岩国飛行場
テンプレート:Infobox 空港 岩国飛行場(いわくにひこうじょう、MCAS IWAKUNI/JMSDF Iwakuni Air Base)は、山口県岩国市三角町2丁目に所在する、アメリカ海兵隊と海上自衛隊が使用する官有の飛行場・基地である。岩国基地(いわくにきち)あるいは岩国空港(いわくにくうこう)と呼ばれることもある、公書面では「岩国飛行場」となっている。
民間機就航空港としては岩国錦帯橋空港(いわくにきんたいきょうくうこう)の愛称が付けられている(後述)。
歴史
旧海軍時代
- 1938年(昭和13年)4月 - 大日本帝国海軍の飛行場として建設を開始。
- 1939年(昭和14年)12月 - 呉鎮守府所属練習隊が配置。
- 1940年(昭和15年)7月 - 岩国海軍航空隊が開設。以後主として教育隊、練習隊の基地として使用。
- 1943年(昭和18年)11月 - 海軍兵学校岩国分校が開設。
- 1945年(昭和20年) - イギリス軍やアメリカ軍を中心とした連合国軍機より空襲や機銃掃射を受け、基地の施設の多くが損害を受けた。最後の空襲は8月14日。
占領
- 1945年(昭和20年)8月15日 - 終戦。その後アメリカ海兵隊により接収される。
- 1946年(昭和21年)2月 - 連合国の1国として中国地方および四国の占領に当たったイギリス連邦占領軍の空軍基地となり、イギリス連邦空軍司令官であるサー・セシル・バウチャー少将の指揮下にあるイギリス空軍やオーストラリア空軍、ニュージーランド空軍、インド空軍などのイギリス連邦占領軍 (BCOF)、およびアメリカ空軍が駐留した。
- 1948年(昭和23年) - オーストラリア空軍へ移管。
- 1948年(昭和23年)3月19日 - 英国海外航空 (BOAC)が定期乗り入れを開始。
朝鮮戦争以降
- 1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。本飛行場も国連軍の中枢をなすアメリカ軍とイギリス軍により使用される。
- 1952年(昭和27年)4月1日 - 日本の占領解除と同時にアメリカ空軍へと移管。
- 1954年(昭和29年)1月 - アメリカ海軍第6艦隊航空団(FLEET AIR WING 6)が移駐を開始。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - アメリカ海軍へと移管。
日米共用以降
- 1957年(昭和32年)3月 - 航空自衛隊とアメリカ海軍の共用基地となる。
- 1958年(昭和33年)7月20日 - アメリカ側でアメリカ海兵隊へと移管。
- 1967年(昭和42年)12月1日 - 日本側で航空自衛隊から海上自衛隊に移管。
- 1970年(昭和45年)7月4日 - ベトナム戦争に参戦中のアメリカ軍基地内で、アフリカ系アメリカ人兵士や反戦兵士による暴動が発生し、営倉などが一時占拠される。
- 1970年(昭和45年)12月 - 極東放送 (FEN-TV)が設立(米軍放送送信所も参照)。
- 1971年(昭和46年)4月 - ダナンより第1海兵航空団が撤収。本飛行場に司令部を再設。
- 1976年(昭和51年)10月 - ベトナム戦争終結後の海兵隊再編に伴い、第1海兵航空団司令部が普天間飛行場近郊のキャンプ・バトラー(沖縄県中城村)に移駐[1]。
- 2012年(平成24年)12月13日 - 民間機による定期便が48年ぶりに再開される[2]。
今後
在日米軍再編に伴って、厚木基地の第5空母航空団(空母艦載機のF/A-18E/F スーパーホーネット、EA-18Gグラウラー、E-2Cホークアイ飛行隊)が移転してくる計画がある。また、普天間基地の空中給油機KC-130ハーキュリーズも、飛行隊司令部、整備施設等とともに移転してくる予定である。
これにより、 嘉手納飛行場(空軍)にかわり、岩国基地が極東最大の米軍基地となる。
周辺対策
本飛行場に関係する周辺対策事業は他の自衛隊・在日米軍施設同様「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」を根拠法とし(以下本節で同法と呼ぶ)、旧防衛施設庁の主導により下記が実施されてきた[3]。
一般的に、周辺対策事業は下記のように区分され、その他にも名目をつけて予算措置がなされることがある。
- 障害防止工事の助成
- 住宅防音工事の助成
- 移転措置による土地の買い入れ
- 民生安定施設の助成
