摂政・関白の一覧

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日本の摂政および関白摂関)の一覧。

なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。

上古代

日本書紀』によれば、神功皇后が夫・仲哀天皇の崩後、皇太后として幼少の誉田別皇子(後の応神天皇)の代わりに「摂政」したというが、皇太后の執政は摂政というよりも称制に基づくものと考えられるし、また皇后の実在性の問題も含めて一般には史実と考えられていない。従って、神功皇后は摂政の例に数えない。

飛鳥時代の摂政

7世紀には有力な王位継承候補者が国政に預かる慣行があり、これは厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政として国政を代行したのを始めとする。他に、中大兄皇子斉明天皇の摂政、草壁皇子天武天皇の摂政と解釈する説もある。この時代の摂政を平安時代以降の人臣摂政と区別して、皇親摂政と呼ぶことがある。

摂政 補任 解任
*印は死没による解任)
在職時の天皇
厩戸皇子
(聖徳太子)
推古天皇元年4月10日
593年5月15日
推古天皇30年2月22日*
622年4月8日
推古
中大兄皇子[1] 斉明天皇元年1月3日
655年2月14日
斉明天皇7年7月24日
661年8月24日
斉明
草壁皇子[2] 天武天皇10年2月25日
681年3月19日
朱鳥元年9月9日
686年10月1日
天武

平安時代の摂関

藤原良房が人臣(皇族以外の者)として初めて摂政に任じられ(人臣摂政)、良房の甥で養子の藤原基経が最初の関白となって以来、摂政および関白の職は基経の子孫である藤原北家嫡流によって世襲された。この家系はやがて摂家と呼ばれるようになる。摂関の職は初め、職事官である大臣と兼務する官職であると考えられていたが、藤原兼家右大臣を辞任した後も摂政に留まって以来、摂関は正官のごとく見なされ、前大臣(大臣経験者)で摂関に補任される者も現れるようになった。

