天保の改革

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天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代天保年間(1830年 - 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸でも藩政改革が行われた。

概要

天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉百姓一揆や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動三河加茂一揆、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争モリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。

天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦[1]は天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英水野忠篤美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、水戸藩徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。

天保12年(1841年)に大御所家斉が死去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、重農主義を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行遠山景元矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。

遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。

天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝渕藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]

上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]

天保の改革に先立って、薩摩藩長州藩などの西国雄藩や水戸藩などを中心に藩財政改革を中心とした藩政改革が実施された結果、諸藩は自律的藩財政を運営するに至っており、天保の改革における上知令などは幕府と諸藩経済との間に対立を生んだことも指摘される。

人事刷新

大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕府高官たち

らを始め、多くが処分を受けた。その総計は御目見以上(旗本)で68人、御目見以下(御家人)894人であった。

そして、代わりに以下の人物を登用した。

綱紀粛正

倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の7代目市川團十郎人情本作家・為永春水柳亭種彦などが処罰された。

寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。なお、新吉原の6ヶ所についてはすべて免除されている。また、免除された寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微するが、水野失脚後には息を吹き返している。

特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の網笠着用の強制)、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、1841年(天保12年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行遠山景元の進言によるものと言われている。歌舞伎劇場が市内に戻ってくるのは、1872年(明治5年)まで待たねばならなかった。

軍制改革

阿片戦争で、イギリスに敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。

経済政策

人返し令

幕府への収入の基本は農村からの年貢であったが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。

株仲間の解散

高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとした。しかし株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いた。なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられ、非業の死を遂げている。

上知令(上地令)

上知令を出して江戸大阪の周囲の大名旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化すると共に、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとした。大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わった。

これが3代将軍・徳川家光武断政治の世なら通用していただろうと揶揄され、将軍・家慶からも撤回を言い渡されるほど不評であり、さらに鳥居が反対派に寝返ると、1843年(天保14年)に水野が退陣するきっかけになった。改革の切り札となるはずだった上知令は、かえって改革自体を否定することになった。

金利政策

相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げた。そして札差に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする無利子年賦返済令を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたった。しかし貸し渋りが発生し、逆に借り手を苦しめることになった。

改鋳

また、貨幣発行益を得るために貨幣の改鋳を行った。貨幣発行益を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、それによってマイルドなインフレが発生して景気も良好となっていたが、天保の改革においては以前とは異なり猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招いた[5]

評価

天保の改革が行われた時期には既に幕府の権威が低下してきたこと、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、大奥の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き、失敗と判断された。更に水野失脚後に株仲間が再興されたことで、幕府権力が商業資本の前に自己の政策を貫徹できなかったという、幕藩体制にとっては悪しき先例を残す結果となり、幕府衰退を早めたとする見方もある。

これに対して、同時期に長州藩薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって藩の財政は改善され、幕末には雄藩と言われるほどの力を得ることができた(もっとも、諸藩の場合は行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある)。

脚注

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参考文献

関連項目

  • 水野忠邦(1794年 - 1851)は譜代大名で肥前国唐津藩主家に生まれるが、唐津藩は長崎の管轄を担当するため幕政参与を見込めず、自ら国替えを望み、側用人水野忠成の計らいもあって文化14(1817年)には遠江国浜松藩転封され、寺社奉行となる。その後は大阪城代・西丸老中と出世し、老中首座となる。
  • 鳥居耀蔵(1804年 - 1874年)は儒学者林述斎の子として生まれ、天保8年に目付となり、目付時代には蛮社の獄における詮議を行っている。水野に抜擢されて改革に携わるが、上知令においては反対派にまわり、水野失脚後にも政権に残ったが、水野が老中首座に返り咲くと罷免されている。
  • 上知は水野の失脚により中止されるが、幕領の一円支配化についてはその後も続けられ、関東取締出役の設置や組合村の結成などが行われている。
  • なお、水野は弘化元年に再び老中首座となっているが、後に罷免され、嫡子・忠精に家督を相続させた上で蟄居隠居。その後出羽国山形藩に転封されている。
  • 飯田泰之・春日太一『エドノミクス 歴史と時代劇で今を知る』扶桑社、ISBN:978-4-594-07052-6、p255-256