雷波少年
『雷波少年』(らいはしょうねん)は、1998年4月5日から2002年3月31日まで一部日本テレビ系列局で毎週日曜 10:55 - 11:25 (JST) に放送されたバラエティ番組である。
概要
同じく日本テレビ系列で放送されていた『進ぬ!電波少年』の派生番組であり、司会者がいなかったころのオープニングでは「電波少年」のロゴの電の部分に雷が落ちて下の部分が取れ、「雷波少年」になるという演出があった。
番組初期はドロンズが1週間で日本をヒッチハイクで駆け回り、さまざまな社会問題をテーマにしたコントのネタ探しの旅をメインとしていたが、のちにロバのロシナンテが加わり、日本縦断紀行へとシフト。1998年秋以降は『電波少年』の影響からか、若手無名タレントの挑戦企画が放送されるようになる。中でも羽田実加の鉄棒大回転のシリーズは人気を集めた。
また、当時ヒット曲に恵まれなかったSomething ELseは、「雷波少年系ラストチャンス」への参加を切っ掛けにブレイクし第50回NHK紅白歌合戦にも出場した。その影響からか次々と同系統の企画が放送され、Bluem of Youthの「ラストツアー〜約束の場所へ〜」もヒットを博した。
ゴールデン特番として『雷波少年スペシャル』も放送された。なお、正式タイトルとしては『雷波少年は電波少年ではなくて……(この間に長い言葉が入る)……スペシャル』というふうに、新聞のテレビ欄にも収まりきれないほどの長いタイトルだった。単独でのスペシャルは1999年10月まで放送され、それ以降は『雷電為右衛門』など『電波少年』との合同スペシャルだった。
また、この番組は当初は日本テレビ系全国ネットの深夜番組放送枠『ZZZ』での放送を予定されていたが、日曜朝に放送されている『笑っていいとも!増刊号』に対抗しようという土屋敏男プロデューサーの意向から、日曜朝の放送に決まった[1]。
出演者
最初の1年間は司会はいなかったが、SP放送時には当時『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の社交ダンス部に出演していた下記のメンバーが司会を担当。なお電波少年にて司会を務めた松本明子は、本番組には基本的に出演しなかった。
司会(レギュラー放送)
- チューヤン
- ロシナンテ
- チューヤンが電波少年の「80日間世界一周」に参加していた際の代理として出演。セリフは編集者による吹き出しだった。
- 小田好美(「ジャイ子」名義、2000年10月 - 降板時期不明)
- 番組企画「熱狂的巨人ファンVS中日ファン2000」で優勝したため、ご褒美として司会に抜擢。
- 坂井香代子(登板時期不明 - 2002年3月)
- ゴミ生活の旅終了後から番組最終期までチューヤンと共に司会を担当した。
司会(特番)
主な企画
『電波少年』の電波少年的に倣い、企画のタイトルには雷波少年系と付けられていた。
ドロンズ関連
- ドロンズ企画
- 初期の数週間のみ。ドロンズが1週間で日本をヒッチハイクしてテーマに合ったコントのネタを探してくる。テーマは社会問題を扱ったものが多く、身の回りで何があっても大丈夫なように携帯電話(ただし番号が1と0しかなく、警察に通報するための連絡手段しかなかった)が与えられた。1週間後にコントを披露し、コント終了後にスタッフから来週のテーマが発表された。
- ドロンズのドンキホーテ!日本を行く!
