ベルトクイズQ&Q
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『ベルトクイズQ&Q』(ベルトクイズ キューアンドキュー)は、1969年6月30日から1980年2月29日までTBS系列局で放送されていたクイズ番組である。制作担当はTBSだったが、最初の年の水曜日放送分のみ朝日放送(ABC)が制作を担当していた。
目次
概要
平日正午から生放送されていたクイズ番組。タイトルは、毎日放送されるベルト番組(帯番組)であることから名付けられた。
クイズは、勝ち抜き早押しクイズによる「1:1方式」と、高額賞金をかけた「ミリオンステージ」の2本立てであった。番組開始当初はまだ公正取引委員会による賞金制限が存在しなかったため、最高賞金は270万円(当時のラッキージャンプ全問正解の場合)だったが、ルール改正で100万円になった。
音楽は宇野誠一郎が担当。
7月中旬から8月末までは「夏休み子供大会」、12月下旬から1月上旬までは「冬休み子供大会」が設定され、小中学生の出場があった。それぞれの大会で、休みの終わり(新学期の始まり)に伴い、子供大会は終了になったが、後にルールが変わり、次回の子供大会にも引き続き出場ができた。この子供大会は、後番組『スーパーダイスQ』でも実施された(このときは「中学生大会」「大学生大会」なるものもあった)。
放送時間
いずれも日本標準時。
- 月曜 - 金曜 12:00 - 12:40 (1969年6月 - 1975年9月)
- 月曜 - 金曜 12:00 - 12:25 (1975年9月 - 1978年9月) - 『シャボン玉こんにちは』放送のため、放送枠が15分縮小。
- 月曜 - 金曜 12:00 - 12:20 (1978年10月 - 1980年2月)
出演者
- スタート当初の司会は当時、映画解説やラジオの深夜放送の司会で頭角を現していた増田貴光が担当したが、1971年7月末に同番組収録中に体調不良を訴えて突然降板。その後、しばらくは当時のアシスタントであった円木紀久美が単独で進行を担当したのち、同年9月より2代目司会者として椎名勝己、そして翌1972年5月より押阪忍が司会を担当した。
- 出題は『クイズタイムショック』(NET…現・テレビ朝日)の出題者でもあった矢島正明が一貫して担当。なお、押阪時代末期に限ってオープニングの挨拶で顔出ししている。矢島がレギュラー番組で顔出しするのは、1969年から1972年までNHK総合テレビで放送された子供向けクイズ番組『チャンスだピンチだ』に次いで2つ目(しかもこの番組は、初代司会の増田貴光が司会を担当していた)。
- ミリオンステージ前の「コンピューター性格診断」のコンピューターの声は、井上瑤が担当。
- アシスタントは、増田→椎名司会時代は前述の円木、押阪司会時代前期は岸ユキが担当した。なお、押阪時代後期(1977年4月以降)はアシスタントを置かなかった。
前期ルール
1:1方式
- 出場者は赤と白の解答席に別れ対戦、挑戦者は持ち点30点からスタート、持ち点の範囲内(10点単位)で点数を賭け、早押しで解答権を得て問題に正解すればその賭け点分の得点が加算され、不正解や答えられなかった場合は賭け点分が没収。5問目と7問目(後に3問目と5問目に変わる)の「チャンスタイム」は賭け点2倍獲得のチャンスがある(初期は映像からヒントが出る問題だったが、後期は従来通り読み上げ問題になっている)。7問(後に5問)終了時点の持ち点の多い解答者(若しくは相手の解答者が0点になった場合)が勝ち抜きとなる。勝ち抜いた時、ミリオンステージ挑戦のボーダーラインが10点免除される(3人勝ち抜きなら30点免除、クイズの獲得点数が70点で、ミリオンステージへ)。
- 勝ち抜いた解答者の持ち点は、前の回の持ち点を引き継ぐ。
- 5人勝ち抜き、若しくは100点獲得の段階でミリオンステージの挑戦権を得る(初期には、コンピューター性格診断直後に出される1問だけの2択のコンピュータークイズに正解しないと挑戦できなかった)。
- 前期末期で3人勝ち抜き時点で、ミリオンステージ挑戦権を獲得できない場合失格となり、お帰りとなった。
- 勝ち抜き賞金は当初5千円、後に1万円(子供大会の場合は「勝ち抜き賞」となり、それぞれの賞品を好きなものから一つ選ぶ)。
