鎌倉街道

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鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については「鎌倉往還」(かまくらおうかん)や「鎌倉道」(かまくらみち)とも呼ばれ、また「鎌倉海道」(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する(後述参照)。

道路の通称

古道・鎌倉街道

古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。

一方で、「鎌倉街道」の呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である吾妻鏡をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である新編武蔵風土記江戸名所図会(江戸名所圖會)などに「鎌倉街道」が散見されている。

以下には、現在の「鎌倉街道」に該当するであろう諸道の文献上での記述を記し、さらに現在の古道・鎌倉街道について説明する。

吾妻鏡

吾妻鏡で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。

  1. 京や駿河遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総常陸に向かう道として東海道
  2. 鎌倉から武蔵東部や下野に向かう中路
  3. さらに中路を経て奥州に向かう奥大道
  4. 鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道
  5. 下道からさらに信濃越後に向かう北陸道
  6. 下野足利荘から鎌倉に至る経路上の道である武蔵大路(経路不明)

これらは往還道として実際に用いられた呼称と推定できるが、「東海道」や「北陸道」には律令制五畿七道の一道の意味もあり、また「大道」や「中路」は元来官道の規格を表す言葉でもあるから、道路名と断定するものではない。

以下に、吾妻鏡に記述のある道路名について解説する。なお、東海道北陸道については各項目を参照のこと。

東海道

吾妻鏡文治5年7月17日の条に『東海道大将軍である千葉常胤八田知家は、一族と常陸国および下総国の諸氏を率いて宇大、行方を経て岩城、岩崎を廻り遇隈河を渡り大手軍(頼朝軍)と合流すること』とあり、五畿七道のひとつである東海道に属する下総国および常陸国には京から鎌倉を経て下総国、常陸国に通じ奥州へ至る道があった可能性が考えられる。

中路および奥大道

吾妻鏡文治5年7月17日の条に、奥州征伐源頼朝率いる大手軍が中路より御下向されると記述されている。鎌倉を発向した頼朝軍は下野国宇都宮(古多橋驛)、同那須(新渡戸驛)を経て白河関に至っていることから、中路とは武蔵国東部から下野国を縦断して奥州白川に至る古道と推定されている。

また同じく吾妻鏡には、奥州平定後の記述として奥大道の文字も見え、建長8年6月2日の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名を挙げている。

  • 陸奥留守兵衛尉
  • 宮城右衛門尉
  • 和賀三郎兵衛尉
  • 和賀五郎左衛門尉
  • 芦野地頭
  • 福原小太郎
  • 渋江太郎兵衛尉
  • 伊古宇又次郎
  • 平間江地頭
  • 清久右衛門次郎
  • 鳩井兵衛尉跡
  • 那須肥前々司
  • 宇都宮五郎兵衛尉
  • 岩手左衛門太郎
  • 岩手次郎
  • 矢古宇右衛門次郎

これら地頭等の所領を現代の自治体名で鎌倉側から並べると、神奈川県川崎市中原区上平間、川崎市幸区下平間、東京都足立区宮城、足立区伊興、埼玉県川口市本郷、川口市三ツ和、草加市谷塚さいたま市岩槻区久喜市栃木県小山市下野市薬師寺、河内郡上三川町多功、下野市児山、 宇都宮市田川西岸の市街部)[3]さくら市氏家矢板市川崎、大田原市福原、大田原市黒羽、那須郡那須町芦野[4]となり、奥大道はこれら地域を経て奥州に至っていたものと考えられている。

なお、先出の吾妻鏡の奥州征伐の記述によると、7月19日に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て7月25日に宇都宮(古多橋驛)に到着、7月26日に宇都宮を発ち7月28日那須(新渡戸驛)に到着、翌7月29日に白河関に至っており、各区間に要した概日数は鎌倉-宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮-那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25-30kmであったと見られる。

