花園天皇

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テンプレート:基礎情報 天皇

花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日1297年8月14日) - 正平3年11月11日1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日1308年12月28日)- 文保2年2月26日1318年3月29日))。富仁(とみひと)。

系譜

伏見天皇の第四皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、顕親門院・洞院季子持明院統

主な后妃、皇子女は以下の通りである。

系図

テンプレート:皇室鎌倉後期

略歴

延慶元年(1308年)11月、大覚寺統後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位。

文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。

在位期間の間、前半は父の伏見上皇が、後半は後伏見上皇院政を敷いた。

退位後は光厳天皇の養育を行い、元徳2年(1330年)2月、皇太子時代の光厳天皇を訓戒するために記述した『誡太子書』(宮内庁書陵部蔵)は、来るべき動乱の時代を予見した文章として名高い。また、禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月に円観について出家、法名を遍行という。宗峰妙超関山慧玄を師とし、興国3年(1342年)1月、仁和寺花園御所を寺に改めて妙心寺を開基。正平3年(1348年)11月、花園萩原殿にて崩御された。宝算52。

歌道や学問、書道に優れ、京極派の重要なメンバーの一人で、『風雅和歌集』の監修を行った。他にも『花園天皇宸記』(宮内庁書陵部に自筆原本あり)と言う日記を残し、読経念仏を欠かさなかったなど、文人肌で信心深かったと言われている。『誡太子書』と同じく、天皇が光厳天皇に向けて書いたとされる『学道之記』(宮内庁書陵部蔵)の冒頭部分で、「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためにある」と述べ、天皇にとって学問とは何たるかをよく示している。反対に、博学だけを吹聴したり、風月文章をもって旨とすることを「学者之弊」として戒める記述が『花園天皇宸記』に散見する。

諡号・追号・異名

仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と称された。崩後、遺勅によって花園院と追号。

在位中の元号

主な書作品

全て重要文化財

陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市東山区粟田口三条坊町にある十樂院上陵(十楽院上陵、じゅうらくいんのうえのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

崩御の2日後、現陵に葬られた。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

参考文献

  • 八代国治「長講堂領の研究」(『国史叢説』、吉川弘文館、1925年)
  • 鷲尾順敬 編『玉鳳煥采』(『藍山全集』第1巻 日本禅宗史の研究、教典出版、1945年)
  • 澤口泰憲 編『花園天皇の御芳躅』(妙心寺開基花園天皇六百年御聖諱記念大法会局、1945年)
  • 岩橋小弥太『花園天皇』(人物叢書、吉川弘文館 1962年、新装版1990年) ISBN 4642051872
  • 網野善彦「花園天皇」(永原慶二編『人物 日本の歴史』第4巻 鎌倉と京都、読売新聞社、1966年)
  • 岩佐美代子『京極派歌人の研究』(笠間書院、1974年)
  • 岩佐美代子『京極派和歌の研究』(笠間叢書212、笠間書院、1987年)
  • 村田正志 編『花園天皇遺芳』(楊岐寺、1995年) ISBN 4990104633
  • 橋本義彦「誠太子書の皇統観」(『平安の宮廷と貴族』、吉川弘文館、1996年) ISBN 4642074988
  • 岩佐美代子「『花園院宸記』」(『宮廷に生きる』、古典ライブラリー8、笠間書院、1997年) ISBN 4305600382
  • 坂口太郎・芳澤元「花園天皇関係史料・研究文献目録稿」(『花園大学国際禅学研究所論叢』第2号、2007年) 
  • 『[特別展覧会] 宸翰 天皇の書 --御手が織りなす至高の美--』(京都国立博物館編集・制作・発行、2012年)

関連項目

外部リンク

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