米子市民球場

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テンプレート:野球場情報ボックス 米子市民球場(よなごしみんきゅうじょう)は、鳥取県米子市米子市東山運動公園(どらやきドラマチックパーク米子)内に所在する野球場。施設は米子市が所有し、平井工業が指定管理者として運営管理を行っている。

施設命名権売却により、呼称をどらドラパーク米子市民球場としている(詳細は後述)。

歴史

米子市内には米子市営湊山球場があるが、施設の老朽化が著しくなり、近代的な野球場を建設する声が高まったことから建設が決定され、1990年平成2年)6月に市東郊の東山公園内に完成。鳥取県西部初の、本格的な夜間照明設備を有する野球場である。

完成以降、山陰両県でプロ野球の一軍公式戦が開催されるのはこの米子市民球場が唯一である。1999年(平成11年)以降、広島東洋カープ主催の公式戦が概ね2、3年おきに一カード2試合開催されている(対戦相手は阪神タイガースがほとんどだが、2006年のみ中日ドラゴンズ)。この他、1992年(平成4年)からはオリックス・ブルーウェーブが不定期に主催試合を行っていた。ウエスタン・リーグイースタン・リーグの試合も行われた。

両翼が92メートル、中堅が120メートルと、1990年代に完成した野球場でありながら国際規格を満たさない狭隘なグラウンドであり、この点を問題視する関係者も少なくない(阪神甲子園球場ラッキーゾーンがあった時代の公称値とほぼ同じになるよう設計されたため)。

コンサート会場に使われたことが一度もない(近隣にマンションがあるため騒音迷惑になるので使用は許可していない)。

主なエピソード

  • 1993年(平成5年)5月25日に行われたオリックス・ブルーウェーブ近鉄バファローズ戦は、オリックス・野田浩司、近鉄・野茂英雄という当時の両エースが先発投手を務めた。投手戦を繰り広げ、2人とも延長12回を完投、2対2の引き分けに終わった。
  • 1999年(平成11年)5月19日に行われた広島東洋カープ阪神タイガース戦にプロ初めて先発投手を務めた阪神・井川慶は6回を投げ、4安打5四球と荒れ模様ながらも2失点にまとめ、プロ初勝利を記録した。なお、この試合で阪神の野村克也監督は、その後何度か用いることになる、遠山奬志に一塁を守らせて伊藤敦規を救援投手に使う、遠山-伊藤-遠山のリレーを初めて使った。
  • 2000年(平成12年)5月9日に行われたオリックス対近鉄戦は、試合前から発生していた霧に見舞われる中で強行された。1回裏にオリックスが打者14人で8点を先制すると、2回表に近鉄が打者11人で7点を取り返すという、序盤から打ち合いの展開となった。しかし試合中盤の5回裏一死、ボールが全く見えなくなったことから審判団が試合を中断、61分間の中断を経てコールドゲームが宣告され、10-8でオリックスが勝利した。この試合でオリックスの先発投手を務めた川越英隆は5回表無死の時点で降板したが、試合が5回裏途中で打ち切られたため白星が転がり込んできた[1]。この試合以降2013年まで、公式戦が濃霧によりコールドゲームとなったケースはこれが唯一である[2]
  • 2004年(平成16年)の全国高等学校野球選手権鳥取大会秋季中国地区高等学校野球大会では、後に日本テレビアナウンサーとなる当時高校生の上田まりえウグイス嬢を務めた。
  • 2006年(平成18年)には、広島東洋カープ中日ドラゴンズ2連戦が行われた。
  • 2007年(平成19年)には5月に広島対阪神タイガース2連戦が行われた。1戦目先発投手は広島が大竹寛、阪神が下柳剛で広島が勝利を収めた。2戦目は雨が降る悪天候の中、広島・青木高広、阪神・福原忍の両先発投手でまたも広島の勝利。青木高はこの試合でプロ初勝利を収めた。この年の阪神は広島相手に苦戦し、対広島戦は2001年以来の負け越し(9勝14敗)に終わった。
  • 2010年(平成22年)6月22日、23日には、再び広島対阪神2連戦が行われた。1戦目の先発投手は2007年の1戦目と同じく広島が大竹、阪神は下柳。この試合は接戦の末、阪神が延長11回表に桧山進次郎の2点二塁打とマット・マートンの本塁打で6得点を挙げ阪神が勝利した。2戦目の先発投手は広島がエリック・スタルツ、阪神がジェイソン・スタンリッジで阪神の勝利。
  • 2014年(平成26年)5月13日、14日には4年ぶりに本球場でプロ野球公式戦、広島対阪神戦が開催された。初戦の13日は地元・米子出身の九里亜蓮が凱旋登板し、大声援で迎えられた。白星こそつかなかったものの、九里は7回1失点と好投した。球場には九里の祖母と母、妹に親族10人ほどが観戦に訪れた。試合は延長12回裏、梵英心サヨナラホームランを放ち、広島が2-1で勝利した[3]。試合中、カープファンが「米子には海あり山ありアレンあり!」というメッセージを掲げた。阪神の先発藤浪晋太郎はプロ入り後初の地方球場での登板となった。翌14日は広島小野淳平、阪神岩田稔が先発。阪神タイガース大和が一軍通算1172打席目に当たる第2打席で、プロ9年目にして初めての本塁打を放つなど、4-3で阪神が勝利した[4]

