人公の衣装とし、名前の由来ともなった[5]。
他者からの評価
- 同年生まれであり青島が学生の時には既に芥川賞作家となっていた石原慎太郎のことを青島は意識し、時にライバル視していたと言われる。石原は初選挙も同じ参院選全国区であり、青島が直木賞受賞を目指したのも彼の影響によるところが小さくはない。かつては犬猿の仲とも言われ、メディアでも両者はよく対比された[6]。青島が亡くなった際、石原は「本当びっくりしましたね。前も一回がんを患って…本当に希代の才人だったからね。僕と同じ年だしね。同じ参議院で出て、ああいうウイッティーで才気のある人っていうのは、だんだんいなくなっちゃった」と述べた。ただし東京都知事としての青島の評価は低く、青島の前任者である鈴木俊一が2010年に亡くなった際、石原は「行政の経験がなければ都知事は務まらない」と持論を展開した上で元エリート官僚の鈴木を賞賛し、「(私の)友人でもあった青島君はあの体たらくで」と述べ、青島と美濃部亮吉に対し厳しい評価を下した。
- 野坂昭如が青島を批判したところ青島が「てめえなんかホームレス以下だ」と発言。このやり取りの前に動く歩道建設に伴うホームレスの強制退去が行われていたため、批判される一面もあった。
- 永六輔は青島を「敵に回すと恐ろしい、味方にくると頼りない」と評したことがある。また、矢崎泰久は著書において、「裏切り者」「議員になって途端に尊大になった」などと酷評している[7]。
- 知事在任中「都政に意地悪ばあさん」、「スーダラ都政」、「都市博中止だぁ!」等との青島のギャグに引っ掛けて週刊誌に皮肉られたこともある。
- 1995年の第17回参議院議員通常選挙には自らの後継として、実娘の青島美幸を二院クラブ公認で比例区に立てる(落選)など、それまで批判してきた世襲政治をも踏襲し、厳しい評価を受けた。
家族
長女は放送作家・エッセイスト・タレントの青島美幸、長男は作詞家・放送作家の青島利幸。
エピソード
漫画「天才バカボン」のバカボンのパパは、知らないルールがあると「国会で青島幸男が決めたのか?」と問い、また自分で勝手にルールを作ったときには「国会で青島幸男が決めたのだ!」と言うのが決まり文句だった(赤塚不二夫とは交友があり、赤塚の漫画家40周年記念パーティーに参加した際には「都知事の青島だァ!」と挨拶した)。
ドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ)では織田裕二扮する主人公の青島俊作の名前の由来となり、青島は自己紹介の際に「都知事と同じ青島です」と語る一方、ドラマのヒット後、青島本人がテレビ番組に出演した際は「湾岸署(ドラマの舞台となる警察署)と同じ青島です」と挨拶した。
作品
著書
- ざまァみやがれ!―デッカイ気分になる本(青春出版社、1966) ISBN B000JA9YXK
- 青島の意地悪議員日記(読売新聞社、1969) ISBN B000J9K246
- 続・意地悪議員日記―男メカケから沖縄国会まで(パロディ社、1972) ISBN B000J9KGN8
- 第3意地悪議員日記(パロディ社、1973) ISBN B000J9JWZ6
- 120万3431人の皆様へ―第4意地悪議員日記(パロディ社、1974) ISBN B000J9J7L0
- だから巨人ファンはバカなのだ(ごま書房、1976/01) ISBN B000J91K74
- なんだ勉強なんて(ポプラ社、1978/01) ISBN 4591013936
- これで日本も安心だ―哀れな中年から幸せな若者へのメッセージ(ごま書房、1979/05) ISBN 4341011782
- 面白生活白書―天下大変私は泰平!リッパなもんだよ日本人(主婦と生活社、1980/10) ISBN B000J83NXE
- 人間万事塞翁が丙午(新潮社、1981/04) ISBN B000J7ZBOY
- 青島幸男の国会を話そうか―これで政治に強くなる(ダイヤモンド社、1981/02) ISBN B000J814C6
- 青島の意地悪議員日記(新潮社、1982/03) ISBN 4101267014
- ノミの反乱(新潮社、1982/07) ISBN 4101267022