- 調整交付金の交付
基地周辺対策の実施対象自治体は広域自治体としては山口県、広島県、基礎自治体としては岩国市(旧由宇町含む)、玖珂郡和木町、柳井市(旧大畠町のみ)、大島郡周防大島町、大竹市など3市2町に及んでいる。本飛行場の場合対策の主眼は騒音対策であり、1種、2種、3種の全ての種別の区域設定がなされている。
障害防止工事
障害防止対策事業(同法3条に基づく)の内一般障害防止については、河川改修工事、排水施設工事などの助成があり、1999年時点までで70億9000万円の助成を実施している。
騒音防止工事
学校等の公共施設の騒音防止対策事業としては、航空機騒音の防止・軽減対策として1954年度(特損法時代)より学校法人、幼稚園、医療施設などに防音工事を実施し、1999年時点で172億3000万円となっている。
住宅防音工事
住宅防音工事については同法4条に基づいて指定した第一種区域(75WECPNL以上[4])に所在する住宅を対象として、1978年度に岩国市を告示し、航空機の性能と運用の変化を勘案しつつ1982年に由宇町、1992年に大竹市阿多田島が追加された。
住宅への防音工事は1975年度以降1999年時点で約22000世帯に対して405億円が投じられている。
移転措置
同法第5条に基づく第二種区域(WECPNL90以上)からの移転補償については1968年度から実施しており、1999年までの総計で建物16戸(約9億6000万円)、土地約5.9haとなっている。
第二種区域内の移転措置で購入した土地は「周辺財産」として防衛施設庁が管理していた。内、植栽を実施した面積は2.4haである。この他、周辺財産の一部を岩国市に使用を許可し、3.1haが広場、花壇敷地などに使われている。
民生安定施設の助成
民生安定施設の助成は同法8条に基づき、一般助成と防音助成に分かれる。
一般助成事業としては、市民会館、体育館、漁業用施設(船溜まり)、ゴミ処理施設などに助成し、1999年までに総計107億円となっている。
防音助成事業は公共施設に対して1999年までに33億円3000万円、道路改修等の事業には17億円が使われている。
特定防衛施設周辺整備調整交付金
更に、同法9条に基づき、特定防衛施設周辺整備調整交付金を特定防衛施設関連市町村に指定されている岩国市に対して交付している。1975年度の開始から1999年までで約65億4000万円となっている。
漁業補償
基地に隣接する海面を米軍に提供し漁業制限を実施しており、沖合移設事業の前はその面積は2000haであった。これに対する漁業補償を関係する36の漁業組合に毎年実施している。
滑走路の沖合移設
移設に至る経緯
旧滑走路での運用を行っていた時代には幾つかの問題があった。
- 延長線上に大規模な石油コンビナートがあり、飛行ルートは石油コンビナート等災害防止法により制約を受けていた。具体的にはコンビナートが同法による特別防災区域に指定されているため、離陸後に急旋回で距離をとるように運用しなければならなかった。
- 飛行場が岩国市商店街、住宅街に隣接しており、ジェット化に伴う騒音公害の影響を受けやすかった。
1968年、九州大学電算センターファントム墜落事故が発生すると事故に対する地元の危機感は高まった。そして1971年以降、岩国市は滑走路の沖合移設・埋立を求めるようになった。当飛行場の施設は日本の税金によって建設されているので(米軍負担は兵器本体と軍人給与のみ)、日本政府の負担で滑走路を移設することになった。
防衛施設庁は1973年度より予備調査を開始し、種々の検討を加えた上で1982年7月に防衛施設中央審議会は答申を出し、「岩国飛行場周辺における安全を確保し騒音の軽減を図るためには、飛行場の東側の海面を埋立て、滑走路を約一千メートル移設する方法が適当である」と結論した。
1983年からは1985年度にかけて環境影響評価に係る基礎調査が実施され、1986年度から1988年度にかけて移設のための工法試験(試験埋立)を実施し、その後の沈下状況を10年以上に渡って観測した[5]。その間、1989年には基本設計、1991年から1995年にかけて環境影響評価を実施した。また、1993年にはボーリングを実施している。
基本設計と環境影響評価では、1992年までに下記の2案を作成・調査を実施した [6]。
- A案:沖合1000mへ滑走路を平行移設。建設費見積2000億円
- B案:在来滑走路に交差する形で新滑走路を建設し東側一部埋立。建設費見積500億円。
