増田寛也
増田 寛也(ますだ ひろや、1951年12月20日 - )は、日本の建設官僚、政治家。
岩手県知事、総務大臣(第8代・第9代)、新しい日本をつくる国民会議副代表などを歴任。
概要
東京都出身。父は農林官僚で参議院議員を務めた増田盛(ますださかり)。九品仏の農林省官舎で育つ。父が退官したのちは小山台に転居。東京都立戸山高等学校に進学するが、学生運動が盛んな時期で、授業には余り出席せず、本を読んで過ごした。卒業式では仲間とともに壇上で暴れ、式を中止させた。
高校卒業後は、予備校に通い、2年間の大学受験浪人生活を送り、1972年東京大学入学。東京大学法学部4年時には、2年間浪人しているため民間企業への就職は厳しく、旧司法試験も難関であったため、大学の定期試験を受けずに1年留年し、国家公務員試験を受験し、建設省に入省[1]。
1982年から千葉県警察本部交通部交通指導課長に出向し、ひき逃げ事故の捜査などにあたった。また射撃訓練に熱中し、柔道段位も取得。結婚もした。1986年から、建設省の先輩にあたる知事・竹内藤男の下、茨城県企画部鉄道交通課長を務め、4年半首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス建設の準備を進め、鈴木俊一東京都知事の説得などにあたった。1993年から建設省河川局河川総務課企画官を務め、大蔵省総括主査の香川俊介と共に、ダム削減のため技官との交渉にあたった[2]。
国政選挙への出馬打診は断っていたが、1994年岩手県知事選出馬を決意。建設省上層部や妻の反対を受けたが、夫婦に子供がなかったことから落選しても何とかなると妻を説得し、退官した[3]。小沢一郎らの支援を受け1995年に当選。岩手県知事在任中は、2期目から小沢一郎と決別し、宮城県知事の浅野史郎や三重県知事の北川正恭、高知県知事の橋本大二郎などと親しみ、改革派知事の代表格として知られた。第1次安倍改造内閣、福田康夫内閣、福田康夫改造内閣では知事出身の民間閣僚として地方再生に取り組んだ。
略歴
経歴
- 1964年 - 東京都世田谷区立九品仏小学校卒業
- 1967年 - 東京都世田谷区立尾山台中学校卒業
- 1970年 - 東京都立戸山高等学校卒業
- 1972年 - 東京大学入学
- 1976年 - 国家公務員上級甲種試験合格
- 1977年 - 東京大学法学部卒業。建設省入省
- 1982年 - 千葉県警察本部交通部交通指導課長
- 1986年 - 茨城県企画部鉄道交通課長
- 1993年7月5日 - 建設省河川局河川総務課企画官
- 1994年7月1日 - 建設省建設経済局建設業課紛争調整官
- 12月5日 - 退官
政歴
その他公職
- 2006年
- 4月 - 郵政民営化委員会委員
- 7月 - 官民競争入札等監理委員会委員
- 2007年4月 - 地方分権改革推進委員会委員長代理
- 2009年
- 2010年11月30日 - 内閣府原子力委員会新大綱策定会議構成員
- 2012年11月27日 - 社会保障制度改革国民会議委員
- 2013年7月17日 - 郵政民営化委員会委員長
- 2013年10月18日 - 内閣日本経済再生本部産業競争力会議委員(第2次安倍内閣)
- 2014年6月 - 東京電力株式会社取締役
知事としての政策
岩手県知事工藤巌の病気再選不出馬を受けた選挙で、当時新進党幹事長の小沢一郎に見出され、官僚を辞して立候補。自民党推薦で前副知事の佐々木浩や日本社会党県本部長の小野信一を破って初当選した。当選後は反小沢のスタンスに転じた。
提唱した政策理念
県庁株式会社
増田は県政を企業経営に見立て、県庁を「県庁株式会社」呼ぶなど、政策に効率を持ち込んだ。相互依存=相互友愛としての公共空間「地方」というこれまでの理念を排し、サービス会社=県庁と、顧客=県民という二項対立図式に基づく地方自治理念の改革論者として知られる。しかし、構想のほとんどは実行されず、単なる掛け声に過ぎなかった(岩手日報特集「検証増田県政」)。
がんばらない宣言