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
藤原良房   貞観8年8月19日[3]
866年10月1日
貞観14年9月2日*
872年10月7日
清和
藤原基経   貞観18年11月29日[4]
876年12月18日
元慶8年2月4日
884年3月4日
陽成
  藤原基経 仁和3年11月21日[5]
887年12月9日
寛平2年12月14日
891年1月27日
宇多
藤原忠平   延長8年9月22日
930年10月16日
天慶4年11月8日
941年11月29日
朱雀
  藤原忠平 天慶4年11月8日
(941年11月29日)
天暦3年8月14日*
949年9月9日
朱雀、村上
  藤原実頼 康保4年6月22日
967年7月31日
安和2年8月13日
969年9月27日
冷泉
藤原実頼   安和2年8月13日
(969年9月27日)
天禄元年5月18日
970年6月24日
円融
藤原伊尹   天禄元年5月20日
(970年6月26日
天禄3年10月23日
972年12月1日
円融
  藤原兼通 天延2年3月26日
974年4月21日
貞元2年10月11日
977年11月24日
円融
  藤原頼忠 貞元2年10月11日
(977年11月24日)
寛和2年6月23日
986年8月1日
円融、花山
藤原兼家   寛和2年6月24日
(986年8月2日
永祚2年5月5日
990年5月31日
一条
  藤原兼家 永祚2年5月5日
(990年5月31日)
永祚2年5月8日
(990年6月3日
一条
  藤原道隆 永祚2年5月8日
(990年6月3日)
永祚2年5月26日
(990年6月21日
一条
藤原道隆   永祚2年5月26日
(990年6月21日)
正暦4年4月22日
993年5月16日
一条
  藤原道隆 正暦4年4月22日
(993年5月16日)
長徳元年4月3日
995年5月5日
一条
  藤原道兼 長徳元年4月27日
(995年5月29日
長徳元年5月8日*
(995年6月8日
一条
藤原道長   長和5年1月29日
1016年3月10日
長和6年3月16日
1017年4月15日
後一条
藤原頼通   長和6年3月16日
(1017年4月15日)
寛仁3年12月22日
1020年1月19日
後一条
  藤原頼通 寛仁3年12月22日
(1020年1月19日)
治暦3年12月5日
1068年1月12日
後一条、後朱雀後冷泉
  藤原教通 治暦4年4月17日
(1068年5月20日
承保2年9月25日*
1075年11月6日
後冷泉、後三条白河
  藤原師実 承保2年10月15日
(1075年11月25日
応徳3年11月26日
1087年1月3日
白河
藤原師実   応徳3年11月26日
(1087年1月3日)
寛治4年12月20日
1091年1月12日
堀河
  藤原師実 寛治4年12月20日
(1091年1月12日)
寛治8年3月9日
1094年3月27日
堀河
  藤原師通 寛治8年3月9日
(1094年3月27日)
承徳3年6月28日
1099年7月18日
堀河
  藤原忠実 長治2年12月25日
1106年1月31日
嘉承2年7月19日
1107年8月9日
堀河
藤原忠実   嘉承2年7月19日
(1107年8月9日)
永久元年12月26日
1114年2月3日
鳥羽
  藤原忠実 永久元年12月26日
(1114年2月3日)
保安2年1月22日
1121年2月11日
鳥羽
  藤原忠通 保安2年3月5日
(1121年3月25日
保安4年1月28日
1123年2月25日
鳥羽
藤原忠通   保安4年1月28日
(1123年2月25日)
大治4年7月1日
1129年7月18日
崇徳
  藤原忠通 大治4年7月1日
(1129年7月18日)
永治元年12月7日
1142年1月5日
崇徳
藤原忠通   永治元年12月7日
(1142年1月5日)
久安6年12月9日
1150年12月29日
近衛
  藤原忠通 久安6年12月9日
(1150年12月29日)
保元3年8月11日
1158年9月5日
近衛、後白河
  近衛基実 保元3年8月11日[6]
(1158年9月5日)
永万元年6月25日
1165年8月3日
二条
近衛基実   永万元年6月25日
(1165年8月3日)
永万2年7月26日*
(1166年8月23日
六条
松殿基房   永万2年7月27日
(1166年8月24日
承安2年12月27日
1173年1月12日
六条、高倉
  松殿基房 承安2年12月27日
(1173年1月12日)
治承3年11月15日
1179年12月15日
高倉
  近衛基通 治承3年11月15日
(1179年12月15日)
治承4年2月21日
1180年3月18日
高倉
近衛基通   治承4年2月21日
(1180年3月18日)
寿永2年11月21日
1184年1月5日
安徳後鳥羽
松殿師家   寿永2年11月21日
(1184年1月5日)
寿永3年1月22日
(1184年3月6日
後鳥羽
近衛基通   寿永3年1月22日
(1184年3月6日)
文治2年3月12日
1186年4月3日
後鳥羽
九条兼実   文治2年3月12日
(1186年4月3日)
建久2年12月17日
1192年1月3日
後鳥羽

中近世

平安時代中期以降、摂政・関白は常設の官となり、安土桃山時代豊臣氏関白2名を除いて、藤原道長の子孫(御堂流)によって独占的に世襲された。御堂流は鎌倉時代初期に近衛家九条家の2家に分かれ、さらに中頃に近衛家から鷹司家、九条家から二条家一条家が分立するが、これらの5家系を五摂家と呼び、代々そのうち官位の最も高い者が摂政か関白に任じられるのを慣例とした。以後の摂関は、天皇親政が標榜された建武政権期(1333年 - 1336年)と南朝初期(1337年 - 1352年)、豊臣政権末期(1595年 - 1600年)などの若干の中断を除き、慶応3年12月9日1868年1月3日)の王政復古に伴って摂関職が廃止されるまで常置されることとなる。