こうした検討の結果、1992年8月、防衛施設庁はA案を採用し、かつて「巨額な工事費を要する非現実的な構想」[7]とも言われた沖合移設を正式に決定した。
移設事業計画
移設計画の実現に立ちはだかったのは事業費と技術的条件であった。しかし、米軍駐留経費(思いやり予算)の提供施設整備費を充当することで費用面の目途がつき予算1600億円、工期8年(当初から10年として計画していたとする資料もある[8])の計画が立てられた。1997年6月1日には起工式を実施した[9]。
- 計画概要
- 埋立区域面積:215ha(南地区:88ha、北地区:72ha、中央地区:55ha)
- 護岸延長:約7450m
- 岸壁:約360m、水深13m
- 防波堤:約1940m
- 埋立土量:2225万立方メートル[10]
- 滑走路:2440m×60m
- 付帯施設:誘導路、航空保安施設、管理施設、艦船係留施設等
- 第1種区域(WECPNL75以上[11]):移設前約1600ha、移設後300ha(計画当初、後に500ha)
技術的検討
埋立海域は錦川の三角州に位置しており、沖積層が堆積しこれが正確な沈下量の予測を難しくしていた。特に、上部沖積砂層(As1層と呼称)以深に堆積する層厚20m程度の沖積粘土層(Ac層と呼称)が問題[12]であり、埋立時の厚密沈下の対象層であった。具体的な課題点として防衛施設技術協会は下記を挙げている[13]。
- 大きな圧密沈下が予想される埋立地に、極めて高い平坦性を要求される滑走路を建設する。
- このような地盤条件下でコンクリート舗装を行った事例が過去に無い。
- 埋立地盤の不同残留沈下に対するコンクリート舗装の追従性が技術的に未知である。
このため、防衛施設庁は1993年、経済的で信頼性の高い設計を実施するため専門家からなる「岩国飛行場埋立造成・舗装研究委員会」を組織した。
試験埋立の結果、上記委員会の埋立造成部会は埋立地盤の沈下特性[14]、沈下の制御方法、残留・不同沈下量の推定などを研究した。その結果は下記のような工事工程として反映された。
- 南地区:圧密放置期間4年
- 中央地区:圧密放置期間1年6ヶ月
- 北地区:圧密放置期間2年2ヶ月
試験埋立と各種調査の結果より必要土量と沈下量が予測された。異種の埋め立て工法を使用すると境界部分にて沈下量、沈下速度に違いが出る[15]可能性があることから基本的にはサンド・ドレーン工法を使用し、護岸など一部でサンドコンパクションパイル工法による埋立が実施されることとなった[16]。岸壁では当時一般化しつつあった浚渫軟泥土の再利用も実施されている[17]。
舗装条件については上記委員会の舗装部会で検討された。米軍からは運用所要として、「舗装工事はコンクリート舗装を基本とし、併せて運用開始後は運用停止を伴うような大規模な補修工事を必要としないような構造とすること」という条件が提示されている。
これを具体化すると滑走路の機能に関する条件は次のようになった[13]。
- 縦断勾配の変化に対する規定は厳しい[18]。
- 将来に渡って、滑走路の全面閉鎖を伴う補修は困難であり、選定される舗装種別はメンテナンスフリーであることが要求される。
- 戦闘機が使用するために、FOD(Foreign Object Damage)のリスクがあり、舗装面の段差が特に問題となるため、破損による欠片の飛散、不同沈下による目地のずれがあってはならない。
コンクリート舗装の耐用年数として設定された20年間、上記の条件を満たすことが要求された。
これらの仕様から種々の舗装種別を比較し、CRC舗装(連続鉄筋コンクリート舗装、ダブル配筋)を採用した。不同沈下に対する追従が良く、弱点となる横目地が無いなどの利点が評価された[19]。
なお、その他護岸・岸壁についても、軟弱地盤上の建設であり、水深の変化が大きく[20]、地盤条件も一様ではないため、設計には慎重な検討が必要と委員会で結論された。
なお、本工事は思いやり予算での負担工事に当たるのは上述したが、具体的には更にその下の提供施設整備計画 (FIP)に当たる。アメリカ側のカウンターパートは陸軍工兵隊建設技術本部下の在日米陸軍建設技術本部であった[21]。
工事着手後
水深や沈下速度の違いを考慮して工事は三工区(南→北→中央)の順に実施した。なお、土源には岩国市愛宕山地区での住宅地再開発事業で発生した残土が採用されている[9]。
