幕末の年表
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幕末の年表(ばくまつのねんぴょう)は、江戸時代後期(幕末)に関する年表。
凡例
- 年月日は旧暦
目次
- 1 黒船来航以前
- 2 嘉永6年(1853年2月8日 - 1854年1月28日)
- 3 嘉永7年/安政元年(1854年1月29日 - 1855年2月16日)
- 4 安政2年(1855年2月17日 - 1856年2月5日)
- 5 安政3年(1856年2月6日 - 1857年1月25日)
- 6 安政4年(1857年1月26日 - 1858年2月13日)
- 7 安政5年(1858年2月14日 - 1859年2月2日)
- 8 安政6年(1859年2月3日 - 1860年1月22日)
- 9 安政7年/万延元年(1860年1月23日 - 1861年2月9日)
- 10 万延2年/文久元年(1861年2月10日 - 1862年1月29日)
- 11 文久2年(1862年1月30日 - 1863年2月17日)
- 12 文久3年(1863年2月18日 - 1864年2月7日)
- 13 文久4年/元治元年(1864年2月8日 - 1865年1月26日)
- 14 元治2年/慶応元年(1865年1月27日 - 1866年2月14日)
- 15 慶応2年(1866年2月15日 - 1867年2月4日)
- 16 慶応3年(1867年2月5日 - 1868年1月24日)
- 17 慶応4年/明治元年(1868年1月25日 - 1869年2月10日)
- 18 明治2年(1869年2月11日 - 1870年1月31日)
- 19 関連項目
黒船来航以前
- 1792年 ロシア使節ラクスマン、根室に来航。大黒屋光太夫を送還する。松平定信は限定的な通商を考慮し、信牌を交付
- 1804年 信牌を持ったロシア使節レザノフ、長崎に来航するが交渉不成立。この頃から鎖国は祖法であるとの認識が生まれた
- 1806年 文化の薪水給与令
- 1806年-1807年 レザノフの部下フヴォストフら、蝦夷地北辺を襲撃(フヴォストフ事件)。薪水給与令が撤回される
- 1808年 フェートン号事件
- 1811年 ゴローニン事件。高田屋嘉兵衛を送還する。
- 1816年 イギリス軍艦ライラ号・アルセスト号、琉球に来航
- 1818年 イギリス人ゴルドン、浦賀に来航
- 1824年 イギリス捕鯨船員、常陸大津浜に上陸し水戸藩に捕らえられる
- 1824年 イギリス捕鯨船員、南西諸島の宝島に上陸し騒動を起こす
- 1825年 異国船打払令
- 1828年 シーボルト事件
- 1830年 ナサニエル・セイヴァリーら白人5人とハワイ人25人が小笠原諸島に入植・移住民となる
- 1836年 天保騒動
- 1837年 大塩平八郎の乱
- 1837年 モリソン号事件
- 1838年 徳川斉昭、『弘道館記』に尊王攘夷を示す(草案は藤田東湖)
- 1839年 蛮社の獄
- 1840年 アヘン戦争
- 1841年 天保の改革
- 1842年 天保の薪水給与令
- 1843年 イギリス軍艦サマラン号、八重山諸島に上陸し測量を行う
- 1844年 フランス軍艦アルクメーヌ号、琉球に来航。宣教師を残す
- 1844年 オランダ国王ウィレム2世、親書(草案はシーボルト)を送り開国を勧告する。筆頭老中水野忠邦は開国を主張するも、他老中の賛同を得られず
- 1845年 サマラン号、長崎に来航
- 1845年 阿部正弘、老中首座となる。阿部により海防掛が常設職とされた
- 1845年 アメリカ捕鯨船(マーケイター・クーパー船長)、浦賀に来航。日本人漂流民を送還する
- 1846年 孝明天皇即位
- 1846年 アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル、浦賀に来航し通商条約を求めるが、幕府は拒絶。
- 1849年 アメリカ軍艦プレブル号(ジェームス・グリン艦長)、アメリカ人漂流民救出のために長崎に来航
- 1849年 イギリス軍艦マリナー号、浦賀・下田に来航し測量を行う
- 1851年 ジョン万次郎、アメリカ船で帰国
- 1852年 オランダ商館長 クルティウス、オランダ風説書にてアメリカ艦隊来航を通告し、それ以前にオランダとの通商条約を結ぶことを提案するが、幕府これを拒否
嘉永6年(1853年2月8日 - 1854年1月28日)
- 6月3日(1853年7月8日) ペリー、4隻からなる艦隊(内蒸気船2隻)を率いて浦賀に来航、6月12日に日本を離れる(黒船来航)
- 6月6日 伊豆の新島に流罪となっていた甲斐国の博徒・竹居安五郎が島抜けを行い、甲斐へ帰国。
- 6月22日(1853年7月27日) 十二代将軍徳川家慶、死去
- 7月1日 (1853年8月5日)阿部正弘、大名・幕臣に広く意見を求める。このとき提出された勝麟太郎の海防意見書を大久保忠寛が目にとめ、阿部に推挙する