- 蒼天に翔る(新潮社、1982/09) ISBN B000J7LA6C
- ぴいひゃらどんどん(新潮社、1983/01) ISBN 410338803X
- ホントはどうなの…(毎日新聞社、1983/12) ISBN B000J793XO
- とまどいの日々(毎日新聞社、1985/04) ISBN B000J6VNRO
- 繁盛にほんばし弁菊(新潮社、1985/05) ISBN 4103388048
- 極楽トンボ(文藝春秋、1986/02) ISBN 4167405016
- 青島幸男の紋切り型辞典(ネスコ、1988/06) ISBN 4890360530
- わかっちゃいるけど…―シャボン玉の頃(文藝春秋、1988/09) ISBN 4163426205
- 青島幸男の金丸倒せ100万通大作戦(汐文社、1992/12) ISBN 4811301455
- 青島幸男とたった七人の挑戦(徳間書店、1995/06) ISBN 4198603049
- ドーンと都政じわじわ革命(ぎょうせい、1998/05) ISBN 4324054363
- 青い島の幸せな男(晶文社、2004/5) ISBN 4794966210 - 青島の近くにいる人物から反対を受け、出版中止となった[8]。
- ちょっとまった!青島だァ(岩波書店、2006/12) ISBN 4000280945
テレビ番組
- いまに見ておれ(1964年、TBS)
- 泣いてたまるか(1966年-1967年、TBS)
- ウルトラマン 第11話「宇宙から来た暴れん坊」(1966年、TBS/円谷プロ)- 新聞記者 役
- ひょっこりひょうたん島(1965年-1966年、NHK)トンカチーフ 役(声の出演)
- 気まぐれ百年(1966年、日本テレビ)
- 意地悪ばあさん(読売テレビ版、1967年)
- ケンチとすみれ(1967年-1968年、NHK)
- 独身のスキャット(1970年、TBS/円谷プロ)
- 恐怖劇場アンバランス(1973年、フジテレビ/円谷プロ)- ストーリーテラー〔司会〕
- 欽ちゃんの全日本仮装大賞(1979年~2001年、日本テレビ) 長期にわたり審査員長を歴任。
- 意地悪ばあさん(フジテレビ版、1981年-1982年)
- サザエさんVS意地悪ばあさんVSいじわる看護婦(1984年、フジテレビ)
- 今夜は最高!(1985年・1988年)
- 追跡(1988年-1994年)
- 明日があるさ(2001年、日本テレビ)- 加茂営業本部長 役
- TV's HIGH(2000年-2001年、フジテレビ)
映画
- クレージーの花嫁と七人の仲間(1962年、松竹)フロアーテレビ・ディレクター 役
- サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ(1962年、大映)- 原作
- スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ(1962年、大映)- 原作
- 若い季節(1962年、東宝)谷 役
- 「可否道」より なんじゃもんじゃ(1963年、松竹)テレビ作家赤島 役
- あの人はいま(1963年、松竹)縫目正志 役
- わんぱく天使(1963年、東宝)
- ホラ吹き太閤記(1964年、東宝)大久保彦左衛門 役
- 男嫌い(1964年)片山道雄 役
- 戦場にながれる歌(1965年、東宝)西山助教 役
- 大阪ど根性物語 どえらい奴(1965年、東映)青島 役
- クレージー大作戦(1966年、東宝) 駐在所巡査 役
- 旗本やくざ(1966年、東映) たらしの頓兵衛 役
- 黄金バット (1966年、東映東京)警官 役
- 女は幾万ありとても(1966年、東宝)塚本 役
- クレージーの怪盗ジバコ(1967年、東宝)警官 役
- BG・ある19才の日記 あげてよかった!(1968年、日活)今村栄次 役
- クレージーのぶちゃむくれ大発見(1969年、東宝)若い男 役
- 千夜一夜物語(1969年、日本ヘラルド)アルディン 役(声の出演)
- 俺は眠たかった!!(1970年、松竹)警官 役
- 二人でひとり(1970年、東宝)- 原作・脚本・監督・主演 服部良助 役
- 告訴せず(1975年、東宝)木谷省吾 役(主演)
