弘道館

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弘道館の正庁

弘道館(こうどうかん)は、江戸時代後期に日本常陸国水戸藩に作られた藩校である。所在地は、茨城県水戸市三の丸1丁目6番内。

現状

現在の敷地は、すべて「都市公園法」(昭和31年法律第79号)に基づく「都市公園」であり、「茨城県都市公園条例」(昭和32年茨城県条例第26号)において、弘道館公園(こうどうかんこうえん)とされている。茨城県の「弘道館事務所」は、茨城県水戸市三の丸1丁目6番29号にある。

文化財とされているのは、保存されている部分である旧弘道館(きゅうこうどうかん)であり、国の特別史跡に指定されている。なお、その中の正庁・至善堂・正門は、国の重要文化財に指定されている。

なお、「旧弘道館」の建物については、「茨城県都市公園条例」において「有料公園施設」とされ、観覧は有料とされている。観覧料の管理は、「都市公園法」に規定する「公園施設」として、知事部局が行っている。文化財ではあるものの、博物館法における博物館登録博物館)、博物館相当施設とはされていない。

2011年3月11日発生の東日本大震災で甚大な被害を受けた。このうち「弘道館記」を刻む弘道館記碑は2013年に修復が完了したが、その際、1953年修復時に本体背面に施されたコンクリートが除去されてそれ以前の姿にほぼ復元された[1]

沿革

天保12年(1841年)7月に完成し、8月1日9月15日)に仮開館(本開館は安政4年5月9日1857年5月31日))。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた(弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷地であった)。初代教授頭取には、会沢正志斎青山拙斎が就いた。建造は戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の精神が漢文で書かれている。文武両道を教育方針とし、馬術剣道やという武道のほかにも、広く諸科学、諸学問教育研究された。

学問の教育・研究としては、当時広く行われていた人文科学社会科学のほかにも、医学天文学をはじめとする自然科学についても行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育重視がうかがえるといわれている。しばしば現代の総合大学に例えられるが、学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。

明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。慶応4年(1868年)4月、謹慎中の徳川慶喜江戸開城の合意事項に沿って水戸に引き移り、弘道館の至善堂に入った。しかし当時水戸藩では藩主慶篤が病没して藩主不在の混乱状態であり、慶喜が紛争に担ぎ上げられることが予測されたため、7月慶喜は静岡に移った。改元して明治元年10月12日1868年11月1415日)には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。1872年明治5年)12月8日[2]に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。

弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年(1945年8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎水戸塾水戸学院茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで管理を行っている。

また、徳川斉昭の意向により設立当初から多くの梅樹が植えられ、その由来が『種梅記』の碑に記されている。斉昭の漢詩『弘道館に梅花を賞す』には「千本の梅がある」とある。現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられており、梅の名所となっている。 なお、弘道館と同じく梅の名所である偕楽園は、文武鍛錬の藩校に対し、心身保養の場として対に作られたものである。

文学作品のなかの弘道館

  • 森鴎外『伊沢蘭軒』
    • 「花亭の語は詳(つまびらか)でなかつた。由緒書に徴するに、『文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様』と云つてある。」
  • 正岡子規『墨汁一滴』
    • 「その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに水戸弘道館等の画にて二寸位の小き物なれど筆力勁健にして凡ならざる所あり」
  • 島崎藤村『夜明け前・第一部上』
    • 「御三家の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯(ひたちおび)』を書き『回天詩史(かいてんしし)』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人(ひとり)として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。」
  • 島崎藤村『夜明け前・第一部下』
    • 「しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。」

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. テンプレート:Cite news
  2. 弘道館公園 茨城県営都市公園オフィシャルサイトによる。しかし、改暦のため「明治5年12月8日」は存在しない。1872年12月8日は明治5年11月8日であり、明治5年12月8日となるはずであった日は明治6年(1873年1月6日となった。