- 7月18日(1853年8月22日) プチャーチン、4隻からなる艦隊(内小型蒸気船1隻)を率いて長崎に来航、10月23日まで滞在
- 8月6日(1853年9月8日) 幕府、砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川英龍の配下に置く
- 8月15日(1853年9月17日) 幕府、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請
- 8月24日(1853年9月26日) 幕府、江川英龍の指揮のもと、品川沖台場の築造を始める
- 9月15日(1853年10月17日) 大船建造の禁が廃止される。それに先立ち洋式帆走軍艦昇平丸(薩摩藩)、旭日丸(水戸藩)、鳳凰丸(浦賀奉行)の建造が開始されている
- 11月7日(1853年12月23日) 幕府、米国より戻っていたジョン万次郎を旗本格として登用、中濱の苗字を与える
- 11月23日(1853年12月23日) 徳川家定、十三代将軍に就任
- 12月5日(1854年1月3日) プチャーチン、再来航。翌嘉永7年1月8日まで滞在
嘉永7年/安政元年(1854年1月29日 - 1855年2月16日)
- 1月16日 (1854年2月13日)ペリー、再来航
- 1月24日(1854年2月21日) 一朱銀を通用開始
- 3月3日(1854年3月31日) 日米和親条約調印
- 7月9日(1854年8月2日) 島津斉彬、徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を日本惣船印とする事を決定する
- 8月23日(1854年10月14日) 日英和親条約調印(英国東インド艦隊司令ジェームズ・スターリング)
- 9月21日(1854年11月11日) 幕府、オランダに蒸気軍艦2隻を発注(咸臨丸及び朝陽丸)
- 10月14日(1854年12月13日) プチャーチン、再び下田に来航。11月4日、東海地震津波のため、乗艦ディアナ号が大破、後に沈没、東海道筋甚大被害、翌日には南海地震津波で紀伊半島、四国に甚大被害
- 11月27日(1855年1月15日) 内裏炎上、地震、黒船来航などの災異のため安政に改元
- 12月21日(1855年2月7日) 日露和親条約調印
安政2年(1855年2月17日 - 1856年2月5日)
- 3月22日(1855年5月8日) プチャーチン、ディアナ号の代艦ヘダ号(後に量産され君沢形)で日本を離れる
- 6月9日(1855年7月22日) 長崎にオランダ軍艦スムービング号来航(艦長ペルス・ライケン)。幕府に寄贈され、日本最初の蒸気軍艦となる(後に観光丸と改称)
- 6月19日(1855年8月1日) 幕府、江戸湯島大小砲鋳立場で洋式小銃の鋳造を開始
- 6月29日(1855年8月11日) 幕府、諸大名・旗本に洋式銃の訓練を命じる
- 8月23日(1855年10月3日) 薩摩藩、江戸の薩摩藩邸前の海で、初の国産蒸気船雲行丸の試運転に成功
- 10月2日(1855年11月11日) 安政江戸地震(安政の大地震)。江戸で町方死者4,700人余。復旧事業費用等のため幕府の財政悪化の一因となる
- 10月9日(1855年11月18日) 阿部正弘、堀田正睦に老中首座を譲る
- 10月14日(1855年11月23日) 幕府、旗本・諸藩士・庶民の蝦夷地移住開拓を許可
- 10月24日(1855年12月3日) 幕府、ペルス・ライケンらオランダ海軍軍人を教官とし、長崎に海軍伝習所を設立
- 12月23日(1856年1月30日) 日蘭和親条約調印
安政3年(1856年2月6日 - 1857年1月25日)
- 4月13日(1856年5月16日) 幕府、築地に講武所を開設。幕臣およびその子弟に剣術の他、洋式調練・砲術などを教授
- 7月21日(1856年8月21日) ハリス、米総領事として下田に到着
- 12月18日(1857年1月13日) 徳川家定、島津斉彬(一橋派)の養女篤子と婚儀。
安政4年(1857年1月26日 - 1858年2月13日)
- 1月 甲斐国で甲府の博徒・三井卯吉が小天狗亀吉らに襲撃され死亡。
- 4月11日(1857年5月4日) 幕府、築地の講武所内に軍艦操練所を設立。長崎海軍伝習所の一期生が教授となる
- 5月26日(1857年6月17日) 日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約が締結
- 8月5日(1857年9月22日) オランダで建造された咸臨丸(最初の新造蒸気軍艦)、長崎に到着
- 8月23日(1857年10月10日) 咸臨丸で来日したヘンドリック・ハルデスの指導で長崎製鉄所の建設始まる
- 10月21日(1857年12月7日) ハリス、江戸城にて将軍家定に謁見し国書を渡す
- 12月11日(1858年1月25日) 日米修好通商条約交渉開始
安政5年(1858年2月14日 - 1859年2月2日)
- 2月5日(1858年3月19日) 老中堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を得るために入京
