黒駒勝蔵

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黒駒 勝蔵(くろこまの かつぞう、1832年天保3年) - 1871年11月26日明治4年10月14日)?)は、幕末侠客尊王攘夷派の志士。本名:小池 勝蔵(こいけ かつぞう)。

略歴

出生から博徒時代

ファイル:Monument of Kurokoma-Katsuzo.JPG
生誕地上黒駒にある黒駒勝蔵記念碑
山梨県知事天野久書(2010年9月撮影)

甲斐国八代郡上黒駒村若宮(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒[1])の名主小池嘉兵衛[2]の次男として生まれた。幼少期には村内神座山の檜峯神社神主武藤外記の私塾「振鷺堂」に学んだと言われ、後年に尊皇攘夷運動に参加した勝蔵は武藤外記の国学思想に影響を受けたという[3]

25歳で渡世人となり、安政3年(1856年)には隣村の八代郡竹居村[4]の中村甚兵衛・安五郎(竹居安五郎(1812 - 1862))の子分となった。

竹居安五郎は幕府が異国船への警護体制を固めていた嘉永6年(1853年)に、その隙を突いて流罪されていた新島からの島抜けを行い、甲斐へ戻り勢力を回復していた。勝蔵は中村家の有力子分として上黒駒村戸倉を拠点に一家を構え、安五郎を探索する甲州代官や関東取締出役の手代と対決する。文久元年(1861年)10月には東海道菊川宿における清水次郎長と下田金平の手打ちに出席し、次郎長と対面している。文久2年(1862年)に安五郎が関東取締出役道案内の国分三蔵により捕縛され獄死した後は手下を黒駒一家としてまとめ、上黒駒村戸倉を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせた。

勝蔵ら甲州博徒は富士川舟運の権益を巡り清水次郎長と対立しており、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河岩淵河岸興津宿を襲撃する。文久3年(1863年)5月10日には天竜川で次郎長と対陣している。翌元治元年(1864年)10月17日には竹居安五郎の敵である犬上郡次郎を殺害し、以後は御坂山地に潜伏し役人や敵対する博徒の追尾をかわしていたが、慶応元年(1865年)に石和代官所が大規模な山狩りを行うと、甲州から他国へ逃れる。

勝蔵の明治維新

勝蔵は倒幕運動に影響され、甲府代官探索書によれば甲府城占領計画などを画策しているが、高橋敏は上黒駒蔵の神主である武藤家が尊皇攘夷思想の影響を受けた国学塾を開いており、勝蔵に影響を与えた可能性を指摘している。甲州を離れた後に勝蔵は岐阜の水野弥太郎のもとに潜伏する。

慶応4年(1868年)正月に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて[5]、弥太郎の子分も入隊していた草莽隊の赤報隊に入隊する[6]

勝蔵は官軍側について戊辰戦争に参加しているが、赤報隊は「偽官軍」として新政府軍に処罰され、隊長の相楽総三は処刑され、水野弥太郎も捕縛され獄死している。このため赤報隊は解散となり、勝蔵は京都で四条隆謌に随行する徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗る。『檜峰神社 武藤家日記』慶応4年4月5日条・同4月28日条[7]では勝蔵上洛中の様子を伝え、八王子の甲州屋与衛門の子で後に江戸深川八幡の神主古屋家の養子となり、京都で白川家の役人となった「古川但馬守」の存在を記している。古川は勝蔵の従兄弟にあたる人物で、勝蔵が四条隆謌に随行した背景には古川との関係があった可能性が考えられている。

慶応4年5月には駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍する。

戊辰戦争の終結後、明治3年(1870年)の兵制改革で勝蔵の所属していた徴兵七番隊は解散されるが、勝蔵はそれ以前に甲斐へ戻り、新政府に甲斐の黒川金山の採掘を願い出て事業に着手していた。翌明治4年(1871年)2月2日、勝蔵は脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首された(「黒駒勝蔵口供書」)。勝蔵の処刑は秘密裏に執行されたと見られているが、処刑日に関して個人蔵の「黒駒勝蔵紙位碑」では勝蔵の命日を明治4年2月7日と異なる日付を記しており、勝蔵が入牢した段階で死亡したものと判断し位牌に記した可能性が考えられている[8]

勝蔵の肖像・もう一人の「勝蔵」

山梨県笛吹市御坂町上黒駒の称願寺には肖像が伝来している。勝蔵の肖像は寸法が縦86.9センチメートル、横56.3センチメートル。年代は不詳であるが、軸の裏側に「寄進 為菩提勤王侠客黒駒勝蔵之」と記されており、勝蔵と天皇との関わりを強調している[9]