鎌倉時代の摂関

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  九条兼実 建久2年12月17日
1192年1月3日
建久7年11月25日
1196年12月16日
後鳥羽
  近衛基通 建久7年11月25日
(1196年12月16日)
建久9年1月11日
1198年2月18日
後鳥羽
近衛基通   建久9年1月11日
(1198年2月18日)
建仁2年12月25日
1203年2月8日
土御門
九条良経   建仁2年12月25日
(1203年2月8日)
元久3年3月7日*
1206年4月16日
土御門
近衛家実   元久3年3月10日
(1206年4月19日
建永元年12月8日
1207年1月7日
土御門
  近衛家実 建永元年12月8日
(1207年1月7日)
承久3年4月20日
1221年5月13日
土御門、順徳
九条道家   承久3年4月20日
(1221年5月13日)
承久3年7月8日
(1221年7月28日
仲恭
近衛家実   承久3年7月8日
(1221年7月28日)
貞応2年12月14日
1224年1月6日
後堀河
  近衛家実 貞応2年12月14日
(1224年1月6日)
安貞2年12月24日
1229年1月20日
後堀河
  九条道家 安貞2年12月24日
(1229年1月20日)
寛喜3年7月5日
1231年8月4日
後堀河
  九条教実 寛喜3年7月5日
(1231年8月4日)
貞永元年10月4日
1232年11月17日
後堀河
九条教実   貞永元年10月4日
(1232年11月17日)
文暦2年3月28日*
1235年4月17日
四条
九条道家   文暦2年3月28日
(1235年4月17日)
嘉禎3年3月10日
1237年4月6日
四条
近衛兼経   嘉禎3年3月10日
(1237年4月6日)
仁治3年1月9日
1242年2月10日
四条
  近衛兼経 仁治3年1月20日
(1242年2月21日
仁治3年3月25日
(1242年4月26日
後嵯峨
  二条良実 仁治3年3月25日
(1242年4月26日)
寛元4年1月28日
1246年2月15日
後嵯峨
  一条実経 寛元4年1月28日
(1246年2月15日)
寛元4年1月29日
(1246年2月16日
後嵯峨
一条実経   寛元4年1月29日
(1246年2月16日)
寛元5年1月19日
1247年2月25日
後深草
近衛兼経   寛元5年1月19日
(1247年2月25日)
建長4年10月3日
1252年11月6日
後深草
鷹司兼平   建長4年10月3日
(1252年11月6日)
建長6年12月2日
1255年1月11日
後深草
  鷹司兼平 建長6年12月2日
(1255年1月11日)
弘長元年4月29日
1261年5月29日
後深草、亀山
  二条良実 弘長元年4月29日
(1261年5月29日)
文永2年閏4月18日
1265年6月3日
亀山
  一条実経 文永2年閏4月18日
(1265年6月3日)
文永4年12月9日
1267年12月25日
亀山
  近衛基平 文永4年12月9日
(1267年12月25日)
文永5年11月19日*
1268年12月24日
亀山
  鷹司基忠 文永5年12月10日
1269年1月13日
文永10年5月5日
1273年5月22日
亀山
  九条忠家 文永10年5月5日
(1273年5月22日)
文永11年1月26日
1274年3月6日
亀山
九条忠家   文永11年1月26日
(1274年3月6日)
文永11年6月20日
(1274年7月24日
後宇多
一条家経   文永11年6月20日
(1274年7月24日)
建治元年10月21日
1275年11月10日
後宇多
鷹司兼平   建治元年10月21日
(1275年11月10日)
弘安元年12月7日
1279年1月20日
後宇多
  鷹司兼平 弘安元年12月7日
(1279年1月20日)
弘安10年8月11日
1287年9月19日
後宇多
  二条師忠 弘安10年8月11日
(1287年9月19日)
正応2年4月13日
1289年5月4日
後宇多、伏見
  近衛家基 正応2年4月13日
(1289年5月4日)
正応4年5月27日
1291年6月24日
伏見
  九条忠教 正応4年5月27日
(1291年6月24日)
正応6年2月25日
1293年4月3日
伏見
  近衛家基 正応6年2月25日
(1293年4月3日)
永仁4年6月19日*
1296年7月20日
伏見
  鷹司兼忠 永仁4年7月24日
(1296年8月24日
永仁6年7月22日
1298年8月30日
伏見
鷹司兼忠   永仁6年7月22日
(1298年8月30日)
永仁6年12月20日
1299年1月23日
後伏見
二条兼基   永仁6年12月20日
(1299年1月23日)
正安2年12月16日
1301年1月26日
後伏見
  二条兼基 正安2年12月16日
(1301年1月26日)
嘉元3年4月12日
1305年5月6日
後伏見、後二条
  九条師教 嘉元3年4月12日
(1305年5月6日)
徳治3年8月25日
1308年9月10日
後二条
九条師教   徳治3年8月26日
(1308年9月11日
延慶元年11月10日
(1308年12月22日
花園
鷹司冬平   延慶元年11月10日
(1308年12月22日)
延慶4年3月15日
1311年4月4日
花園
  鷹司冬平 延慶4年3月15日
(1311年4月4日)
正和2年7月12日
1313年8月4日
花園
  近衛家平 正和2年7月12日
(1313年8月4日)
正和4年9月21日
1315年10月19日
花園
  鷹司冬平 正和4年9月22日
(1315年10月20日
正和5年8月23日
1316年9月10日
花園
  二条道平 正和5年8月23日
(1316年9月10日)
文保2年12月29日
1319年1月21日
花園、後醍醐
  一条内経 文保2年12月29日
(1319年1月21日)
元亨3年3月29日
1323年5月4日
後醍醐
  九条房実 元亨3年3月29日
(1323年5月4日)
正中元年12月27日
1325年1月12日
後醍醐
  鷹司冬平 正中元年12月27日
(1325年1月12日)
嘉暦2年1月19日*
1327年2月11日
後醍醐
  二条道平 嘉暦2年2月12日
(1327年3月6日
元徳2年1月26日
1330年2月14日
後醍醐
  近衛経忠 元徳2年1月26日
(1330年2月14日)
元徳2年8月25日
(1330年10月7日
後醍醐
  鷹司冬教 元徳2年8月25日
(1330年10月7日)
正慶2年5月17日
1333年6月29日
後醍醐、光厳