1990年代後半より顕在化した普天間基地移設問題において、2000年より設置された『普天間飛行場代替施設に関する協議会』で本飛行場の沖合移設が技術的な参考に提示されたことがある[22]。
沈下の終息後舗装工事等を実施することでたことなどにより、工事は上述のように長期間で計画されたが、期間、事業費は増加していった。節目としては3回ある。
まず、2001年に公表された防衛施設庁による政策評価では
が加わり、事業費は2000億円、完成は2007年度末に延長された[23]。
その直後、2001年3月に発生した芸予地震により再度水深の深い埋立地における液状化対策が認識され、2002年8月30日、防衛施設庁は対策工事の追加で事業費が2400億円に増加すること、工期が3年程度延びることを発表した[8][24][25]。
その後、更に次の要因で更に2年の時間を要した[24]。
- 滑走路西側平行誘導路となる場所にある市のし尿処理場の土地を国への引き渡すのが遅れ、その間の調査で当該地にてサンドドレーンによる地盤改良が必要と判明した。
- 新管制塔の入札が不調でその間に構造計算書偽造問題から建築基準法が改正され、強度計算が新基準に適合するか確認作業が必要になった。
- 航空保安無線施設の設置場所に調整が必要となった
- 新滑走路北側誘導路建設で既存の火薬庫の移設が必要であったが、米軍の内部事情で手続きに時間を要し、1年9ヶ月工期が遅れた。
こうして、2010年5月29日には新滑走路の運用が開始され、旧滑走路は閉鎖された[26][27]。最終的な総事業費は2500億円となっている。
一方で、防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律による第1種区域は計画当初300haに減少する計画であったものが、艦載機移転に伴い500haとなった。このことを見越し、一部住民により完成前年の2009年、爆音訴訟が提訴されている[28]。
なお、岩国基地への空母艦載機部隊移転の関係で更なる沖合への滑走路新設が岩国商工会議所などにより構想されたことがある。この際の工法にはメガフロートが候補であり、事業費として4000~5000億円程度を想定している旨報じられた[29]。
空母艦載機部隊移転問題
テンプレート:Main 現在テンプレート:いつ計画中の在日米軍再編の中で、厚木基地からの空母艦載機移転が計画されており、これを巡って2006年3月12日、旧岩国市に於いて住民投票が行われ、反対票が賛成票を大きく上回る結果となった。しかし、その後の国の強硬姿勢もあって岩国市内では様々な議論を呼んでいる。
その他
愛宕山地域開発事業は当初の総事業費850億円、宅地供給数1500戸の計画で、1998年頃より着手した。しかし2002年に実施した需要予測では戸建て住宅の需要推計は当初計画の19%に過ぎなかった。当時の岩国市の年間歳入は400億円程度で、事業のため設立した公社の借入金残高は260億円に達し、県と分担して処理した場合、重い負担になることが懸念された。それを解消するために、米軍再編を利用して艦載機部隊の隊員・家族の住宅に充て、債務を国に肩代わりさせる構想もあるが、賛否に割れている[30]。2006年に実施された予測では184億~492億円の赤字発生が予想されている[31]。2007年9月には、山口県の希望が通り、国は用地の75%の買取に応じた。米軍住宅の有力な候補地として検討しているが、米軍住宅への転用を前提としない名目であるという[32]。
また、有力な漁場ともなっていた干潟を埋め立てたため[33]、その代替として10年程度の期間で人工干潟を創生する計画が実施されている。ただし、着手当時はミティゲーションの概念が日本に入ってきて間もなく、建設業界でも日本の環境に即した干潟創生のための技術開発は模索の段階であった。そのこともあり、着工間もない頃から環境団体により維持費と効果に批判的な意見が寄せられている[34]。
なお、2006年には、防衛施設庁談合事件に絡んで、中央地区の工事で大林組などが関係した談合があったのではないかと赤旗などに報じられた[35]。
所在部隊
海兵隊
- 佐世保基地を母港としている強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」艦載機の基地として、MH-60S・HH-46など一部のヘリやハリアーなどが佐世保入港時に駐留している(ボノム・リシャール艦載機は、佐世保入港時は岩国基地と普天間基地に分散していると見られる)。