『坂田家御用日記』に拠れば、安政4年(1857年)正月に甲府で竹居安五郎・黒駒勝蔵と敵対する三井卯吉が対立する博徒の連合部隊によって殺害される事件が起こり、卯吉の殺害犯の一人に和泉村(南アルプス市)の無宿「勝蔵」がいるが、これは黒駒勝蔵とは別人であると判断されている[10]

新発見の史料に見る勝蔵

2013年平成25年)には山梨県立博物館における企画展『黒駒勝蔵対清水次郎長-時代を動かしたアウトローたち-』展に際した調査活動により、勝蔵に関する新出史料が見出された。

これは八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の河野家に伝来した「河野家資料」の一部であるニ通の文書「無宿勝蔵・綱五郎動静ニ付書置」(便宜的に二点の文書を「A」、「B」と呼称される)[11]で、年記は無いが河野家当主によって作成されたと考えられている[12]。内容は勝蔵とその子分である綱五郎が、清水次郎長と敵対する駿河の宮島年蔵(重太郎)の元に潜伏していることを伝えている。両者とも内容が秘密情報であるため料紙の寸法は小さく、粗悪な紙を用いている[13]

内容は両者とも同様であるが、Bが潜伏先の情報提供者のみを記しているのに対し、Aはより詳しく情勢を伝えている。勝蔵と綱五郎は年不詳8月頃に宮島のもとを訪れ、綱五郎の縁者である上黒駒村の友吉が同行していたという。また、Aの末尾には、文書の内容は友吉の女房が語ったものであると記され、特定の他者に宛てたものではなく、備忘録としての書式であると考えられている[14]

また、当史料には元治元年(1864年)に甲府代官加藤余十郎が黒駒近辺の情勢を探索し、勝蔵が浪士達を糾合し甲府城奪取を計画している噂が流れていることを報じている『官武通紀』[15]に上黒駒村百姓として名が見られる「上黒駒村新宿 又次郎」の名が見られ、勝蔵が上黒駒村を離れ東海地方を転々としながら次郎長と対決を繰り広げ、明治維新期に浪士達と関係性を築き官軍に身を投じることが出来た背景には、「又次郎」のような村落において勝蔵を支援する人物が存在していたためであると考えられている[16]

加えて、『勝蔵』展に際した調査においては同じ「河野家資料」から、勝蔵と敵対した国分村の国分三蔵に関する新出史料も発見されている。当史料によれば三蔵は慶応3年(1867年)段階で石和代官領一之宮村と田安家中尾村との間に発生した紛争において仲裁を務めており、同じ石和代官領であった夏目原村に居住し郡中総代を務めていた河野家当主が一之宮村側に依頼され周旋していたのに対し、中尾村は田安家の目明し的存在であった三蔵に依頼して事態の解決を図っており、河野家当主と三蔵は対立関係にあった。

勝蔵と国分三蔵は激しく抗争を繰り広げているが、勝蔵に関する新出史料の存在から村落間の紛争において三蔵と対立した河野家は勝蔵と交流関係があり、博徒間の抗争は在地社会における村落間の紛争と連動していたことが指摘される[17]

勝蔵を描いた作品

同時代では勝蔵を描いた文学作品に甲斐の書肆「甲西八滝板」から出版された「甲州黒駒勝蔵評判くどき」があり、勝蔵が岐阜の水野弥太郎のもとへ身を寄せ、池田勝馬と名を改め官軍に加わるまでの出来事を記している。

近代における勝蔵に関する本格的評伝は、堀内良平1943年昭和18年)に軍事界社から出版した『勤王侠客 頃駒勝蔵』(『勝蔵伝』)がある。堀内は勝蔵と同じ上黒駒村の出身で、山梨県議会議員・衆議院議員を務め富士山麓電気鉄道(富士急行)を設立した実業家で、『勝蔵伝』の執筆に際して現地における聞き取り調査などを行っており、今日では知り得ない情報を多く含んだ評伝となっている。また、これに先立つ1924年大正13年)には『都新聞』で連載された松田竹の嶋人『黒駒の勝蔵』があり、同書の出版は堀内良平が松田に依頼し、関係資料を提供したという。

そのほか、勝蔵について描いた小説に、子母澤寛『富嶽ニ景-次郎長と勝蔵-』がある。子母澤寛は『勝蔵伝』の執筆に際した堀内良平の調査にも同行しており、『富嶽ニ景』は勝蔵を主人公に、富士山を挟んで対峙した勝蔵と清水次郎長を対比させた作品で、1965年昭和40年)4月25日から同年10月15日まで、全172回にわたって読売新聞に連載された。原題は「次郎長と勝蔵」。単行本は東京文芸春秋新社より刊行された。