- 3月12日(1858年4月25日) 岩倉具視等攘夷派公家88人、条約勅許への反対を表明し座り込み(廷臣八十八卿列参事件)
- 3月20日(1858年5月3日) 孝明天皇、条約勅許を拒否
- 4月23日(1858年6月4日) 南紀派の井伊直弼、大老に就任
- 5月1日(1858年6月11日) 井伊直弼、将軍継嗣は徳川慶福(後の家茂)と老中に言い渡す
- 6月19日(1858年7月29日) 日米修好通商条約調印
- 6月23日(1858年8月2日) 堀田正睦、老中を罷免される
- 7月5日(1858年8月13日) 井伊直弼、一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。安政の大獄の始まり
- 7月6日(1858年8月14日) 十三代将軍徳川家定、死去
- 7月8日(1858年8月16日) 幕府、海防掛を廃し、外国奉行を設置。初代5人は全員一橋派で、4人が短期間で解任された
- 7月10日(1858年8月18日) 日蘭修好通商条約調印
- 7月11日(1858年8月19日) 日露修好通商条約調印
- 7月16日(1858年8月24日) 島津斉彬急死。井伊への抗議のための挙兵上洛計画実現せず
- 7月18日(1858年8月26日) 日英修好通商条約調印
- 8月8日(1858年9月13日) 朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅)
- 9月3日(1858年10月9日) 日仏修好通商条約調印
- 10月25日(1858年11月30日) 徳川家茂、十四代将軍に就任
安政6年(1859年2月3日 - 1860年1月22日)
- 5月26日(1859年6月26日) 初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコック 品川に到着。6月12日批准書交換。
- 6月1日(1859年6月30日) 水野忠徳の策により小判の海外流出防止のため貿易専用通貨である安政二朱銀通用開始。しかし、ハリス、オールコックらの抗議によりわずか22日間で通用停止→幕末の通貨問題
- 6月2日(1859年7月1日) 神奈川・長崎・箱館を開港
- 7月27日(1859年8月25日)日露国境策定交渉のために来日していたロシア海軍の軍人2名が殺害される。最初の外国人殺害事件
- 8月10日(1859年9月6日) 初代フランス公使(着任時は総領事)ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール 着任
- 8月23日(1859年9月19日) グラバー来日、長崎にグラバー商会設立。後に討幕派を支援し、武器や弾薬を販売
- 10月27日(1859年11月21日) 吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者
- 12月27日(1860年1月19日) 政字銀通用開始、最低品位の銀
安政7年/万延元年(1860年1月23日 - 1861年2月9日)
- 1月22日(1860年2月13日) 日米修好通商条約批准書交換のため万延元年遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。
- 3月3日(1860年3月24日) 桜田門外の変
- 3月18日(1860年4月8日) 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため万延に改元
- 3月27日(1860年4月17日) 遣米使節、ブキャナン大統領に謁見し批准書交換。
- 閏3月19日(1860年5月9日) 幕府、五品江戸廻送令を発布し物価高騰抑制を試みる(開港初年度で国内産生糸の20%以上が輸出に回されたため、価格が高騰していた)。
- 4月10日(1860年5月30日) 万延小判通用開始。金銀交換比が海外とほぼ同一となり、金の流出が止まる。
- 6月17日(1860年8月3日) 日葡修好通商条約調印(ポルトガル)
- 9月27日(1860年11月9日) 遣米使節帰国
- 12月5日(1861年1月15日) 米通訳ヒュースケン、暗殺される
- 12月14日(1861年1月24日) 日普修好通商条約調印(プロイセン)
万延2年/文久元年(1861年2月10日 - 1862年1月29日)
- 2月3日(1861年3月13日) ロシア軍艦ポサドニック号、対馬芋崎を一時占拠(ポサドニック号事件)。芋崎の永久租借を要求したが、約半年後に英国海軍の介入により退去。
- 2月19日(1861年3月29日) 讖緯説に基づく辛酉革命の年に当たるため文久に改元
- 3月25日(1861年5月4日) 長崎製鉄所(現三菱重工業長崎造船所)完成。日本最初の近代工場
- 5月28日(1861年7月5日) 第一次東禅寺事件。これをきっかけに英国軍艦が横浜に常駐するようになる。