南北朝時代の摂関

南朝(吉野朝廷)

補任記録が残されておらず[7]、不明な点が多いが、根本史料に基づいて復元を試みると、およそ以下のとおりになるという[8]

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  二条師基 正平6年12月28日
1352年1月15日
正平9年?
1354年?)
後村上
  近衛経家 正平9年?
(1354年?)
正平11年2月以前
1356年3月以前)
後村上
  二条教基 正平11年2月以前
(1356年3月以前)
(年月日不明) 後村上
  (近衛経家[9] (年月日不明) 正平16年12月以前
1361年12月以前)
後村上
  二条教基 正平16年12月以前
(1361年12月以前)
(年月日不明) 後村上
  二条教頼 ? - 天授元年 - 弘和元年 - ?
( ? - 1375年 - 1381年 - ? )
長慶
  二条長
二条冬実か)
? - 元中元年 - ?
( ? - 1384年 - ? )
後亀山
  近衛某 (年月日不明) 元中9年閏10月5日
1392年11月19日
後亀山

北朝(京都朝廷)

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  近衛経忠 建武3年8月15日
1336年9月20日
建武4年4月6日
1337年5月6日
光明
  近衛基嗣 建武4年4月16日
(1337年5月16日
建武5年5月19日
1338年6月7日
光明
  一条経通 建武5年5月19日
(1338年6月7日)
暦応5年1月26日
1342年3月3日
光明
  九条道教 暦応5年1月27日
(1342年3月4日
康永元年11月12日
(1342年12月10日
光明
  鷹司師平 康永元年11月18日
(1342年12月16日
貞和2年2月29日
1346年3月22日
光明
  二条良基[10] 貞和2年2月29日
(1346年3月22日)
延文3年12月29日
1359年1月28日
光明、崇光後光厳
  九条経教 延文3年12月29日
(1359年1月28日)
康安元年11月9日
1361年12月6日
後光厳
  近衛道嗣 康安元年11月9日
(1361年12月6日)
貞治2年6月16日
1363年7月27日
後光厳
  二条良基 貞治2年6月27日
(1363年8月7日
貞治6年8月27日
1367年9月21日
後光厳
  鷹司冬通 貞治6年8月27日
(1367年9月21日)
応安2年11月4日
1369年12月3日
後光厳
  二条師良 応安2年11月4日
(1369年12月3日)
永和元年12月27日
1376年1月18日
後光厳、後円融
  九条忠基 永和元年12月27日
(1376年1月18日)
康暦元年8月22日
1379年10月3日
後円融
  二条師嗣 康暦元年8月25日
(1379年10月6日
永徳2年4月11日
1382年5月24日
後円融
二条良基   永徳2年4月11日
(1382年5月24日)
至徳4年2月7日
1387年2月25日
後小松
近衛兼嗣   至徳4年2月7日
(1387年2月25日)
嘉慶2年3月26日*
1388年5月2日
後小松
二条良基   嘉慶2年4月8日
(1388年5月14日
嘉慶2年6月12日
(1388年7月15日
後小松
  (二条良基[11] 嘉慶2年6月12日
(1388年7月15日)
後小松
  二条師嗣 嘉慶2年6月12日
(1388年7月15日)
応永元年11月6日
1394年11月29日
後小松