- 第1海兵航空団の第12海兵航空群が駐留しF/A-18戦闘攻撃機やAV-8ハリアー II攻撃機、EA-6電子戦機などを運用している。後述するVMFA (AW)-242以外の部隊は基本的に6ヶ月のローテーション配備が行われているため、時期によって岩国基地に所属する飛行隊が変わる。
- その他、在日米軍や在韓米軍航空機が相互の部隊の移動やアメリカ本土への帰還の際に途中給油を行う中継点としても良く使用される。
- 航空管制を受け持つ。ちなみに、松山空港の進入レーダー管制は岩国で行われている。
- 常駐部隊(海兵隊航空部隊)
- 第12海兵航空群(MAG-12、Marine Aircraft Group) - 第1海兵航空団 (1stMAW - Marine Air Wing)の直轄部隊。岩国海兵隊基地を管轄。
海上自衛隊
- 岩国航空基地
(航空集団)
- 第31航空群司令部
- 航空集団直轄
- (システム通信隊群呉システム通信隊)岩国システム通信分遣隊
- (呉地方警務隊)岩国警務分遣隊
- 南極観測船「しらせ」直轄
- しらせ飛行科 - 「しらせ」搭載輸送ヘリコプターCH-101を運用。「しらせ飛行科」は第111航空隊の分遣隊ではなく、独立した艦所属部隊で部品調達の関係から岩国航空基地に置かれている。
海上自衛隊の救難飛行艇用の揚陸斜路(滑り台)が設けられている。
岩国錦帯橋空港
上述のとおり岩国飛行場(岩国空港)は永きにわたりアメリカ海兵隊・海上自衛隊による運用が行われてきたが、2012年12月13日から軍民共用空港としての活用が始まり、民間機による定期便が就航している[2]。日本国内で米軍基地に民間機の定期便が就航するのは三沢飛行場(アメリカ空軍三沢基地)に次いで2例目、山口県内では山口宇部空港に次ぐ民間機就航空港となる。
英国海外航空の乗入れ
1948年(昭和23年)3月19日には、イギリス連邦占領軍への物資補給を目的に、英国海外航空 (BOAC)のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇が、イギリス南海岸のプールと香港を結ぶ路線を延長し定期乗り入れを開始した。これはイギリスの航空会社による初の日本乗り入れであった。
なお、英国海外航空が岩国基地を最初の定期乗り入れ地にした理由の1つに、定期乗り入れ開始に先立つ1946年3月に、イギリス連邦占領軍のバウチャー少将が、英国海外航空機の東京国際空港沖への乗り入れを連合国軍最高司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、拒否されたという背景があった[36]。
そのため、かつてはIATA空港コードIWJ(現在は石見空港に転用)があった。現在のIATAコードはIWKであり、2012年の民間機就航に併せて再取得されたものである。
軍民共用化
その後、1952年から初代広島空港(現・広島ヘリポート)が出来る前の1964年までの間、民間機の定期便が就航していた。以後は米軍関係者の移動にチャーター機が運航されることがあった程度だが、地元自治体は軍民共用化の再開を強く要望していた。要望の一環として、日本航空により、地元商工団体(岩国ハワイチャーターフライト実行委員会)主催によるホノルル国際空港往復のチャーター便が1992年・1996年・1999年・2007年の4回就航している。
2005年10月、日米合同委員会において米軍の運用を妨げないとの条件付きで民間機就航に合意[37]、滑走路の沖合移転後に軍民共用化を行い1日最大4往復程度の民間機が運航されることが計画された。2007年5月には防衛施設庁がターミナルビルなどの配置計画などを示したマスタープランを示していた。ただし、地元岩国市では井原勝介前市長を筆頭に在日米軍再編の一環である厚木基地からの空母艦載機部隊の移転に反対の立場を示す意見が多く、軍民共用化は在日米軍再編の地元対策と考えている防衛省・防衛施設庁との意見の相違が見られた(ちなみに軍民共用化の決定は在日米軍再編の決定前だったため、軍民共用化と在日米軍再編は別の問題ととらえる地元の意見も根強い)ため計画の実現に向けては紆余曲折が見られた。
その後、2008年に行われた岩国市長選挙で在日米軍再編に一定の理解を示す福田良彦が当選したことで当時の冬柴鐵三国土交通大臣や石破茂防衛大臣が民間空港再開(軍民共用化)の推進に前向きな姿勢を示し[38]、2009年2月には政府が民間航空の再開を発表した[39]。