- 『電波少年』で行われていたヒッチハイク企画と同様に、ドロンズが『ドン・キホーテ』の登場人物に扮しロバの「ロシナンテ」と共に日本列島をヒッチハイクしながら進む。このロシナンテは、当初ドロンズが「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」中にペルーで出演したテレビ局のプロデューサーに連れて来られたペルー産のロバとされていたが、実際には北海道産で、番組が購入したものであることが後日発覚した。これに対し日本テレビは「バラエティ番組の演出の範囲内で一種のシャレの範囲」と説明したものの、当時の郵政省から事情聴取を受ける羽目になった。のちにロシナンテは「木村嘉夫」(きむらよしお)という名前が与えられ、2009年現在は田中義剛が経営する花畑牧場で暮らしている。
雷波少年系熱狂的巨人ファンシリーズ
テンプレート:Main 都内のある一室で、巨人をメインにファンであるチームを応援しながら生活する企画。放送では参加者の顔は隠されており、チームの勝ち負けに応じて食事が抜きになったりリクエストできたり、部屋が広くなったり狭くなったりと待遇が変わっていく。
雷波少年系アジアの歌姫(雷波少年系カリブの歌姫)
女優の室井滋が、演歌歌手役で出演した映画(のど自慢)で歌った歌のカセットテープを、アジア各国へ自ら売り歩く企画。スタートはタイのドエンカ(ど演歌)村。行き先は目隠しした状態でダーツを行い、用意した地図に矢が刺さった国を渡り歩く事が決められていたが、企画終盤に投げた矢がアジア圏内を大きく外れてカリブ海周辺に当たってしまい、急遽、『雷波少年系カリブの歌姫』と企画が変更される。だが、室井が仕事の都合で帰国する事になり、この企画は中止となった。一応、日を改めてカリブの歌姫を再開すると解説はあったが、その内容は室井がロシアへ向かって、目隠しをされたままカリブーにのった後、悲鳴を上げるという(「カリブー、乗った、悲鳴」)ダジャレ企画であった。なお、カリブの歌姫は後述のラストツアーを行うBluem of Youthに室井がカレーの差し入れを行う企画へつなげるためのものであった。
ラストシリーズ
最終回まで全4回放送。企画発表時に過大なノルマが課せられ、それを達成できないと即解散、現職から足を洗わなければならないルールであった(第4弾を除く)。
- 雷波少年系ラストチャンス
- 「ラストシリーズ」の第1弾で、デビュー3年目のSomething ELseが挑戦。3カ月の合宿生活の中で運命の1曲を作り、その曲がオリコン初登場20位以内に入らなければ即解散および音楽業界から足を洗うというルールだった。1998年12月23日に運命のCD「ラストチャンス」が発売され、20万5340枚を売り上げ1999年1月6日付のオリコン初登場2位(その週の1位は産休から復帰後の安室奈美恵。またこの週ボーダーラインとなる20位の売上は2万6500万枚だった)を記録。これによりユニットの存続が決定した[2]。ちなみに「ラストチャンス」は初登場の翌週にはオリコン1位を記録し、最終的にはミリオンセラーとなり第50回NHK紅白歌合戦にも出場した。
- 雷波少年系ラストツアー
- 「ラストシリーズ」の第2弾で、デビュー5年目のBluem of Youthが挑戦。半年でシベリア鉄道を横断し、その間に運命の1曲を作り日本武道館で公演を行うことが目標とされ、10000人(武道館の客席の約7割)の観客動員がなければ解散し音楽業界から足を洗うというルールだった。最終的に行われた公演では平日の公演にも関わらず目標を上回る2万人近い入場(1回目の公演では11427人が武道館に入場)を記録し、本来は1回だけの予定であった公演も、3万人近くの人が会場に集まったため急遽2回目が行われるという事態となった(2回目の公演でも1万人以上の観客を動員した)。また、武道館公演で披露された運命の1曲「ラストツアー」は企画終了後CD化され、サムシングエルスの運命の1曲「ラストチャンス」と同じオリコン初登場2位を記録した。
- 不良芸人更生施設 雷波少年院(ラストコント)
- 番組プロデュースの娯楽企画でナンパをし、さらに『進ぬ!電波少年』の企画「電波少年的ハルマゲドン」を途中で投げ出して逃げたポプラ並木が懲役10年の刑で収容。コントで得たカンパ金100円支払えば1日刑期が短縮されるというルール。網走市からスタートしたが、番組の企画が周知されると善意による大量のカンパを防ぐため、何度か移動を繰り返し、秘境である西祖谷山村でいったん落ち着いた。