また、結城昌治による小説『斬に処す-甲州遊侠伝-』がある。1971年(昭和46年)、「週間アサヒ芸能」5月6日号から12月21日号にかけて連載された。善玉清水次郎長、悪玉黒駒勝蔵という定説を覆した画期的な作品[18]。1972年(昭和47年)1月、徳間書店より単行本として、1978年(昭和53年)に角川書店より「角川文庫」で、2000年(平成12年)に小学館より「小学館文庫」で出版された。

関連作品

  • 安五郎の若い頃を描いたテレビドラマ「甲州仁侠伝 俺はども安」に、子分として勝蔵も登場した。
  • 萩原健一主演のテレビドラマ「風の中のあいつ」(1973年)も勝蔵側から描いた「異色作」。
  • 今川徳三『万延水滸伝』 - 吃安の牢死と、勝蔵の仇討を描く。
  • テレビドラマ「竜馬におまかせ!」(1996年)では坂本龍馬の知り合いとして描かれ、同作品第6話では次郎長一家と対峙、その際 龍馬達に助けられている(尚、内容はコメディタッチで、浪曲や小説でのイメージは全く無い)。
  • 本宮ひろ志幕末紅蓮隊』 - 「黒駒村の勝蔵」として登場。赤報隊のエピソードもある。

参考文献

  • 『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質 山梨県立博物館 調査・研究報告6』山梨県立博物館、2013年
  • 髙橋修「甲州博徒抗争史論-三井卯吉・国分三蔵・黒駒勝蔵にかかる新出資料との対話-」『山梨県立博物館 研究紀要 第七集』山梨県立博物館、2013年
  • 猪野健治『やくざと日本人』(筑摩書房、1999年) - ISBN 4480034846
  • 高橋敏『博徒の幕末維新』(筑摩書房、2004年) - ISBN 4480061541
  • 堀内良平『勤王侠客黒駒の勝蔵』
  • 今川徳三著・子母沢寛編『甲州侠客伝』(人物往来社、1968年)
  • 加川英一『黒駒勝蔵』新人物往来社、2007年
  • 堀内万寿夫「子母沢寛の描く甲州黒駒の勝蔵-明治維新をふまえて」『甲斐路 No.89』山梨郷土研究会、1998年

演じた俳優

注釈

  1. 上黒駒村は石和代官支配で、村高1220石余。上組・下組に区分され、勝蔵の小池家は下組に属する。上黒駒村は甲州街道石和宿(笛吹市石和町)から分岐し富士東麓を経て駿河国へ至る鎌倉街道の伝馬宿でもあった
  2. 山梨県立博物館に収蔵されている上黒駒村の村役人を務めた渡辺家に伝わる文書(「渡辺家文書」)には嘉兵衛書簡などが含まれ、嘉兵衛や勝蔵・竹居村の中村家との関わりを示す文書群として注目されている。
  3. 高橋敏『博徒と明治維新』
  4. 竹居村(笛吹市御坂町竹居・笛吹市八代町竹居)は上黒駒村と同じく石和代官支配で、檜峯神社の神領も分布している。
  5. 「小宮山勝蔵」の変名について、堀内良平『勤王侠客黒駒勝蔵』では元甲府勤番士小宮山嘉兵衛が勝蔵の父の用人として小池家に隣接し、勝蔵は嘉兵衛から剣術を習うなど交流があったため小宮山姓を名乗ったとする伝承を記している。
  6. 「丸山梅夫 日記」慶応4年正月15日条、『調査・研究報告』Ⅰ-14、「慶応4年正月 加納宿熊田助右衛門 御用日記」慶応4年正月19日条、『調査・研究報告』Ⅰ-15
  7. 『調査・研究報告』Ⅰ-16・17
  8. 髙橋「甲州博徒の史料論」『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質』、p.24
  9. 『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.5
  10. 髙橋(2013)、p.20(81)
  11. 『調査・研究報告6』Ⅰ - 8
  12. 高橋(2013)、p.15(86)
  13. 高橋(2013)、p.15(86)
  14. 高橋(2013)、p15(86)
  15. 『調査・研究報告6』Ⅰ - 9
  16. 高橋(2013)、p.16(85)
  17. 高橋(2013)、pp.16(85) - 17(84)
  18. 小学館版『斬に処す』p.336