下道および北陸道

「吾妻鏡」の文治5年7月17日の条に、奥州征伐北陸道大将軍の比企能員および宇佐美実政等が、『鎌倉から下道を経て上野国高山、小林、大胡、左貫の住人を集め越後国から出羽国に出る』と記述されており、下道は相模国から武蔵国を経て上野国に至り、さらに北で北陸道に通じていたものと推察されている。

武蔵大路

吾妻鏡養和元年9月16日の条に、下野国足利庄桐生六郎が幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとある。この武蔵大路の経路については記述が無く不明である。現在は鎌倉市中の道とする説、あるいは上州から武蔵西部経由で鎌倉に至る道(下道)や、野州から武蔵東部経由で鎌倉に至る道(中路)との推察もあるが、いずれも確実な根拠は無い。

宴曲抄

鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、「吾妻鏡」でいう「下道」の経路と推定される。

由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近) - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近) - 井出の沢町田市本町田) - 小山田の里(町田市小野路町) - 霞ノ関多摩市関戸) - 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川(東村山市所沢市との境付近) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった) - 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿) - 大蔵(嵐山町大蔵) - 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨) - 荒川(寄居町の荒川) - 見馴川(児玉町を流れる現在の小山川) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(児玉町児玉) - 雉が岡(児玉町八幡山) - 鏑川藤岡市高崎市の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻(安中市板鼻) - 松井田(松井田町

江戸名所図会

江戸時代に書かれた江戸名所図会の「十三」には、『堀兼の井戸』の説明文として鎌倉街道の記述がある。これによると、『堀兼の井戸は河越の南、堀兼村にあり、浅間宮の傍にあるため浅間堀兼と称されている。浅間宮の前の道は、古の鎌倉街道で、上州信州への往還道である』とされ、吾妻鏡でいう下道と推定される。

御府内備考

江戸時代文政年間に江戸幕府により編纂された御府内地誌である御府内備考の「四十八 関口」には、『関口村』の総説として鎌倉街道の記述がある。これによると、『関口村は小石川、小日向、牛込等に隣接し、地名の起源は不明であるが、この西に宿坂という地名があり、そこは昔鎌倉街道が通り宿坂の関と言った』とされ、この鎌倉街道とは吾妻鏡でいう中路、奥大道と推定される。

南向茶話

江戸時代寛延4年に酒井忠昌により著された「南向茶話」によると、『王子村の脇に谷村という所があり、畑道の間道が昔の当国の往還道であったため鎌倉海道と呼び伝えられているそうですね、と質問した。これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の青山百人町の西北の方、原宿という所を経て、千駄ケ谷八幡の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、大窪を過ぎ、高田馬場より雜司ケ谷法明寺の脇を通り、護国寺の後ろを通り、現在の中山道を横切り、谷村、滝野川村を経て、豊島村より千住の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名鎌倉海道が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに相模国小田原への往還道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)』とある。

現在の古道・鎌倉街道

「鎌倉街道」という言葉は江戸時代文化文政年間に江戸幕府により編纂された江戸および周辺地の地誌に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が「鎌倉街道」と口伝する道があったことが分かっている。

また、現在の鎌倉街道には「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているものの、これらの言葉の由来については定かではなく、唯一「中道」については吾妻鏡にも鎌倉時代に鎌倉から武蔵東部を経て下野、そして白河へ抜ける道を「中路」と記しており、これが「中道」の語源と推定されている。一方、現代の「上道」は吾妻鏡では「下道」、下道は「東海道」と記されており、吾妻鏡にはこの後者2道の語源と思しき記載は認められない。現在の鎌倉街道・上道は、江戸時代に「上洛の道(上道)」の一道であった中仙道(木曾街道)と並行していたことから、いつしか地元民が両者を混同し、従来の下道ではなく鎌倉街道・上道と呼ぶようになったとの推定があるほか、奈良の道が上道、中道、下道と称されていることから、鎌倉街道についてもいつしか同じように呼ばれるようになった、との説がある。

以下に、現在の鎌倉街道・上道、中道、下道について記す。

上道

現在、鎌倉街道上道(かみつみち)として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、吾妻鏡にある下道である。