ベストセラーになった鎌田實の「がんばらない」をいち早く取り入れて宣言を出した。「がんばる」という言葉は、日本の経済成長一辺倒の象徴であるとし、「岩手はがんばりません」という言葉を「自然体に生きて行こうという意識の象徴」として、「岩手県は、経済成長一辺倒を反省し、より自然に、素顔のまま生きていけるような取り組みを推進します」(県の出した広告より)としている。ただし、内向けには「がんばります」がスローガンとなっている。
宣言は、例えば地産地消を基本とするスローフード的な食の安全の推進などの政策となって現れた。
政策
増田は任期前半には積極的な公共投資を行い、任期後半に、財政再建に舵を切った。増田の任期前半は、国が景気対策の公共投資を推進した時期と重なり、一方の任期後半は、小泉内閣の発足に伴い、公共事業費の大幅な縮減が断行された時期と重なる。以下に詳述する。
任期前半の積極的公共投資
増田は全国的な公共事業拡大の流れに乗って公共投資を拡大させ、1997年度予算でピークを迎えたが、2001年に発足した小泉内閣は公共事業の大幅な縮減をはかり、岩手県予算でも2002年度以降、公共投資予算は年10%以上のスピードで縮減された。増田は知事退任後の取材に対し「国の財政的限界で…(中略)…いずれ公共事業に予算が回らなくなるのはわかっていた。だから、東北新幹線や花巻空港、釜石自動車道など(骨格的な事業)は、先にやってしまおうと思った」と答えている[4]。
任期後半の財政再建
増田は2003年の選挙で、「2年で公共事業を30%削減する」との公約を掲げて3選された。その後、財政再建を推し進め、県債発行を返済額以下に抑える「プライマリーバランスの黒字化」、行政経費削減のための職員給与カット、県職員削減、公共事業の縮減、地方振興局の再編などを実行した。テンプレート:Main
海外視察
知事時代は積極的に海外視察を行った。フィンランドではノキアを、スウェーデンではエリクソンをそれぞれ短い時間ではあるが訪問した。また、バリ島の観光視察、ニューヨーク岩手県人会との懇談、パラグアイ訪問、イグアスの滝で有名なイグアス岩手県人会の懇談など、精力的な知事外交を展開した。
県内企業の輸出は停滞し、県内主要港湾からの輸出額がゼロの年すらあり、知事の姿勢が批判されたこともあった[5]が、3期目の後半に中国大連との交易が活発になり、知事外交の成果が現れてきている。
競馬組合への融資
財政再建
およそ1兆円の債務を抱える財政を再建するため、2002年度の予算以降、歳出削減策を次々に打ち出した。岩手県の予算規模が5年以上連続して減少するのは初めてのことで、その徹底した削減ぶりがうかがえる。9028億円(2001年度)だった予算総額は、7300億円(2006年度)に激減。公共事業費に至っては、2300億円(2002年)→1300億円(2006年)になり、その他の項目も、警察費や雇用対策費などを除いて軒並み大幅に減額された。ただし、この緊縮財政は市町村補助金の激減を招き福祉予算も大幅に削減されたので、一部から社会的弱者の軽視という不評の声も上がった。
財政悪化の原因
財政悪化の原因について、増田は2005年3月2日の岩手県議会本会議で、「財政悪化の原因は3つある」と指摘したうえで、「このような結果を招いたことを深く反省している」と陳謝した。
- 1.岩手県立大学の設立・東北新幹線の延伸工事
- 2.公共事業の連発
- 3.臨時財政対策債の発行
人件費の削減
増田県政は職員の削減も進め、早期退職制度の創設や、職員新規採用の抑制・県職員の給与カットなどを行った。これまでに、約5000人いた県職員を4700人規模にまで純減させたほか、今後さらに700人を削減する計画を決めた。
なお、この削減は知事部局のみが対象ではなく、警察本部、教育委員会にも、定員純減を要求。県庁の業務に「トヨタ方式」と称してコンサルタント業者の提案を受け入れ、業務の必要性や民間委託の可否を検討させたり、指定管理者制度を活用したりと、業務の効率化も推進しようとした。 増田は会見で「仕事量を減らさずに人数を減らしても、それは職員一人当たりの負担が増すだけだ」と述べていたが、県職員の労働の加重は昂進したという指摘もあった。なおこの「トヨタ生産方式」は、トヨタとは無関係のコンサルタント業者に委託して立案されたもので、トヨタ自動車で行われている「トヨタ方式」ではない。 増田氏の次に知事となった達増拓也は、知事就任直後に、このトヨタ方式を凍結した。