- 7月9日(1861年8月14日) オールコック、老中安藤信正、若年寄酒井忠ますとの秘密会談で、攘夷勢力に対する幕府の力の限界を知り、江戸・大坂・新潟・兵庫の開市開港延期に理解を示す。
- 12月23日(1862年1月12日) 文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)、出発
- 12月(1862年1月) 幕府、水野忠徳を小笠原諸島に派遣、翌文久2年5月に領有宣言
文久2年(1862年1月30日 - 1863年2月17日)
- 1月15日(1862年2月13日) 公武合体派の老中安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷(坂下門外の変)。4月11日、老中を罷免される
- 2月11日(1862年3月11日) 公武合体の象徴として皇女和宮親子内親王降嫁
- 4月16日(1862年5月14日) 公武合体推進のため島津久光、兵を率いて入京。朝廷、幕府に三事策を求める
- 4月23日(1862年5月21日) 寺田屋事件。久光の命令により薩摩藩攘夷派一掃される
- 5月9日(1862年6月6日) ロンドン覚書調印。兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期することが認められる。
- 5月29日(1862年6月26日) 第二次東禅寺事件。英国公使館再び襲われる
- 6月7日(1862年7月3日) 島津久光江戸到着、幕閣との交渉を開始
- 7月6日(1862年8月1日) 三事策に基づき、一橋慶喜が将軍後見職に、7月9日松平慶永が政事総裁職に任命される
- 8月21日(1862年9月14日) 生麦事件。江戸から京都へ向かう久光一行の通行を妨害したイギリス人4人が殺傷される
- 閏8月 文久の幕政改革
- 閏8月1日(1862年9月24日) 松平容保、京都守護職に任命される
- 12月12日(1863年1月31日) 高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち
文久3年(1863年2月18日 - 1864年2月7日)
- 2月13日(1863年3月31日) 三事策に基づき、徳川家茂、上洛のため江戸出立
- 2月19日(1863年4月6日) 英国代理公使ニール、幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出
- 3月 壬生浪士(新選組の前身)結成
- 3月4日(1863年4月21日) 徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。
- 4月20日(1863年6月6日) 徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。
- 5月3日(1863年6月18日) 生麦事件賠償金支払い予定日。攘夷令の影響を受け、幕府、英国に延期を通告
- 5月5日(1863年6月20日) ニール、英国東インド艦隊司令キューパー提督に、幕府に対する軍事行動を命令。キューパー、横浜から軍艦を江戸に向かわせる
- 5月9日(1863年6月24日) 小笠原長行、独断で賠償金11万ポンド全額を支払い、戦争回避。同時に、攘夷令に基づき開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告するが、口頭で実行の意志がないことも伝える
- 5月10日(1863年6月25日) 長州藩、下関で外国商船を砲撃(下関戦争)
- 5月12日(1863年6月27日) 長州五傑、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り、英国留学のため横浜を密出国
- 5月18日(1863年7月3日) 幕府、文書にて開港場閉鎖と外国人追放を撤回
- 5月26日(1863年7月11日) 小笠原長行、幕府陸軍1600人を率い、海路横浜を出発、武力上洛を目指す。6月5日、家茂の説得により入京を断念するが、家茂の江戸帰還が認められる。
- 6月1日(1863年7月15日) 米国、下関に報復攻撃
- 6月5日(1863年7月19日) フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
- 6月7日(1863年7月21日) 高杉晋作、藩に奇兵隊編成を建白
- 7月2日(1863年8月15日) 薩英戦争
- 8月13日(1863年9月25日) 会薩同盟成立
- 8月17日(1863年9月29日) 天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士がとして大和国で決起するが、9月27日に壊滅。
- 8月18日(1863年9月30日) 八月十八日の政変。七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。