- しかしあとわずかという刑期で脱走を計り、刑期が20年に延長される(スタッフ側もおもしろ半分で牢獄を開放するなど、脱走をけしかけるような環境を作っていた)。一時期韓国へも舞台を移したが、早期の釈放を望んだ2人のためにラストコントを決行し、「不良芸人更生施設 雷波少年院 運命のラストコント」が開始。ラストコントで失敗し、カンパが刑期分集まらないと懲役が200年になるレイプ刑となる予定だったが、見事達成し釈放された。
- 雷波少年ファイナル企画ラストソング
- タイトル通り、雷波少年最後の企画。日韓共催で行われた2002 FIFAワールドカップにちなみ、熊本県出身のアマチュアバンドメンバー鳴海一幸、韓国人女性グループJEWELRYのリーダー、パク・ジョンアー、在日韓国人3世の秦昌寛(チン・チャンガン)の3人がバンド「Asian H」を結成、シンガポールからソウルへ向かう過程で曲を作り、ソウルでのライブで披露する企画。最終回となった『雷電為右衛門千秋楽』ではSomething ELse、Bluem of Youthと共にライブを行った。この企画で作られた「LAST SONG」は日韓ワールドカップ公式アルバムに収録された。また、この企画は韓国SBSでも同時放送された。音源は現在ソニーミュージックに版権があり、Moraで配信されている。
Do-Yoのミセスロシナンテを探して
Do-Yo(後のどーよ)が3歳になったロシナンテ(人間でいうと20歳)の結婚相手となるメスロバを探すという企画。まずヒッチハイクで日本全国の牧場を巡り6頭の花嫁候補を選出。その後花嫁候補が一堂に会しロシナンテ自ら花嫁を選ぶいう流れで行われた。ロシナンテは鹿児島県内の牧場で暮らしていた「リンリン」(当時3歳)を選び、番組内で挙式が開かれた。現在はリンリンはロシナンテとともに北海道中札内村の花畑牧場(牧場長はタレントの田中義剛)で暮らしている。
- ロシナンテJr.誕生プロジェクト
- 「ミセスロシナンテを探して」終了から約1年半後に行われた。どーよがロシナンテとリンリンの子作りのサポートをするという企画。途中からロシナンテと共に日本を旅したドロンズも合流した。
電波少年司会決定記念 雷波少年系ジャパンツアー
1999年1月からチューヤンが「進ぬ!電波少年」の新司会者に決定したため、日本をもっと知ってもらおうという趣旨。毎週、日本のどこかに連れて行かれ、ヒッチハイクなどでの1週間後の日本テレビの「電波少年」の収録に間に合うようにするという企画。唯一電波少年と連動した企画だった。毎回東京には時間までには着いたものの、1回だけ日本テレビに早く来すぎて時間つぶしで社内で仮眠をとっていたところ寝過ごしてしまい、収録に遅刻したことがあった。そのとき「(旅先だった)青森遠いよ。」とウソをついていた。
旅先ではチューヤンが何枚か絵を描いており、番組で描かれた絵は、チューヤンがゲスト出演した「ポンキッキーズ」の中で何枚か公開されたことがある。
雷波少年系ゴミ生活(の旅)
メカドッグ(沢原宣之・杉山えいじ(現・スギちゃん))と地球防衛軍レッド(坂井香代子)が日本の随所にある不法投棄のゴミを片付けながら旅をするという企画。当初は空き地で生活しつつゴミを修理して売り、その売り上げが100万円に達した時点でゴールという企画であった。岩手県では県の対応[3]に視聴者からの抗議が殺到し、当時の県知事の増田寛也が県のホームページ上で謝罪のコメントを発表、記者会見も開かれる事態となった。最終的に片づけを行った場所がすべてきれいなままであることを確認(ただし、3ヶ所目に片付けを行なった徳島県徳島市のみ、また元のゴミの山に戻ってしまっていた)し、ゴール。この企画を最後にレッドは地球防衛軍から引退。Tプロデューサーこと土屋は編成部長に就任し、以後「T部長」として活動することになる。
雷波少年系鉄棒少女
運動音痴の羽田実加が夢の大車輪をできるようにするため体力・筋肉トレーニングなどをする。最後まで正体は明かされなかったものの、正体はバレバレであったが、大車輪仮面として森末慎二がコーチとしてついていた[4] 。食事はトレーニングで消費したカロリーと同じ量が与えられる。途中からは基礎代謝分のカロリーを摂取するため、番組特製ドリンクが毎日与えられることになった。中国での特訓を経て見事大車輪は成功した。
鮒子のVIVA★特売!
