陽成天皇

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陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日869年1月2日) - 天暦3年9月29日949年10月23日)、在位:貞観18年11月29日876年12月18日) - 元慶8年2月4日884年3月4日))は第57代天皇貞明(さだあきら)。

系譜

第56代清和天皇の第一皇子。母は権中納言藤原長良〔ふじわらのながら〕の娘、女御藤原高子(二条后)。子に歌人として優れた源清蔭元良親王元平親王らがいる。元平親王は陽成源氏の祖であるが、のちに武家の棟梁となる清和源氏は実際は陽成源氏で、この元平親王を先祖とするが、後述するとおり陽成帝には暴君との評判があり、それを嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたのだとの説が近年提示されている[1]

系図

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略歴

生後3ヶ月足らずで立太子。9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。在位の初めは父上皇、母高子、摂政藤原基経(天皇の伯父)が協力して政務を見た。が、父清和上皇の死後、基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より、基経は出仕を拒否するようになる。清和天皇に二人の娘を入内させたのに続き、陽成天皇の元服に際し、さらに娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、母后の高子が拒否したためではないかというのが、近年の説[2]である。ただし、清和天皇の譲位の詔が基経の摂政を陽成天皇の親政開始までとしている以上、基経が元慶6年(882年)の天皇の元服を機に、親政への準備期間を経た後に摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論[3]もあるが、それ以前の元慶4年(880年)12月の清和上皇の臨終時の太政大臣任命にも、基経は、単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返した[4]うえ、さらに摂政でありながら、翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず(『日本三代実録』元慶5年2月9日条)、政局を混乱させている。なおこの期間中、天皇は清和上皇の遺志を汲み、基経を従一位に昇叙している(『日本三代実録』元慶5年1月15日条)。また、この一連の騒動の本質として基経と天皇の対立ではなく、「摂政」である基経と「国母」である妹・高子の間の権力争いであり、高子による在原文子(業平の姪・清和天皇の更衣)の重用を含めた彼女の基経を軽視する諸行動の結果、基経が自らの身内関係を放棄をしてでも高子・陽成母子を排除しようとしたとする見方もある[5]。しかし、参議在原行平の娘文子を更衣としその間に二人の皇子女を儲けたのは清和天皇であり、基経は、清和天皇が氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けると、実妹の高子がすでに清和天皇との間に貞明親王、貞保親王敦子内親王という三人の皇子女を儲けていたにもかかわらず、自分の娘のなかで母方の出自がさほど高くもない頼子を入内させ、頼子に皇子が産まれないとなると、さらに同じく出自の低い佳珠子を続けて入内させて、貞明親王(陽成天皇)と高子を蔑ろにした。なお陽成天皇にはその在位中、一人も正式な妃は入内していない。

元慶7年11月になると、宮中で天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件が起きる(『日本三代実録』元慶7年11月10日条)[6]。宮中での殺人事件という未曾有の異常事に、ついに基経によって退位を迫られ、翌年2月に退位(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。

陽成天皇の暴君説については退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、また上記の経緯のように疑問点も多く、天皇を廃位し、自身の意向に沿う光孝宇多帝を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる[7]。また、退位後も光孝・宇多・醍醐の諸帝の警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成上皇に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説[8]がある。

退位後に幾度か歌合を催す[9]など、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された[10]下記一首のみである。

つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」)

上皇歴65年は2位の冷泉天皇の42年を大きく凌ぐ1位である。『大鏡』には、いったん臣籍降下したにもかかわらず、父、光孝天皇の後をうけ即位した元侍従であった宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っている[11]。その皇子で再従兄弟でもあった敦仁親王(醍醐天皇)よりも長生きし、更に朱雀天皇村上天皇と、大叔父の光孝系の皇統継承を見届けたのもまた、皮肉な事であった。ちなみに唯一現代まで伝わる上記の歌は宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。

后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市左京区浄土寺真如町にある神樂岡東陵(神楽岡東陵、かぐらがおかのひがしのみささぎ)に治定されている。公式形式は八角丘。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

  1. 清和源氏 参照
  2. 『王朝の映像-平安時代史の研究』所収「陽成天皇の退位」,角田文衞, 東京堂出版,1970, 他
  3. 『古代政治史における天皇制の論理』所収「陽成退位の事情」,河内祥輔, 吉川弘文館,1986,
  4. ただし、河内説では上表回数を3回と解釈すべきとしている。
  5. 瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)
  6. 事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、それが事故であれ故意であれ、天皇自身が起こしたか、少なくとも何らかの関与はしていたのであろうというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。
  7. 前掲,角田文衞 著書
  8. 遠藤慶太細井浩志
  9. 延喜12-13年夏(推定) 歌題・夏虫恋、 延喜13年9月9日 歌題・惜秋意 他 参考文献『平安朝歌合大成』,萩谷朴,同朋舎出版,1995,
  10. 後撰,777番 百人一首,13番
  11. 帝紀,五十九代 宇多天皇


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