- 9月1日(1863年10月13日) 一橋慶喜、鎖港談判の着手勅命を受ける。9月15日、米・蘭との交渉を行うが、両国これを拒否
- 10月5日(1863年11月15日) 薩英戦争の講和成立、賠償金2万5千ポンド支払い。この交渉を通じて、薩摩と英国が接近
- 10月12日(1863年11月22日) 生野の変。平野国臣等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される
- 12月8日(1864年1月16日)小栗忠順、横須賀製鉄所建設案を幕府に提出
- 12月29日(1864年2月6日) 横浜鎖港談判使節団、フランスへ向けて出発
- 12月29日(1864年2月6日) 日本瑞西国修好通商条約調印(スイス)
- 12月30日(1864年2月7日) 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)
文久4年/元治元年(1864年2月8日 - 1865年1月26日)
- 1月15日(1864年2月21日) 徳川家茂、再度上洛
- 2月20日(1864年3月27日) 讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため元治に改元
- 3月9日(1864年4月14日) 参与会議瓦解
- 3月15日 甲斐国で博徒・黒駒勝蔵が国分三蔵宅を襲撃。三蔵は逃亡。
- 3月19日(1864年4月24日) 西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される
- 3月22日(1864年4月27日) 第二代フランス公使レオン・ロッシュ着任
- 3月27日(1864年5月2日) 天狗党の乱。水戸藩執政武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年1月14日)投降
- 6月5日(1864年7月8日) 池田屋事件。長州藩、土佐藩などの攘夷派多数が新選組に斬殺・逮捕される
- 6月10日(1864年7月13日) 長州五傑の内伊藤俊輔、井上聞多、緊急帰国。オールコックの同意を得、長州藩の攘夷中止の説得を試みるが、失敗
- 7月11日(1864年8月12日) 佐久間象山暗殺される。
- 7月19日(1864年8月20日) 禁門の変。薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐。御所に発砲した長州藩が朝敵とされた
- 8月5日(1864年9月5日) 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。但し、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになる
- 10月17日 山中に潜伏していた甲斐の黒駒勝蔵が犬上郡次郎宅を襲撃し、郡次郎を殺害。
- 11月18日(1864年12月16日) 第一次長州征伐。征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順
- 12月15日(1865年1月12日) 高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵)。長州藩の藩論が倒幕に統一される
元治2年/慶応元年(1865年1月27日 - 1866年2月14日)
- 3月22日(1865年4月17日) 薩摩藩遣英使節団密出国
- 4月7日(1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元
- 5月 土佐勤王党、弾圧される
- 閏5月2日(1865年5月26日) 第二代英国公使ハリー・パークス着任
- 8月24日(1865年10月13日) 幕府、フランスの協力を得て、レオンス・ヴェルニーの指導で横須賀製鉄所着工
- 9月16日(1865年11月4日) パークスの主導で英仏蘭三ヶ国艦隊、兵庫沖に来航。条約勅許と兵庫の早期開港を求める(兵庫開港要求事件)
- 10月5日(1865年11月22日) 朝廷、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず
慶応2年(1866年2月15日 - 1867年2月4日)
- 1月21日(1866年3月7日) 京都で西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎会談。薩長同盟成立
- 1月30日(1866年3月16日) アーネスト・サトウ、ジャパン・タイムスに匿名で論文寄稿。将軍を主権者と見なさないとする内容だが、後に翻訳され『英国策論』と題され出版される
- 4月7日(1866年5月21日) 海外行き許可の認証に関する布告。商用・留学目的の海外渡航が解禁される
- 5月2日(1866年6月14日) 国産初の蒸気軍艦千代田形就役