2010年2月17日に全日本空輸 (ANA) の上席執行役員が山口県庁を訪れ、沖合移転滑走路を使用した羽田便を2012年から1日4往復就航することを二井山口県知事と福田岩国市長に正式表明した[40]。ANAでは岩国市に工場を持つ帝人や日本製紙などへのビジネス需要や空港近郊の錦帯橋や宮島など観光需要を想定し、年間で30-40万人の利用客を見込んでいる。この計画に従い、ANAは2012年1月17日に発表した2012年度ANAグループ航空輸送事業計画において、「2012年下期から羽田 - 岩国線を1日4往復就航」を明記[41]、2012年6月8日に羽田雄一郎国交相が岩国錦帯橋空港について「2012年12月13日を開港目標日としたい」と表明した[42]ことを受け、同日開港に向けての準備が進められ、2012年12月13日から軍民共同利用が始まった。
ターミナルエリアの整備
民間機用の駐機場などの整備は、国土交通省が2010年度からの3年間で実施し、事業費は約46億円。また空港ターミナルビルについては、国土交通省大阪航空局が実施した公募型プロポーザルの結果、唯一応募した県・岩国市及び周辺の市町が出資した第三セクター「岩国空港ビル」が担うこととなり、鉄骨2階建で延べ床面積3000-4000平方メートル規模のターミナルビルが10億-15億円程度の事業費で整備された[43]。民間利用時の空港の愛称についても一般公募が行われ、最も投票数が多かった、近傍の名勝に由来する『岩国錦帯橋空港』の愛称が与えられることになった[44]。
ターミナルエリア(駐車場・空港ターミナルビル・エプロン)は敷地の北西部にある「ノースサイドレクリエーションセンター」の一角を取り壊し、隣接する民有地の一部を取り込んで建設された。これらのエリアは基地エリアと分離され、一般客が自由に行き来できるようになる。離着陸する民間航空機は、ターミナルエリアのエプロンから専用ゲート(航空機通行時にのみ開閉される)を通過し、誘導路を経由して滑走路と行き来することになる。
ターミナルビルは2階建てだが、搭乗カウンター・待合フロア(ゲートラウンジ)など主要施設はすべて1階に集約され、2階はボーディングブリッジへのコンコースと展望デッキのみが設けられるという比較的シンプルな構造になっている。ゲートラウンジは駐機エプロンのすぐそばに設けられており、搭乗待合中の真横に飛行機が駐機するという構造となっている。
問題点
当飛行場の滑走路は米軍管理下にあり、滑走路上での事故については日本所有の航空機の人身事故であっても、米軍が消火活動、救命救急活動、事故調査活動を行う[45]。2003年に滑走路で自衛隊機が横転炎上し4名の隊員が死亡する事故があったが[46]、日本は事故に関する一切の活動に参加できず、滑走路に立ち入ることも出来なかった[47]。
就航路線
- 全日本空輸 (ANA)
アクセス
- 空港連絡バス・高速バス
- 道路
- 山口県道110号岩国錦帯橋空港線
- 民間利用開始に併せて市道から昇格。
- 山口県道110号岩国錦帯橋空港線
- 国道189号は米軍基地エリアへのアクセス道路であり、民間空港エリアへのアクセスとしては案内されない。軍民共用化後、民間航空利用者が誤って米軍基地側に行くケースが発生し、海兵隊が注意を呼び掛けている[49]。
基地一般公開
アメリカ
毎年5月5日にはアメリカ海兵隊の主催する航空祭「フレンドシップデー」が催され、海兵隊地区が一般市民へ開放されていた。多数の航空機が地上展示されるほか米軍機やブルーインパルスの展示飛行が実施された。動員観客数は催しの内容や連休の並びに影響されるため年によって変化が大きいが、概ね14万~24万人であった。2012年の「フレンドシップデー」は過去最高の観客動員であったが、その後基地司令官が「フレンドシップデー」の効果に疑問を持っていることと、民間空港として開港することより、次年度以降については中止ないし地上展示のみとする方針が明らかにされていた。2013年は米国政府の財政難のあおりを受け「フレンドシップデー」は中止。2014年は例年通り5月5日に開催されたが航空機による展示飛行は一切なく、米海兵隊機、海軍機、自衛隊機の地上展示のみに留まった。
日本
毎年9月の第2もしくは第3土曜日には、海上自衛隊地区が一般開放されて海上自衛隊第31航空群の記念行事が行われる。記念式典、海上自衛官によるファンシードリル、航空機体験搭乗、機材(航空機)の地上展示などが行われる。当日は岩国駅前~基地内間の臨時バス(有料)が運行される。
飛行艇博物館構想