- 放送時間がいっぱいになった時は、翌日に持ち越しとなり、続きから対戦、またはミリオンステージからスタートする。なお後期も同様だが、鳩時計の音が鳴った。
ミリオンステージ
- ミリオンステージでは3問のクイズに挑戦し、解答者は100万円からスタートし不正解の度に減額された。全問正解で100万円、1問不正解で30万円、2問不正解、全問不正解で2.5万円だった(初期では「ラッキージャンプ」と呼び、30万円の問題、90万円の問題、270万円の問題の3問が順次出題され、途中不正解になると打ち切りになった)。
- 押阪時代になってからは、段階的に(10万円単位で)賞金を増額させ、最終的に3問正解で100万円に挑戦する。前期の第2期は10万円→30万円→100万円の3段階。それ以前(第1期)はいきなり100万円コースに挑戦も可能だった(解答者が10万円から100万円まで10万円単位で任意の金額を指定する)。不正解だと前の賞金が半減された。一問目に不正解となってしまうと挑戦している賞金の額にかかわらず、2万5千円(前期の第2・3・4期は3万円)しか受け取れない。
- さらに押阪時代前期の第3期は、10万円・30万円・100万円各コースから選び、その1回だけで終わる「一発勝負」(どのコースでも不正解なら3万円獲得)、第4期は10万円コースを廃止して30万円→100万円コースで行う「2回勝負」と、頻繁にルールが変わった。
- 問題は、押阪時代前期の第1期はどのコースでも1~10の中から選んだ。前期の第2・3・4期は、10万円コースは前と同じく1~10から選び、30万円コースと100万円コースは、8つのジャンル(「スポーツ」「芸能」など)から1つ選ぶ方式だった。
- 100万円を賭けた問題(ラッキージャンプは270万円の問題)は超難問で、複数の答えを言わなければならなかった。
- 押阪時代前期の第1期、1週間だけ芸能人大会が行われた時は、30万円・60万円・100万円の3コースに制限された。それ以外は通常と同じ。
- ラッキージャンプと押阪時代は、最低1問正解した人は、リタイヤする事(フジテレビ『クイズ$ミリオネア』の「ドロップアウト」と同じ)も可能。
- 子供大会のミリオンステージの場合は賞金ではなく、天体望遠鏡・ラテカセ(ラジカセにテレビ機能を付加した製品で、当時の子供達の憧れであった)・スポーツ用品等の中から好きな物を一点解答者に選ばせ(いわゆる「ミリオン賞」)、一問を一発勝負させる形式であった。なお、末期の子供大会はミリオンステージを達成すると、チャンピオン大会に進出して、ハワイ旅行を目指す形式があった。
- ミリオンステージ挑戦者は、問題出題前に、コンピューターの「性格診断」を受ける事となっていた。「はい」「いいえ」形式でコンピューターから出される問いに5問答え、終わった時点でコンピューターが挑戦者の性格を診断し、延々と読み上げ、そのユニークな分析ぶりが常にギャラリーの笑いを誘っていた。なお、このコーナーは放送時間短縮時に廃止されている。
- ミリオンステージ挑戦者(100万円獲得者も)と、「宿題クイズ」(視聴者プレゼント)には、「Q兵衛」という番組マスコットである馬のぬいぐるみがプレゼントされた。尚、のちに「Q兵衛」のぬいぐるみには「チビQ」という小型サイズの物も存在し、番組参加賞や視聴者プレゼントとして使用された(但し、100万円獲得時、当初は小規模のトロフィーが授与された)。
後期ルール
1:1方式
解答者は双方ともに40点からスタートし、持ち点の範囲内(10点単位)で点数を賭け、クイズに挑戦。早押しで解答権を得て、問題に正解すれば賭け点分の得点が加算されるが、正解した相手側、並びに両者不正解や無解答の場合は賭け点没収となる。また4問目からはチャンスクイズで賭け点2倍。解答者が100点を突破、若しくは相手側が0点になったところでゲーム終了でこの時点で1万円獲得。
ボーナスチャンス
- 大きく「安全コース」と「危険コース」の2つのクイズがあり、そのどちらかに挑戦する。
- 安全コース 2者択一問題を7問出題。1問正解で1万円、以下6問まで1万円ずつ加算し、7問全問正解なら10万円。
- 危険コース これは一発勝負によるクイズで、ヒントを最大4つまで聞くことが出来る。そこで判った段階でボタンを押して答えを出し、第1ヒント正解で30万円、以下10万円、3万円、最終ヒントは1万円と減額される。不正解だと賞金0円。