室町時代の摂関

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  一条経嗣 応永元年11月6日
1394年11月29日
応永5年3月9日
1398年3月27日
後小松
  二条師嗣 応永5年3月9日
(1398年3月27日)
応永6年4月17日
1399年5月22日
後小松
  一条経嗣 応永6年4月19日
(1399年5月24日
応永15年4月20日
1408年5月15日
後小松
  近衛忠嗣 応永15年4月20日
(1408年5月15日)
応永16年2月21日
1409年3月7日
後小松
  二条満基 応永16年3月4日
(1409年3月20日
応永17年12月27日*
1411年1月21日
後小松
  一条経嗣 応永17年12月30日
(1411年1月24日
応永25年11月17日*
1418年12月14日
後小松、称光
  九条満教 応永25年12月2日
(1418年12月29日
応永31年4月20日
1424年5月18日
称光
  二条持基 応永31年4月20日
(1424年5月18日)
正長元年7月20日
1428年8月30日
称光
二条持基   正長元年7月28日
(1428年9月7日
永享4年8月13日
1432年9月7日
後花園
一条兼良   永享4年8月13日
(1432年9月7日)
永享4年10月26日
(1432年11月18日
後花園
二条持基   永享4年10月26日
(1432年11月18日
永享5年3月23日
1433年4月13日
後花園
  二条持基 永享5年3月23日
(1433年4月13日)
文安2年11月3日*
1445年12月1日
後花園
  近衛房嗣 文安2年11月23日
(1445年12月21日
文安4年6月15日
1447年7月27日
後花園
  一条兼良 文安4年6月15日
(1447年7月27日)
享徳2年4月28日
1453年6月5日
後花園
  二条持通 享徳2年4月28日
(1453年6月5日)
享徳3年6月30日
1454年7月25日
後花園
  鷹司房平 享徳3年7月1日
(1454年7月26日
享徳4年6月2日
1455年7月16日
後花園
  二条持通 享徳4年6月5日
(1455年7月19日
長禄2年12月[12]
1459年1月
後花園
  一条教房 長禄2年12月5日
(1459年1月9日
寛正4年4月
1463年4月
後花園
  二条持通 寛正4年4月3日
(1463年4月21日
応仁元年5月10日
1467年6月11日
後花園、後土御門
  一条兼良 応仁元年5月10日
(1467年6月11日)
文明2年7月19日
1470年8月15日
後土御門
  二条政嗣 文明2年8月10日
(1470年9月5日
文明8年5月13日
1476年6月4日
後土御門
  九条政基 文明8年5月15日
(1476年6月6日
文明11年2月27日
1479年3月20日
後土御門
  近衛政家 文明11年2月30日
(1479年3月23日
文明15年2月24日
1483年4月1日
後土御門
  鷹司政平 文明15年2月25日
(1483年4月2日
文明19年2月9日
1487年3月4日
後土御門
  九条政忠 文明19年2月9日
(1487年3月4日)
長享2年8月23日*
1488年9月28日
後土御門
  一条冬良 長享2年8月28日
(1488年10月3日
明応2年3月28日
1493年4月14日
後土御門
  近衛尚通 明応2年3月28日
(1493年4月14日)
明応6年6月7日
1497年7月6日
後土御門
  二条尚基 明応6年6月18日
(1497年7月17日
明応6年10月10日*
(1497年11月4日
後土御門
  一条冬良 明応6年10月23日
(1497年11月17日
文亀元年6月27日
1501年7月12日
後土御門、後柏原
  九条尚経 文亀元年6月29日
(1501年7月14日
永正10年10月5日
1513年11月2日
後柏原
  近衛尚通 永正10年10月7日
(1513年11月4日
永正11年8月24日
1514年9月12日
後柏原
  鷹司兼輔 永正11年8月29日
(1514年9月17日
永正15年3月27日
1518年5月6日
後柏原
  二条尹房 永正15年3月30日
(1518年5月9日
大永5年4月4日
1525年4月26日
後柏原
  近衛稙家 大永5年4月5日
(1525年4月27日
天文2年2月5日
1533年2月28日
後柏原、後奈良
  九条稙通 天文2年2月5日
(1533年2月28日)
天文3年11月21日
1534年12月26日
後奈良
  二条尹房 天文3年12月14日
1535年1月17日
天文5年閏10月21日
1536年12月4日
後奈良
  近衛稙家 天文5年11月1日
(1536年12月13日
天文11年2月25日
1542年3月11日
後奈良
  鷹司忠冬 天文11年3月26日
(1542年4月11日
天文14年6月2日
1545年7月10日
後奈良
  一条房通 天文14年6月2日
(1545年7月10日)
天文17年12月27日
1549年1月25日
後奈良
  二条晴良 天文17年12月27日
(1549年1月25日)
天文22年1月20日
1553年2月2日
後奈良
  一条兼冬 天文22年1月22日
(1553年2月4日
天文23年2月1日*
1554年3月4日
後奈良
  近衛前久 天文23年3月2日
(1554年4月3日
永禄11年11月[13]
1568年-月)
後奈良、正親町