施設命名権

米子市では財源確保などを目的として、2008年(平成20年)8月1日から9月30日までの間、当球場が所在する東山運動公園と、米子市美術館米子市立図書館が所在する美術館・図書館エリアの2箇所の愛称を対象に施設命名権の売却先を募集した。対象は双方ともエリア全体とし、エリア内に所在する個別施設は対象外。ただし施設の呼称には命名された愛称と個別施設の名称を組み合わせ、市の広報活動などで使用するものとし、このうち東山運動公園については年額300万円以上で「体育施設エリアであることがイメージできる愛称」を条件とした。

その結果、東山運動公園には米子市に本社を置く菓子メーカー・丸京製菓1社が応募した[5]。同社は主にどら焼きを製造しているが、年間生産量は約1億3000万個にのぼり、単一工場の生産量としては日本一といわれている。同社はこれに因んで米子市を「どらやき生産量世界一のまち」と自称し、同年6月に「どらやきのまち米子」を宣言、PR活動などで街おこしを進めるプロジェクトを開始し、その一環としてこの命名権買収に名乗りを上げた。同社は「市民の日常のコミュニケーションの場として、元気と夢と感動を与える公園に」というコンセプトを基に「ドラマチック」というフレーズと「どらやき」を組み合わせた愛称「どらやきドラマチックパーク米子(略称:どらドラパーク米子)」を提案した。市は審査の上で交渉した結果、年額300万円、同年11月1日から2012年(平成24年)3月31日まで4年間の契約で同社と合意。11月5日に契約締結式を執り行い、運動公園入口で案内板の除幕式を行った。契約当初は前述の通り、エリア内の個別施設に関しては命名権の対象外としていたが、当球場は市の広報活動上では「どらやきドラマチックパーク米子市民球場」「どらドラパーク米子市民球場」などのように、愛称を組み合わせる形で表記されていた。

さらに市は2010年(平成22年)4月1日から「より市民に親しみやすい愛称にするため」として各施設にも愛称を導入し、当球場の呼称は「どらドラパーク米子市民球場(略称:どらパー市民球場)」に制定された[6]。なお条例上の施設名称「米子市民球場」は変更していない。

2012年春、市と丸京製菓は1回目の契約満了を前に年額300万円で3年間の契約を更新し[7]、期間は2015年(平成27年)3月31日まで延長されている。

施設概要

  • グラウンド面積:
  • 両翼:92m、中堅:120m
  • 内野:クレー舗装、外野:天然芝
  • スコアボード:磁気反転式、選手名表示部のみパネル式
  • 照明設備:6基(基本は白色・オレンジ色が米子の「Y」の字に配置)
  • 収容人員:14,000人(内野:座席、外野:芝生席)
  • 場内には常設の広告は設けられていないが、プロ野球開催日にはフェンス等に広告が設置される場合がある。

公園内その他の施設

交通

脚注

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  1. 通常は、先発投手は5イニング以上登板しないと勝利投手の権利を与えられないが、勝利チームが5イニングしか守備をせずに打ち切られた試合の場合は、4イニングの登板で勝利投手の権利を得られる。
  2. ただし、2005年の日本シリーズで濃霧コールドゲームとなったケースがある。千葉マリンスタジアムの項を参照。
  3. 広島 梵 今季2本目サヨナラ弾 延長12回で阪神に競り勝ち
  4. 阪神大和プロ1号「打ててよかった」 - 日刊スポーツ(2014年5月14日)
  5. ネーミングライツ・スポンサー応募結果(米子市・2008年10月24日)
  6. どらドラパーク米子・体育施設の呼称が変わります(米子市・2010年3月15日)
  7. 市有施設のネーミングライツ契約更新 - 米子市(2012年3月23日掲載)2014年4月4日閲覧

関連項目

外部リンク

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