- ボーナスチャンス終了後は再び1:1方式に戻り、100万円を獲得するか、新チャンピオンに負かされるまで繰り返し対戦できるというルールだった。なお、この後期ルールはのちに『桂三枝の連続クイズ』で使われることとなる。
最末期の子供大会の得点形式
最末期の子供大会(1979年の冬休みのみ実施)は賞金ではなく、得点を積み重ねての形式で、得点上位が大晦日に放送のチャンピオン大会に進出し、ハワイ旅行を目指していた。
- クイズで勝った時の得点加算はなし。
- 安全コース 1問正解で5点、以下6問まで5点ずつ加算し、7問全問正解なら50点。
- 危険コース 第1ヒント正解で70点、以下30点、20点、10点と減点され、不正解だと0点。
- 100点を獲得したところでチャンピオン大会への出場権を得て終了。100点到達前に敗退した中からも得点上位者がチャンピオン大会に進出。
備考
- 『時間ですよ』(TBS系)の第77話(1973年5月2日放送)で、大前田小百合(初代・悠木千帆→樹木希林)が当番組に出場するシーンがあった(初戦敗退)。
- 漫画家・さくらももこの祖父、友蔵がこの番組に出場したことがあり、このエピソードは、アニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系列)の「おじいちゃんベルトクイズに出る」(1991年5月19日放送)の話にも描かれている。同アニメでは押阪本人が声の出演で特別出演、出題者の声は矢島正明では無く、境鶴丸(フジテレビアナウンサー)が担当した。エンディングのクレジットにも「協力:東京放送」と表示された。なおこのアニメは、2012年9月5日の『タカトシの時間ですよ!』(TBS)でも放送された[1]。
- 海援隊でメジャーデビューした後の武田鉄矢が出場記念品のぬいぐるみを娘からねだられ、一般回答者として出場した事がある[2]。
- 押阪はこの番組が終了した31日後からフジテレビジョンで放送された『日本全国ひる休み』の司会を担当。こちらと同じ時間帯であったため当時話題になったという。
ネット局
※系列は放送終了時点のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 東京放送 | TBS系列 | 制作局 初年度は月 - 火・木 - 金曜の制作局 現・TBSテレビ |
北海道 | 北海道放送 | ||
青森県 | 青森テレビ | 1975年3月31日から | |
岩手県 | 岩手放送 | 現・IBC岩手放送 | |
宮城県 | 東北放送 | ||
福島県 | 福島テレビ | TBS系列 フジテレビ系列 |
|
山梨県 | テレビ山梨 | TBS系列 | 1970年4月開局から |
新潟県 | 新潟放送 | ||
長野県 | 信越放送 | ||
静岡県 | 静岡放送 | ||
石川県 | 北陸放送 | ||
中京広域圏 | 中部日本放送 | 現・CBCテレビ | |
近畿広域圏 | 朝日放送 | 初年度の水曜制作局 1975年3月28日まで | |
毎日放送 | 1975年3月31日から、腸捻転解消に伴う移行 | ||
島根県 →鳥取県・島根県 |
山陰放送 | 1972年9月21日までの放送エリアは島根県のみ 1972年9月22日より鳥取・島根の電波相互乗り入れで鳥取県でも放送 | |
岡山県 | 山陽放送 | 当時の放送エリアは岡山県のみ | |
広島県 | 中国放送 | ||
山口県 | テレビ山口 | TBS系列 フジテレビ系列 |
1979年4月2日から |
高知県 | 高知放送 | 日本テレビ系列 | 1970年3月まで |
テレビ高知 | TBS系列 | 1970年4月開局から | |
福岡県 | RKB毎日放送 | ||
長崎県 | 長崎放送 | ||
熊本県 | 熊本放送 | ||
大分県 | 大分放送 | ||
宮崎県 | 宮崎放送 | ||
鹿児島県 | 南日本放送 | ||
沖縄県 | 琉球放送 |
関連項目
脚注
外部リンク
- 早押しクイズへの対抗法(2008年3月12日時点のアーカイブ) - 北川宣浩「テレビクイズ大研究」のサイト。ここに同番組の記述あり。
- ↑ 価格.com「タカトシの時間ですよ!」 2012年9月5日(水)放送内容
- ↑ 週刊女性(主婦と生活社)2011年11月8日発売号「プレーバック 懐かしクイズ番組」特集より。