- 5月13日(1866年6月25日) 幕府、英米仏蘭と改税約書(江戸条約)に調印。輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増
- 6月7日(1866年7月18日) 富士山丸等幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まる。第二次長州征伐開始。しかし薩摩藩は出兵を拒否。
- 6月21日(1866年8月1日) 日白修好通商条約調印(ベルギー)
- 7月16日(1866年8月25日) 日伊修好通商条約調印
- 7月20日(1866年8月29日) 将軍家茂、死去
- 8月20日(1866年9月28日) ロッシュの仲介により、小栗忠順、フランスからの600万ドルの借款契約に成功。これを元手に幕府の近代化・軍事力強化を目指す
- 9月2日(1866年10月10日) 幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成立
- 11月15日(1866年12月21日) ロッシュ、徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言
- 12月5日(1867年1月10日) 徳川慶喜、十五代将軍に就任
- 12月7日(1867年1月12日) 日丁修好通商条約調印(デンマーク)
- 12月8日(1867年1月13日) フランス軍事顧問団、横浜に到着。翌日から幕府陸軍の訓練を開始。
- 12月25日(1867年1月30日) 孝明天皇、崩御
- 12月~ 慶応の改革。ロッシュの意見を入れ老中の総裁制度(職務明文化)を採用
慶応3年(1867年2月5日 - 1868年1月24日)
- 1月9日(1867年2月13日) 明治天皇即位
- 1月11日(1867年2月15日) 徳川昭武、パリ万博のため出発
- 2月6日(1867年3月11日) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと会見(同月7日、20日にも会見)
- 3月25日(1867年4月29日) 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。このとき、パークスのみが慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした
- 4月14日(1867年5月17日) 高杉晋作死去
- 4月15日(1867年5月18日) フランス新外相ムスティエ、600万ドル借款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。
- 5月4日(1867年6月6日) 四侯会議(松平慶永、島津久光、山内豊信、伊達宗城)
- 5月24日(1867年6月26日) 徳川慶喜、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得る。会議側の敗北を受け、薩摩藩は武力倒幕の方針を固める
- 6月10日頃(1867年7月11日頃) 坂本龍馬、土佐藩参政後藤象二郎に大政奉還を含む船中八策を提示
- 10月3日(1867年10月29日) 土佐藩主山内豊範、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出
- 10月14日(1867年11月9日) 討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下る
- 10月14日(1867年11月9日) 徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)。朝廷、これを受けて、薩長に倒幕の実行延期の沙汰書を下す
- 10月24日(1867年11月19日) 徳川慶喜、征夷大将軍辞職を申し出るが、朝廷これを認めず
- 11月15日(1867年12月10日) 坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺される(近江屋事件)
- 12月7日(1868年1月1日) ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。各国公使も大坂に滞在
- 12月9日(1868年1月3日) 王政復古の大号令、徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止
- 12月12日(1868年1月6日) 徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着
- 12月16日(1868年1月10日) 徳川慶喜、英仏米蘭伊普の6カ国公使に、外交権は幕府が保持していることを宣言
- 12月25日(1868年1月19日) 薩摩藩江戸藩邸焼き討ち
慶応4年/明治元年(1868年1月25日 - 1869年2月10日)
