後西天皇
後西天皇(ごさいてんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応4年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。
系譜
後水尾天皇の第八皇子。母は典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)。従弟に仙台藩主(3代)伊達綱宗がいる。
- 女御:明子女王(1638-1680) - 高松宮好仁親王女
- 典侍:藤原(清閑寺)共子(?-1695) - 清閑寺共綱女
- 妃:源氏 - 岩倉具起女
- 第三皇子:永悟法親王(1659-1676)
- 妃:藤原氏(右京局) - 富小路頼直女
- 第五皇女:常宮(真珠院宮)(1661-1665)
- 妃:藤原(梅小路)定子 - 光源寺智秀女、梅小路定矩養女
- 妃:菅原氏(按察使局) - 高辻豊長女
- 第九皇子:道尊法親王(1676-1705)
- 妃:藤原(松木)条子 - 松木宗条女
- 第十皇子:槿栄院宮(1677、即日没)
系図
略歴
はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第二代を継承して花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と号した。即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎ[1]として、1654年(承応3年)11月28日に即位。
1663年(寛文3年)1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位。
もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[2]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説[3]・江戸幕府説[4]が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[5]。ところが、近年これに対して譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[6][7]。
在位中の元号
- 承応 (1654年9月20日)- 1655年4月13日
- 明暦 1655年4月13日 - 1658年7月23日
- 万治 1658年7月23日 - 1661年4月25日
- 寛文 1661年4月25日 - (1663年1月26日)
諡号・追号・異名
後西天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位し、その子孫を皇統に残すことができなかった。そのため、同じような道をたどった第53代淳和天皇の別名「西院天皇」の「西院」にちなみ、「後西院」と追号された。明治以後、天皇号の復活にともない「後西院天皇」と呼ばれたが、大正14年(1925年)院号が廃され「後西天皇」となった。ただし、「西院」をもって一つの語なのであるから、後西では意味が通じなくなるので、他の上皇の院号と同一視して院を除くのではなく、後西院天皇と称するべきであるとする歴史学者もいる[8]。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。公式形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
参考文献
関連項目
テンプレート:有栖川宮- ↑ 後西天皇が高貴宮が「天子御作法」(天皇として必要な儀式・政務の作法)が出来るようになるまでの中継ぎであるという認識は、後水尾法皇・江戸幕府間の共通認識であった(野村、2006年、P278-282)。
- ↑ 野村玄は『忠利宿禰記』について、その2日前(9月21日条)に武家伝奏勧修寺経広から吉良の派遣は天皇が将軍家綱に内々に譲位の件を申し入れたことに対する返答の使者であることを明言されたことを記載しており、最初に申し入れたのは天皇であると指摘する(野村、2006年、P276-277)。
- ↑ 辻達也『日本の近世 第2巻〈天皇と将軍〉』「公武融和」(中央公論社、1991年)などがこの説を採る。
- ↑ 三上参次『尊皇論発達史』(冨山房、1941年)などがこの説を採る。
- ↑ 滝沢武雄「伊達騒動新考」『史観』第75冊(1967年)所収・久保貴子『近世の朝廷運営 –朝幕関係の展開-』(岩田書院・1998年)などがこの説を採る。
- ↑ 野村玄『日本近世国家の確立と天皇』(清文堂出版、2006年)
- ↑ 野村は後西天皇の譲位と災害の関係について、万治4年1月15日の内裏火災以後、仮皇居暮らしにより儀式の多くが縮小・中止されて「天子御作法」が出来ない状況に追い込まれた後西天皇が、寛文3年の新内裏完成を直前に自ら譲位することで、天皇幼少による「天子御作法」の合法的な中断状態を生み出して、新天皇(霊元天皇)が成人するまでの間に新天皇が「天子御作法」が実現できる環境づくりを図ろうとしたと説く(野村、2006年、P282-288)
- ↑ 米田雄介 編『歴代天皇・年号事典』(吉川弘文館、2003年) ISBN 978-4642079228 「後西天皇」P314