水戸学

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水戸学(みとがく)は、日本常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問である。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰西郷隆盛をはじめとした多くの幕末志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。

概要

一般的に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校弘道館を舞台とした後期水戸学(こうきみとがく)とに分かれるとされるが、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。

前期水戸学

前期水戸学は、徳川光圀の修史事業に始まる。光圀は、水戸藩の世継ぎ時代の明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内に史局を開設した。紀伝体の日本通史(のちの大日本史)の編纂が目的であった。当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。学派やもとの身分は様々であり、編集員同士の議論を推奨し、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。また、大日本史の三大特筆の中でも、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙らがいる。 元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は停滞した。

後期水戸学

後期水戸学は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。その弟子の幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎藤田東湖豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる。

文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文である。ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂い、幕末の志士たちを感動させるものであり、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。嘉永2年(1849年)、斉昭の藩政関与が許可される。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

なお、弘道館は江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が新政府軍との全面戦争を避け、江戸開城したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためとされる。

明治維新以後

幕末水戸藩は、天狗党の筑波山挙兵(天狗党の乱)をはじめとして、他藩と比肩出来ないほどの多くの犠牲者を出した。徳川御三家であるにもかかわらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなり、水戸藩の悲劇でもあった。しかし、水戸の犠牲の上に明治維新が成り、また徳川慶喜の水戸学に基づく恭順により幕府対薩長という西洋列強の傀儡戦争をも避けたことは、日本の歴史上特筆されることである。後に乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。

明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。また、明治39年(1906年)に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。

現在、水戸学は、茨城県水戸市にある水戸史学会によって研究されている。

参考文献

関連項目