なお、上述の空港ターミナル計画の中に従来海上自衛隊基地内に設置していた基地資料館を移設し、飛行艇資料館を建設して大和ミュージアム、潜水艦資料館等と共に中国地方の観光スポットとする構想がある。現状の基地資料館は米軍基地の敷地を横切って移動する必要があるため、自衛官の付き添いが必要で不便さが残っていたが、移設によりその問題も解消すると言う[50]。
基地内施設
イベントや展示施設とは異なるが、基地内には他の幾つかの米軍基地同様にアメリカの大学の分校(セントラルテキサス大学、メリーランド大学)が開校しており、日本人も就学している。
入学の受付は岩国市が担当している。授業は全て英語で、2000年代に入ってからは日本人の入学者数は減少しているという。メリットは、留学に比較して米国内で米国人が払う額と同じ額で授業が受けられることや、渡米した場合の渡航費や現地での生活費の負担が無いことである[51]。
脚注
参考文献
- 「岩国飛行場-その運用と周辺対策-」(『調和 基地と住民』1989年12月15日)
- 「岩国飛行場-その運用と周辺対策-」(『調和 基地と住民』1999年12月)
- 基地の歴史:米海兵隊岩国航空基地
- 第6節 岩国飛行場滑走路沖合移設工事の開始 『防衛施設庁史 第1部第6章』2007年3月
- 平成13年度政策評価書(中間段階の事業評価) (担当部局:防衛施設庁施設部施設計画課、評価実施時期:2001年6月~8月)
- 岩国飛行場藻場・干潟回復検討報告書に対する環境省の見解について 環境省 2002年11月15日
- 岩国飛行場滑走路沖合移設事業 防衛省中国四国防衛局
- 総務部 岩国基地対策室 山口県
- 空港整備基本計画(中間報告)- 概要版- 岩国基地民間空港再開事業推進協議会 2006年2月
- 第6節 岩国飛行場の民間空港再開に係る日米間の基本的合意 『防衛施設庁史 第1部第9章』2007年3月
関連項目
外部リンク
テンプレート:Airport-info テンプレート:日本の空港
テンプレート:海上自衛隊2- ↑ 『沖縄の基地』沖縄タイムス社 1984年9月 p23
- ↑ 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Cite web
- ↑ 周辺対策の主な出典は
広島防衛施設局「岩国飛行場-その運用と周辺対策-」『調和 基地と住民』1999年12月 - ↑ 防衛施設庁算出法によるWECPNL
- ↑ 試験埋立地は8角形の形状で面積は7100平方メートル。地盤改良はサンドドレーン工法にて実施し、改良結果の確認を実施した。
- ↑ Ⅰ.岩国基地沖合移設 主要プロジェクトの動き 岩国商工会議所ウェブサイト
- ↑ キーパーソンの証言18:「岩国飛行場滑走路の移設着工について」 『防衛施設庁史 第1部第6章』2007年3月
「非現実的な構想」と言われた件についても回顧 - ↑ 8.0 8.1 起工当初の工期、芸予地震の影響等についての出典は下記
岩国市の基地対策1 (基地沖合移設事業) 岩国市 3ページ - ↑ 9.0 9.1 岩国基地、滑走路沖合移設に着工…面積1.4倍に 『読売新聞』1997年6月2日
- ↑ 『防衛施設庁史』2007年による数値。他文献で多少の変動あり。
- ↑ 防衛施設庁方式によるWECPNL
- ↑ 20mは試験埋立海域での値であり、各工区等で海底地盤の地層構成には変化がある。
- ↑ 13.0 13.1 「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月
- ↑ 例えば、沖積粘土層は正規圧密として設計上の取り扱いをする、などの結論を得ている。
- ↑ 最終的な沈下量が揃っていても沈下中の速度に違いがあれば地表面には相対変位が生じる。
- ↑ 『防衛施設庁史』(2007年3月)ではサンドコンパクションパイル工法しか紹介していないが、ここでは埋立技術面に特化した下記の文献の説明に従う。
「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月 - ↑ 浚渫軟泥土のプレミックス工法 関門港湾建設
- ↑ 具体的条件は下記。
滑走路端部3000フィート区間で縦断勾配0.8%以下、滑走路中央部で1%以下であること
不同沈下によって舗装表面の雨水排水等に支障を生じない) - ↑ なお、舗装構造設計に際しては、下記諸仕様(いずれも当時)に準拠している。
『飛行場施設等の設計要領』 防衛庁