- 1月3日(1868年1月27日) 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争始まる
- 1月4日(1868年1月28日) 朝廷、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗・節刀を与える。薩長軍、官軍となる
- 1月6日(1868年1月30日) 徳川慶喜、大坂城を脱出、海路江戸に戻る
- 1月7日(1868年1月31日) 徳川慶喜追討令。旧幕府軍、朝敵となる
- 1月11日(1868年2月4日) 神戸事件。備前藩兵、各国外交団を銃撃。明治政府初の外交問題
- 1月15日(1868年2月8日) 朝廷、東久世通禧を派遣し、各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事件の交渉開始
- 1月15日(1868年2月8日) 徳川慶喜、主戦派の中心人物である小栗忠順を解任、恭順の意志を表明
- 1月19日(1868年2月12日) ロッシュ、一旦江戸に戻り徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否
- 1月25日(1868年2月18日) パークス、戊辰戦争に対する英国の局外中立を宣言。他国もこれに追従
- 2月12日(1868年3月5日) 徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎
- 2月15日(1868年3月8日) 堺事件
- 2月23日(1868年3月16日) 勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命され、幕府全権として新政府軍との講和を目指す
- 3月13日(1868年4月5日) 勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
- 3月21日(1868年4月13日) 明治天皇、大坂行幸のため京都を出発。閏4月8日京都に還幸
- 4月11日(1868年5月3日) 江戸城無血開城
- 閏4月1日(1868年5月22日) パークス、大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出(外国による最初の明治政府正式承認)
- 閏4月25日(1868年6月15日) 新政府軍、白河への攻撃を開始。会津戦争始まる
- 5月2日(1868年6月21日) 新政府、長岡藩の中立要請を拒否、北越戦争始まる
- 5月3日(1868年6月22日) 奥羽越列藩同盟成立
- 5月15日(1868年7月4日) 上野戦争。彰義隊、一日で壊滅
- 7月17日(1868年9月3日) 江戸を東京と改称
- 7月29日(1868年9月15日) 新政府軍、越後を平定
- 8月21日(1868年10月6日) 新政府軍、会津領内に侵攻
- 9月8日(1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日に遡って新元号・明治を適用。
- 9月16日(1868年10月31日) 榎本武揚ら、開陽丸など旧幕府艦隊主力を率いて品川沖を脱走。ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団の一部もこれに同行
- 9月20日(1868年11月4日) 明治天皇、東京行幸のため京都を出発
- 9月22日(1868年11月6日) 会津藩降伏
- 9月23日(1868年11月7日) 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟瓦解。本州での戦いが終了
- 10月13日(1868年11月26日) 明治天皇、江戸城に到着。名を「東京城」と改める。12月22日京都に還幸
- 10月22日(1868年12月5日) 榎本軍、箱館府軍との間に戦闘開始。11月22日までに蝦夷地を平定
- 11月15日(1868年12月28日) 開陽丸、座礁・沈没
- 12月15日(1869年1月27日) 蝦夷共和国成立
- 12月28日(1869年2月9日) 諸外国、局外中立を解除。明治政府が日本の唯一の正統政府とみなされる。
明治2年(1869年2月11日 - 1870年1月31日)
- 1月5日(1869年2月15日) 横井小楠、京都にて暗殺される
- 2月3日(1869年3月15日) 米国、中立解除につき新政府に装甲艦甲鉄を引渡し。新政府軍の海軍力が蝦夷共和国軍を上回る
- 3月25日(1869年5月6日) 宮古湾海戦。蝦夷共和国軍、甲鉄の奪取を試みるも失敗
- 3月28日(1869年5月9日) 明治天皇、東京城に到着、「皇城」と称する。これより実質的に東京が首都となる
- 4月9日(1869年5月20日) 新政府軍、蝦夷地に上陸
- 5月18日(1869年6月27日) 榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結