安土桃山時代の摂関

藤原氏以外の出身者で関白となったのは、豊臣秀吉秀次の2人だけである(ただし、秀吉は近衛前久猶子として補任)。

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  二条晴良 永禄11年12月16日
1569年1月3日
天正6年4月4日
1578年5月10日
正親町
  九条兼孝 天正6年12月13日
1579年1月10日
天正9年4月29日
1581年5月31日
正親町
  一条内基 天正9年4月29日
(1581年5月31日)
天正12年12月
1585年1月
正親町
  二条昭実 天正13年2月12日
(1585年3月13日
天正13年7月11日
(1585年8月6日
正親町
  豊臣秀吉 天正13年7月11日
(1585年8月6日)
天正19年12月27日
1592年2月10日
正親町、後陽成
  豊臣秀次 天正19年12月27日
(1592年2月10日)
文禄4年7月8日
1595年8月13日
後陽成

江戸時代の摂関

江戸幕府の制定した禁中並公家諸法度の規定に従い、摂政・関白は幕府の推薦がなくては補任されない仕組みとなった。

摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
  九条兼孝 慶長5年12月19日
1601年1月23日
慶長9年11月10日
1604年12月30日
後陽成
  近衛信尹 慶長10年7月23日
1605年9月6日
慶長11年11月11日
1606年12月10日
後陽成
  鷹司信房 慶長11年11月11日
(1606年12月10日)
慶長13年12月26日
1609年1月31日
後陽成
  九条忠栄 慶長13年12月26日
(1609年1月31日)
慶長17年7月25日
1612年8月21日
後陽成、後水尾
  鷹司信尚 慶長17年7月25日
(1612年8月21日)
元和元年7月27日
1615年9月19日
後水尾
  二条昭実 元和元年7月28日
(1615年9月20日
元和5年7月14日
1619年8月23日
後水尾
  九条忠栄 元和5年9月14日
(1619年10月21日
元和9年閏8月16日
1623年10月10日
後水尾
  近衛信尋 元和9年閏8月16日
(1623年10月10日)
寛永6年8月1日
1629年9月17日
後水尾
  一条兼遐 寛永6年8月28日
(1629年10月14日
寛永6年11月8日
(1629年12月22日
後水尾
一条兼遐
一条昭良
  寛永6年11月8日
(1629年12月22日)
寛永12年9月26日
1635年11月5日
明正
二条康道   寛永12年10月10日
(1635年11月19日
正保4年1月3日
1647年2月7日
明正、後光明
九条道房   正保4年1月5日
(1647年2月9日
正保4年1月10日
(1647年2月14日
後光明
一条昭良   正保4年3月28日
(1647年5月2日
正保4年7月27日[14]
(1647年8月27日
後光明
  一条昭良 正保4年7月27日[14]
(1647年8月27日)
慶安4年9月27日
1651年11月10日
後光明
  近衛尚嗣 慶安4年12月8日
1652年1月18日
承応2年7月17日
1653年9月8日
後光明
  二条光平 承応2年9月21日
(1653年11月11日
寛文3年1月26日
1663年3月5日
後光明、後西
二条光平   寛文3年1月26日
(1663年3月5日)
寛文4年9月17日
(1664年11月4日
霊元
鷹司房輔   寛文4年9月27日
(1664年11月14日
寛文8年3月16日
1668年4月27日
霊元
  鷹司房輔 寛文8年3月16日
(1668年4月27日)
天和2年2月18日
(1682年3月26日
霊元
  一条冬経 天和2年2月24日
(1682年4月1日
貞享4年3月21日
1687年5月2日