- ドン松五郎の生活(1986年、東宝東和)
- 川の流れのように(2000年、東宝)
- 釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇(2001年、松竹)高野研一郎 役
- 明日があるさ〈THE MOVIE〉(2002年、東宝)加茂 役
- 死に花(2004年、東映)穴池好男 役
舞台脚本
音楽作品
歌唱
- 青島だァー/女なんて
- そろりと参ろう/今度こそは大丈夫 ※「そろりと参ろう」は、TBS系ドラマ『そろりと参ろう』主題歌
- 信じておくれ/鐘をあげる男たち ※「信じておくれ」は、牧田羊子とのデュエット。「鐘をあげる男たち」は、映画『鐘』主題歌
- しまった/悪く思うなよ
- 意地悪ばあさんのうた/ウマイ話ってないもんだね ※「意地悪ばあさんのうた」は、読売テレビ・日本テレビ系ドラマ「いじわるばあさん」主題歌
- ヤシの木陰のクリスマス(作詞・作曲:青島幸男、編曲:牧野信博、2000年11月29日発売)
- 明日があるさ 作詞を手掛けた坂本九の同曲のセルフカバー(「明日があるさ〜青島幸男作品集〜」の赤盤に収録)
作詞
- スーダラ節(植木等)
- ドント節(植木等)
- ハイそれまでョ(植木等)
- これで日本も安心だ!(植木等)
- 大冒険マーチ(ハナ肇とクレージーキャッツ)
- だまって俺について来い(植木等(火野正平と天童よしみもカバーするが、タイトルの「来い」の部分がひらがなになっている他、歌詞の「銭のない奴は」の部分が「金のない奴は」に変わっている))
- 実年行進曲(クレージーキャッツ)
- 明日があるさ(坂本九(Re:Japanもカバーするが、青島自身により新たに歌詞が追加された))
- とりあえずは元気で行こうぜ(西田敏行:『釣りバカ日誌』映画シリーズ主題歌)作曲も手掛ける。
演じた俳優
- 萩原流行 - 『シャボン玉の消えた日』(日本テレビ)
- 石黒賢 - 『ザ・ヒットパレード~芸能界を変えた男・渡辺晋物語』(フジテレビ)
関連図書
脚注
関連項目
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
鈴木俊一
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 東京都知事
民選第13代:1995年 - 1999年
|style="width:30%"|次代:
石原慎太郎
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
佐藤道夫
|style="width:40%; text-align:center"|第二院クラブ代表
初代:1983年 - 1995年
第5代:2001年 - 2006年
|style="width:30%"|次代:
コロムビア・トップ
辺見廣明
- 転送 Template:End
テンプレート:第二院クラブ代表 テンプレート:東京都知事 テンプレート:歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後・1991-2010)
テンプレート:ハナ肇とクレージーキャッツ- ↑ 「青島幸男 参議院議員としての軌跡」第3回
- ↑ 佐高信『タレント文化人150人斬り』(2002年、毎日新聞社)
- ↑ 平成16(2004)年 第20回参議院議員通常選挙 政見放送再録
- ↑ 『わかっちゃいるけど…シャボン玉の頃』(1988年、文藝春秋)
- ↑ 青島幸男ミュージアム
- ↑ 『週刊プレイボーイ』(1981年8月18日号)「キミはどちらを支持する!?青島幸男vs石原慎太郎」
- ↑ 矢崎泰久『変節の人 かつての同志が告発する青島幸男の正体』(1997年、飛鳥新社)
- ↑ WEB本の雑誌 こんな僕がインタビュー術を語っていいんですかっ? / 岸川真 > 第15回 出版中止になる
- ↑ 1970年の青島幸男自身が主演した同名映画とは別作品。元は小松政夫の為に書き下ろした喜劇の脚本で、長いこと陽の目を見ないままであったが、小松が2011年に日本喜劇人協会会長に就任した為、小松の会長就任記念作品として2011年に初めて舞台化された。