「人は特売品だけで生きていけるか?」をテーマに行われた。椿鮒子が関東各地から集められたチラシからその日の特売で一番安い食材を自転車を飛ばして買ってくるという内容。くじ引きでその日の料理を決め、食材を買いに出かける。ゴールは浮いたお金の合計がディズニーランド家族4人分の入園料となったとき。どこか1件でもお店が閉店してしまったり、閉店してなくても希望の食材が売り切れ、あるいは一番安いもの以外のを買ってきてしまった場合は残りの食材と一緒に没収されてしまう(手に入った食材分の浮いた金額はカウントされる)。特売品であれば食材以外のものもOKで、ドライヤーのような電化製品も購入していた。東京ディズニーランドの入園料となったときに一旦終了。ごほうびでディズニーランドへ行くことに。しかし、ディズニーランドは東京ディズニーランドのことではなく、ディズニーランド・パリであった。実際にパリに連れられた鮒子はディズニーランド・パリの入園料は東京ディズニーランドの入園料よりも安いが、着く直前で鮒子が「お腹が空いた」と言ったためスタッフがわざわざハンバーガーと飲み物を鮒子+マネキンの家族3体分を鮒子が集めたへそくりで払ったため、結果現地でも企画を行うこととなった。
- 鮒子のVIVA★タダ食い!
- 鮒子がフランスから帰国直後に引き続き行われた企画。鮒子が結婚式場へ出向き、欠席者分の食事目当てに結婚披露宴へ参加しながら自転車で鹿児島から北海道まで向かうという企画。結婚式場では欠席者分の食事は衛生上の観点からそのまま捨てられてしまうためもったいない、という理由で始まった。企画の性質上、見ず知らずのカップルの披露宴に出席することになるが、鮒子がカップルに感情移入してしまい、号泣する一幕もあった。ゴールの稚内では自身の結婚披露宴を行った。結婚相手の通称鮒男は長年の交際があった放送作家である。鮒子は一連の企画で半年間自転車をこぎ続けたことでかなり脚力が鍛え上げられたようで、『タダ食い』では列車と並走する姿も見られた。
雷波少年系夫婦交換(もちろん精神的に)
お互いの関係に悩む2組の夫婦がそれぞれのパートナーを入れ替え1ヶ月間の共同生活を行い、その中で自分たちの関係を見つめなおすという企画。共同生活中は外出や通勤は普段どおり可能だが、元の夫・妻とは一切連絡が出来ない。ただ部屋にあるモニターでお互いの様子を知ることは出来る。2組のうち1組はお笑い芸人ウクレレえいじとその妻で、もう1組はこれから結婚を控えている一般のカップルだった。企画のラストでウクレレえいじの妻が「あと1年頑張ってそれで売れなければ離婚」という決断を下したことが「ウクレレ夫婦旅」につながっている。
- あゝ日本海、ウクレレ夫婦旅
- 「夫婦交換」の派生企画。上記のウクレレえいじの妻の決断が発端となっている。ウクレレえいじ夫妻が10月から3ヶ月間日本海の沿岸を旅しながらウクレレのライブを開き、ライブの総動員数が年内に1万人を超えないと2人は離婚しなければならないというルールだった。最終的に総動員数は1万3000人程度となり離婚は免れた。
雷波少年刑事
「電波少年刑事」から継続された企画で、ビビるの上司として「刑事長ロバコップ」ことロシナンテが出演した。それまでの企画でも見られた、企画開始時の参加者の拉致であるが、本企画では電波少年のスタッフルームで目隠しをされたビビるが、局内のエレベーターに乗って雷波少年のスタッフルームに連れて行かれるという、最も短い距離の拉致となった。
雷波少年系遊園地『後ろ楽しいガーデン』
チューヤンが遊園地をプロデュースするという企画で、1999年夏季に後楽園ゆうえんち(現:東京ドームシティアトラクションズ)のイベント「ルナパーク」をプロデュースした。「後ろ楽しいガーデン」は当時まだ日本語に乏しかったチューヤンが後楽園を「後ろ楽しいガーデン(garden=園)」と呼んでいたことに由来する。この開催期間中、スタッフとして参加していたポプラ並木は来場者のカップル成立の役目を放棄。逆に来場した女性をナンパしていたことが発覚し、以前の電波少年での脱走とリタイヤの前科もあって、前述の「雷波少年院 運命のラストコント」へとつながることになった。
- ミラクルラブアンドホラー