霊元
一条冬経   貞享4年3月21日
(1687年5月2日)
元禄2年3月27日
1689年5月16日
東山
  一条冬経 元禄2年3月27日
(1689年5月16日)
元禄3年1月13日
1690年2月21日
東山
  近衛基熙 元禄3年1月13日
(1690年2月21日)
元禄16年1月14日
1703年3月1日
東山
  鷹司兼熙 元禄16年1月14日
(1703年3月1日)
宝永4年11月27日
1707年12月20日
東山
  近衛家熙 宝永4年11月27日
(1707年12月20日)
宝永6年6月21日
1709年7月27日
東山
近衛家熙   宝永6年6月21日
(1709年7月27日)
正徳2年8月28日
1712年9月28日
中御門
九条輔実   正徳2年8月28日
(1712年9月28日)
享保元年11月1日
1716年12月14日
中御門
  九条輔実 享保元年11月1日
(1716年12月14日)
享保7年1月13日
1722年2月28日
中御門
  二条綱平 享保7年1月13日
(1722年2月28日)
享保11年6月1日
1726年6月30日
中御門
  近衛家久 享保11年6月1日
(1726年6月30日)
元文元年8月27日
1736年10月1日
中御門、桜町
  二条吉忠 元文元年8月27日
(1736年10月1日)
元文2年8月3日
1737年8月28日
桜町
  一条兼香 元文2年8月29日
(1737年9月23日
延享3年12月15日
1747年1月25日
桜町
  一条道香 延享3年12月15日
(1747年1月25日)
延享4年5月2日
(1747年6月9日
桜町
一条道香   延享4年5月2日
(1747年6月9日)
宝暦5年2月19日
1755年3月31日
桃園
  一条道香 宝暦5年2月19日
(1755年3月31日)
宝暦7年3月16日
1757年5月3日
桃園
  近衛内前 宝暦7年3月16日
(1757年5月3日)
宝暦12年7月12日
1762年8月31日
桃園
近衛内前   宝暦12年7月27日
(1762年9月15日
明和9年8月22日
1772年9月19日
後桜町後桃園
  近衛内前 明和9年8月22日
(1772年9月19日
安永7年2月8日
1778年3月6日
後桃園
  九条尚実 安永7年2月8日
(1778年3月6日)
安永8年10月29日
1779年12月6日
後桃園
九条尚実   安永8年11月25日
1780年1月1日
天明5年2月19日
1785年3月29日
光格
  九条尚実 天明5年2月19日
(1785年3月29日)
天明7年3月1日
1787年4月18日
光格
  鷹司輔平 天明7年3月1日
(1787年4月18日)
寛政3年8月20日
1791年9月17日
光格
  一条輝良 寛政3年8月20日
(1791年9月17日)
寛政7年10月14日
1795年11月25日
光格
  鷹司政熙 寛政7年11月16日
(1795年12月26日
文化11年9月16日
1814年10月28日
光格
  一条忠良 文化11年9月16日
(1814年10月28日)
文政6年3月19日
1823年4月29日
光格、仁孝
  鷹司政通 文政6年3月19日
(1823年4月29日)
安政3年8月8日
1856年9月6日
仁孝、孝明
  九条尚忠 安政3年8月8日
(1856年9月6日)
文久2年6月23日
1862年7月19日
孝明
  近衛忠熙 文久2年6月23日
(1862年7月19日)
文久3年1月23日
1863年3月12日
孝明
  鷹司輔熙 文久3年1月23日
(1863年3月12日)
文久3年12月23日
1864年1月31日
孝明
  二条斉敬 文久3年12月23日
(1864年1月31日)
慶応2年12月25日
1867年1月30日
孝明
二条斉敬   慶応3年1月9日
(1867年2月13日
慶応3年12月9日
1868年1月3日
明治