鎌倉政庁の公式記録である「吾妻鏡」には「上道」の記述は無く、現在の鎌倉街道上道は「吾妻鏡」に下道として記録されているものに近い。上道には「上洛の道」の意味もあり、江戸時代江戸からに上る『上道』として整備されていた道路のひとつ中山道の存在などにより、これに並行していた鎌倉街道の一路線「下道」が「上道」と呼ばれるようになったとの推定も出来るが、根拠は無い。

中道

現在、鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれているのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、吾妻鏡にある中路である。

経路については、大手中路の鎌倉口として推定されているのが巨福呂坂や亀ヶ谷坂であるが、当時はこれらの道が整備されていなかった可能性もあるとし、奥州藤原氏の怨霊を鎮めるべく頼朝が建立した永福寺の位置などから、二階堂から天園に抜けるハイキングコースを推定する説もある。また、武蔵国南部の経路については、鎌倉から巨福呂坂あるいは亀ヶ谷坂を越えて戸塚方面に向かい、中山を経えて、荏田宿の付近からは、二子玉川渋谷へ続く矢倉沢往還と同じルートとの推定もあるが、諸説ある。

下道

現在、鎌倉街道下道(しもつみち)と定説化されている道筋は、鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされている。ほか、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もある。

古道・鎌倉街道の特徴

  • なるべく平坦な直線距離を取る。
  • 見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
  • 尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。

現況

現在云われている『古道・鎌倉街道』は、鎌倉時代の記録に基づき整理されたものではなく、近世以降の地元民の口伝を整理したものであることは前項より明らかである。近世以降の地元民の口伝に基づく『鎌倉街道』は廃れてしまったものもあるが、逆に拡幅されるなどしたものもあると推察されている。以下に現在の鎌倉街道について概説する。

歴史の道

1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の「鎌倉街道」が含まれている。

鎌倉街道の現況

道路の通称として「鎌倉街道」と呼ばれるものには以下の路線が存在する。詳細は各項目を参照のこと。

その他

口伝により現在『鎌倉街道』と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうち、吾妻鏡に云う下道(現在は上道と呼ばれるもの)に相当する東京都道18号府中町田線(後述)は全体的に旧経路に平行しており、また吾妻鏡の中路ないし奥大道(現在は中道と呼ばれるもの)に相当する神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近までは旧経路をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上していると考えられている。このほかに、市道として断続的に名前が残っている箇所もある(例:横浜市の「かまくらみち」や、東村山市・小平市内などの府中街道に平行するような形態の狭い幅の道路など。その他関東各地に名称が残る)。

大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。

  • 国分寺市府中市の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道
  • 町田市町田宿井出の沢付近から小野路宿付近にかけての旧経路。このうち七国山は「七国山自然歩道(鎌倉古道)」として、「鎌倉井戸」と呼ばれる井戸跡共に保存されている。
  • 上記の小野路宿付近から多摩市南野の一本杉公園にかけて、鎌倉裏街道跡およびその切り通しがあり、整備・保存されている。[1]

脚注

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参考文献

別名

関連項目

外部リンク

  • 「神奈川県都市地図」昭文社
  • 「埼玉県都市地図」昭文社
  • 宇都宮付近では田原街道の田川橋梁が古来「鎌倉橋」と呼ばれており、またこの田原街道を北上すると頼朝奥州征伐の際に奉幣した宇都宮二荒山神社の神官を代々務めた宇都宮一族の中里氏の本領「中里」に至り、中里を東進すると氏家を経て矢板に至ることなどから、田原街道筋は当時の鎌倉街道中路ないしその支路と推察される。
  • 現在、白河関那須町伊王野から北北東に向かった先の福島県白河市旗宿にあり、白河神社がその遺物と考えられているが、芦野は伊王野から北北西に向かう現在の国道294号沿線の地名である。
  • 鎌倉時代源頼朝がこの地を通ったとき、駒(馬)を橋の代わりに用いたことからこの名称が付けられた。