「後ろ楽しいガーデン」に続く雷波少年による遊園地プロデュース企画第2弾。2000年夏季に日光江戸村内でアトラクションを展開した。今回は企画名通り『ホラー』を前面に押し出しており江戸村を巨大なお化け屋敷に見立てるという物だった。なお、この企画のスタッフとして参加した若手芸人にはのちにゴミ生活をすることになったメカドックや電波少年の東大一直線に参加したアルカリ三世もいた。
なお2001年夏季は千葉県船橋市のららぽーとにて「日本一センスのいい人選手権」が行われていたため遊園地プロデュース企画はなかった。
雷波少年系究極の麺ロード
麺料理が存在する国や地域を繋げると完成するという「麺ロード」(番組が命名)を旅し、各地の麺料理を学びながら最終的に「究極の麺料理」を2000年の大晦日までに完成させることを目指す。番組内で本職の料理人の公募も行われたがオーディションの結果、お笑いコンビのタイムトラベラーが挑戦した。タイムトラベラーが選ばれた理由は森田の味覚や料理の腕が優れていたため。
企画においてはゴールまで麺料理以外のものを一切食さないことを二人が約束し、約1年かけてイタリア・ギリシャ・アゼルバイジャン・ウズベキスタン・タイ・カンボジア・中国などを旅し、最終的にオリジナルの究極の麺料理として「遥かなる麺ロード」を完成させる。大晦日に行われる試食会で約2000人が試食をし、過半数が「おいしい」という評価を下したら本当のゴールということになったが、結果的に1289人がおいしいという評価でゴールとなった。
この企画の放送中、2人が学んだ麺料理のレシピ本が出版された。
番組では麺料理専門店を開店させることを伝え、求人情報誌では求人募集をしていたが、結局、麺料理専門店は開店しなかった。
NNS系列局での放送
- 札幌テレビ
- 番組開始当初から同時ネットで放送されていたが、「YOSAKOIソーラン祭り」の特別番組放送時に限り時差ネットで放送されていた。2001年10月以降は自社製作番組『北、再発見』がそれまでの7時台後半からこの時間帯に移動したため同日時差ネット放送(13時台)となった。
- 青森放送
- 番組開始当初は非ネットであったが、スーパージョッキー終了後の1999年4月から、同番組が放送されていた日曜13時に時差ネットで放送を開始した。
- 北日本放送
- 青森放送と同様に番組開始当初は非ネットであったが、1999年1月から木曜深夜に11日遅れで放送を開始し、4月からは日曜13時から同日遅れネットを開始。さらにその後の改編で日曜17時台に移動した。
- 読売テレビ
- 開始当初は土曜深夜に放送されたが、1999年4月から日曜12時台後半での時差ネットに変更した。同時期にスーパージョッキーが終了して電波少年を日曜11時後半から13時前半に移動させたので、同局では電波少年シリーズ2番組が連続で放送されることになった。
- 広島テレビ
- 青森放送などと同様に番組開始当初は非ネットであったが、開始から半年くらいから2週遅れでネットを始め、そこから1週遅れに短縮、同時ネットと段々変わっていった。
DVD
- 2010年4月9日に第1弾が発売され、2010年7月23日には第2弾が発売。詳しくはこちらを参照。
関連項目
外部リンク
- 電波少年企画リスト(ファン作成)
※2013年11月21日から、雷波少年 公式サイトのサービスは終了。
脚注
- ↑ 『ザ・テレビジョン』で土屋本人がコメント。
- ↑ その後、2006年10月22日に解散した。
- ↑ 岩手県西根町(現在の八幡平市)を流れる松川の川辺にあった大量の不法投棄を片づける際に、ごみの引き取りが有料になるテレビや冷蔵庫といった家電製品や古タイヤなどの引き取りを無料で引き受けてもらえるよう杉山(現スギちゃん)が西根町に交渉するも、不法投棄されていた場所が県の管轄であるために県庁行って交渉するよう諭される。その為岩手県庁に向かい再び事の次第を説明し協力を求めるも、部署が違うと担当する部署に行くようたらい回しにあい、担当部署に行き三度説明をし協力を求めることになった。しかし、非協力的な対応でいわゆるお役所仕事に杉山もキレてしまう。最終的に、協力を得られたものの、結局引き受けることになったのは最初に交渉した西根町であり、行政に振り回されることになった。
- ↑ 1回だけ、大車輪仮面の奥さんも登場した。