近現代

近代立憲君主制下で天皇に代わって大権を行使する皇族摂政旧皇室典範で定められた皇族摂政に就任したのは、大正天皇に対する皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の1人のみである(1921年 - 1926年)。当時は「摂政宮」(せっしょうのみや)と呼ばれた。なお、昭和22年(1947年)から施行された現皇室典範においても摂政の制度が定められているが、現在までに就任した皇族はおらず、天皇が一時的に執務を行えない場合は、皇太子などが国事行為臨時代行としてこれを代行している。

摂政 補任 解任 在職時の天皇
裕仁親王 大正10年(1921年11月25日 大正15年(1926年12月25日 大正

脚注

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関連項目

  • 藤氏家伝』上に「(斉明天皇)悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。
  • 日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。
  • 日本三代実録』同日条。『公卿補任』は天安2年11月7日858年12月15日)とするが、これは幼帝の時に摂政を必ず置くとする後世の観念に基づく説である。
  • 『日本三代実録』同日条。『公卿補任』は貞観14年11月29日873年1月1日)とするが、『三代実録』にはこの日に当該する記事がない。
  • 日本紀略』同日条。『公卿補任』は元慶4年11月8日880年12月13日)とするが、『三代実録』にはこの日に当該する記事がない。なお、元慶8年6月5日884年7月1日)に光孝天皇から基経に対して出された国政委任の詔を、事実上の関白宣下と見なす説がある(ただし、詔中に「関白」の語はなし)。
  • 実際に関白宣下が行われたのは、同年12月5日1158年12月27日)である。
  • 南朝公卿を年代順に記した『南朝公卿補任』と呼ばれる史料があるが、これは近世の偽書とするのが通説で、現在の研究ではほとんど顧みられていない。
    参考までに、『南朝公卿補任』が載せる南朝の摂関は以下のとおりである(同書は南朝三代説に従い、長慶天皇の在位を認めていない)。
    摂政 関白 補任 解任 在職時の天皇
      近衛経忠 延元4年8月15日
    1339年9月18日
    正平6年12月
    1352年1月
    後村上
      二条師基 正平6年12月28日
    (1352年1月15日
    正平11年2月2日
    1356年3月4日
    後村上
      二条教基 正平11年2月2日
    (1356年3月4日)
    正平20年1月
    1365年2月
    後村上
      近衛経家 正平20年1月
    (1365年2月)
    正平24年2月2日
    1369年3月10日
    後村上、後亀山
      二条冬実 正平24年2月2日
    (1369年3月10日)
    元中9年閏10月5日
    1392年11月19日
    後亀山
  • 谷森善臣 「南朝関白次第」(宮内庁書陵部蔵『南朝関係稿本』所収)、小木喬 「四人の関白」(『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年)。
  • 二条教基の関白在職の中断について、小木喬は一条内嗣によるものと推定するが、内嗣が関白の任にあったことを裏付ける史料は見出せない。
  • この在職中、正平一統によって北朝天皇が不在であった期間、すなわち崇光天皇が廃位された観応2年11月7日1351年11月26日)から後光厳天皇が践祚した正平7年/観応3年8月17日1352年9月25日)までの間は事実上停職しており、代わりに南朝の二条師基が関白の任にあった。
  • 嘉慶2年6月12日1388年7月15日)重篤の二条良基は摂政を辞して三度目の関白に任じられる。だが、良基は余命わずかであることを理由に、その日のうちに改めて実子師嗣へ関白を譲る意向を後小松天皇に申し出て認められた。なお、良基は翌13日に69歳で薨去している。
  • 続本朝通鑑』『歴朝要紀』は同年12月2日1459年1月6日)とする。
  • 諸家伝』は11月12日1568年11月30日)とし、東京大学史料編纂所蔵『近衛家譜』は11月16日1568年12月4日)とする。
  • 14.0 14.1 これは詔書上の日付である。実際は正保5年閏1月22日1648年3月16日)まで摂政の任にあり、同日に日付を遡らせて関白の詔が下された。