黒字の達成
上記のような徹底した削減に務めた結果、岩手県は、プライマリーバランスの黒字化(その年度に新たに発行する県債の額が、その年度に返済する額を下回る結果、借金の残高が減ること)を達成した。政府は「2010年初頭までに黒字化する」と公約していることから、単純比較で政府よりも10年前後早い黒字達成となった。
市町村との関係
岩手県の人口は、年を追うごとに減少傾向が続いており、現在は140万人を割る事態に至っている。そのため、人口が1万人に満たず、かつ地理的条件により合併ができない小規模町村が県内に散見され、都道府県と市町村の役割分担の態様の見直しが求められている。
大合併に対して
平成の大合併に対しては、概して積極的ではなく、「合併は市町村間の合意によるべき」とのスタンスを取った。ただ、いわゆる市町村合併のモデルプランは示した。
2006年4月に施行された新合併特例法は、都道府県知事が小規模市町村に直接合併勧告を行う制度が設けられたが、これについては「合併に関して勧告するかどうかは地域事情によると思う。自主合併をベースに自分なりの判断をしていきたい」(2003年11月19日定例記者会見)と述べた。
盛岡市との関係
盛岡市の運営は、県知事であった増田の職権とは直接的には関係ないが、同市が当時目指していた中核市移行などは県の権限に関わる事案であるため、便宜上ここにまとめる。
県庁所在地の市長と知事の関係は、一般的に微妙になりがちとされるが、別段そのような事はなかったとされる。盛岡市長の谷藤裕明は、岩手県議会議長だった人物で、増田とも親しい。なお、盛岡地域の人口について増田は「(全県的に人口減少が続いているが)せめて盛岡地域の人口は現状を維持してもらいたい」と述べている。県が示した合併プランによれば、盛岡市は岩手郡雫石町、滝沢村、紫波郡紫波町、矢巾町と合併し、人口50万人程度を目指すのが適当としている。もし実現すれば、広大な面積の人口密度の希薄な自然豊かな県都の出現となる。
盛岡市は、2006年1月に岩手郡玉山村を編入合併し、政令指定都市に準ずる権限委譲を受ける中核市の要件(人口30万人)を満たした。増田は、岩手県知事として中核市移行に同意し、総務大臣へ指定を申請した。奇しくも、政府内手続きを終え、盛岡市の中核市指定が決まった時、増田は総務大臣を自らつとめており、知事として中核市指定の申請を行い、大臣として自らの申請を決裁したことになる。
地方分権に対する姿勢
官僚出身の知事としては珍しく、地方分権に極めて積極的なスタンスを取った。
「国→都道府県→市町村」への権限委譲を主張し、全国知事会会長選挙に立候補して「闘う知事会」を主張。また、全国紙に論説を寄稿したり、県の権限を「パッケージ」単位にして、市町村へ積極的に委譲した。小泉純一郎首相(当時)の推進した三位一体改革の理念には賛同したが、その地方分権・税源移譲の程度は「不十分なもの」と指摘し、「霞ヶ関によって改革が骨抜きにされた」と述べている。道州制導入に積極的な態度を示し、実際に働きかけてもいた。
退任
総務大臣として
2007年8月27日、第1次安倍改造内閣において総務大臣・内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)、郵政民営化担当、道州制担当、地方・都市格差是正担当に就任した。就任挨拶で増田は、「総理から『地方の元気を引き出すように』と指示を受けた。地域間格差の解消に積極的に取り組みたい」と述べた。
地方交付税特別枠の導入
政治資金収支報告書記載ミス
ネット上の犯行予告に対して
人物像
父は、奥州市出身の元・参議院議員増田盛(自民党)。尊敬する人物は新渡戸稲造。身長182cm、体重77kg。血液型はA型。趣味はサッカーなどのスポーツ観戦や乗馬、スキー、カヌー、サイクリングなど。テンプレート:要出典範囲。また、2001年の東京都のホテル課税問題については、知事自身がほぼ日刊イトイ新聞に鳥越俊太郎宛のメールを送っている[6]。
脚注
関連項目
- 岩手県知事一覧
- 建設省
- 21世紀臨調(新しい日本をつくる国民会議)
- 地方の時代(地方分権)
外部リンク
- 増田寛也(公式サイト)