『空港コンクリート舗装構造設計要領』 運輸省 - ↑ 埋立海域の水深は0~20mとかなりの幅がある。
- ↑ ジョン・R・マクマーン(米陸軍大佐)「JED(在日米陸軍建設技術本部)-DFAA(防衛施設庁)との協調関係は、永遠に固く」『防衛施設と技術』2003年10月
- ↑ 第3回代替施設協議会協議概要 2000年10月31日
第5回代替施設協議会協議概要 2001年1月16日 - ↑ テンプレート:PDFlink (担当部局:防衛施設庁施設部施設計画課、評価実施時期:2001年6月~8月)3ページ
- ↑ 24.0 24.1 岩国基地、沖合移設2年遅れ 民間空港再開にも影響か 『中国新聞』2008年9月28日
- ↑ ただし、着工時点で土質定数等の推定値が全て確定していた訳ではなかった為、液状化の検討を実施した際は当初から埋立後に再調査を実施し、液状化の可能性が高いと判定された地域では対策を実施する方針であった。また、着陸帯では地盤改良を実施しない計画であるなど、一口に埋立地と言っても滑走路などとは扱いに違いも見られる。
「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月 P87 - ↑ 岩国飛行場における新滑走路の運用開始に係る施設の提供等について 防衛省 2010年4月14日
- ↑ 「岩国基地、沖合移設の新滑走路を前倒し運用」『読売新聞』 2010年5月29日付
- ↑ 米軍岩国基地の新滑走路、きょうから運用 地元は期待と反発交錯 『山口新聞』2010年5月29日掲載
- ↑ 「米軍NLP実施、岩国沖に「メガフロート」検討」『読売新聞』2005年8月28日
- ↑ <4>岩国沖埋め立て関連造成事業テンプレート:リンク切れ 『読売新聞』企画・連載:沖縄
- ↑ 岩国基地沖合移設関連の宅地造成…赤字492億円見通し 2006年11月21日
- ↑ 「岩国・愛宕山の宅地予定地、国、買い取り基本合意」『日経新聞』地方経済面 中国A版 2007年11月9日
- ↑ ただし、埋立前は基地に隣接する2000haの海域で常時漁業制限を実施しており、その補償を地元の漁業組合に行っている。
「岩国飛行場-その運用と周辺対策-」『調和 基地と住民』1989年12月15日 - ↑ 環境創造の虚実 -開発の免罪符色濃く- 『中国新聞』1998年6月16日
- ↑ 岩国基地でも談合か 施設庁 滑走路沖合移設工事で 『赤旗』2006年2月3日
- ↑ 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.17 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 岩国基地民間空港再開に係る要望結果について(2008年4月10日付山口県報道発表)
- ↑ 岩国飛行場における民間航空の再開について 首相官邸 2009年2月16日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite pressrelease
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- ↑ 「米軍岩国基地:民空再開 空港ターミナルビル、営業者に3セク選定--国交省/山口」『毎日新聞』2010年7月15日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 山口の海自機墜落4人死亡 航空事故調査委を岩国基地に設置 『読売新聞』2003年05月22日 西部朝刊 1頁 写有 (全685字)
- ↑ 海自機炎上、4人死亡 離着陸訓練中に横転 岩国基地 2003年05月22日 産経新聞 東京朝刊 31頁 第1社会 写有 (全470字)
- ↑ 海自機墜落事故 近くに弾薬庫「あわや…」 山口・岩国基地 軍民共用化に警鐘 『読売新聞』2003年05月22日 西部朝刊 29頁 写有 (全1,088字)
- ↑ 2012年12月13日から東京(羽田)⇔岩国線を開設!
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 塩村忠勝「米軍再編と岩国市の現状」『航空ファン』2008年12月
- ↑ 「基地内大学日本人新入生が減」『中国新聞』2009年4月12日
岩国基地の「基地内大学」 日本人新入生が減少し続けている理由は? 大学プロデューサーズ・ノート 2009年4月17日