皇朝十二銭

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ファイル:Japan known coin types from 708 to 958.jpg
皇朝十二銭と関連銭貨(開基勝寳は模造)

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年和銅元年)から963年応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称である。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。また、「皇朝」の語を避けて古代銭貨の名称を用いる研究者もいる[1]

発行と経緯

皇朝十二銭は、以下の12種類である。

いずれも形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。貨幣価値としては、律令政府が定めた通貨単位である1として通用した。このほかに金銭の開基勝宝、銀銭の太平元宝なども試鋳しているが(760年)、これらは銅銭とは異なり、広く流通したものではなかったようであり、銅銭の通用価値を高く設定するための見せ金であったとする説がある[2]

律令期に皇朝十二銭が発行された目的としては、開元通宝を手本とし、貨幣制度を整えるため、また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本来の価値と貨幣価値との差額で賄うためということが挙げられる。

和同開珎は、日本で実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のものである。これより古い貨幣に富本銭があるが、これは実際に流通したかどうかは諸説ある。和同開珎発行から3年後の711年には、貨幣を多く蓄えたものに位階を与えるとする蓄銭叙位令が発布された。蓄銭奨励と流通促進とは矛盾しているが、銭貨の流通を促進するために発令されたと考えられている。しかし、実際に位階を与えた記録は、同年11月の1例しか残っていない。当時の日本はなどの物品貨幣が一般的であり、社会経済水準が貨幣を必ずしも要していなかったため、畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったとも考えられる。また、仮に需要があったとしても、そもそも銅の生産量が絶対的に少なかった当時の日本では、実物貨幣に代わるだけの銅銭の製造は始めから困難であった(秩父黒谷における自然銅の発見を機に元号を「和銅」と改めてしまう程当時銅は貴重であり、また後述のように時代が下るにつれて急速に品質が悪化している)。ただし、発見地は北海道から熊本県まで全国各地に及んでいる。

和同開珎が発行されてから52年後、万年通宝への改鋳が行われた。この時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。この定めはその後の改鋳にも踏襲された。皇朝十二銭は改鋳を重ねるごとに大きさが縮小し、重量も減少、素材も劣悪化していった。当時の製錬法では利用できる銅資源が限られていたため、原材料のの生産量が年々低下したためである。もっとも、急激に劣悪化したとされている承和昌宝を基準として捉えると、大きさは乾元大宝までほぼ一定であり、品質も寛平大宝まではほぼ同水準を保っていることから、承和昌宝を銭貨の基準品質とする1つの画期とみなす考えもある[3]

和同開珎が発行されて間もない頃には、銭1文で2kgが買えたが、9世紀中頃には、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまった。延喜通宝や最後の乾元大宝は、銅銭ではなく鉛銭であると言われるほど鉛の含有量が高いものが多く存在する[4]。価値の低下した銭は、流通と交易の現場から忌避されるようになり、宋銭が大量に流入する12世紀後半まで、日本国内での銭の流通は限定されたものとなった。

破銭運動

当時の貨幣は小額通貨であり、穴あき銭ともいわれるように高額取引では束ねて用いることが多かった。このため、いちいちほどいて刻印を鑑定する手間がかかるうえ、これをおろそかにすれば贋金や沽価のひくい唐宋銭がまじりやすく、インフレを招いた。これを「銭の値が卑しくなる」と表現している。政府は東西の市司に命じて物価を統制し、銭の価値を高く固定しようとしたが、このことはかえって安く仕入れた中国銭を素材に両替詐欺まがいの行為を助長させた。品位の低下はこれに拍車をかけた。和銅銭にちかい大きな中国銭を薄く小さな銭に変造するのはたやすいことである。

さらに問題なのは、新銭の発行ごとに行われた1000%のデノミである。もともと政府の設定した銭の価値に問題があり、新銭の価値が10倍である根拠がなかったため、市民からみれば、貯蔵している旧貨が両替によって10分の1に減ることは、大きな打撃であった。このため、大量に溶解して銅材とし、両替を拒んだのである。たとえば10枚の10円玉を新10円一枚に取り替えられるとすれば、旧10円は1円の価値でしかなくなるので銅にしたほうが得、という理屈だ。新10円に100円の価値があると認められなければ、現在でも同様のことが起こりうる。これは和同開珎を始めとして日本の銭貨には中国の開元通宝よりもはるかに高い名目価値が設定され、やがて通用価値が下落したため、新に発行される銭貨に高い名目価値を設定する目論見があったとする説がある[2]

さらに、前述したように、当時の製錬技術では、銅鉱石のなかでも日本で大量に産出する黄銅鉱など硫化銅を成分とするものは利用できず、孔雀石黒銅鉱など酸化銅を成分とする限られた鉱石しか利用できなかった[5]。日本各地の酸化銅鉱山では深刻な資源の枯渇にさらされており、銅の価値は上がっていた。少なくとも数億枚は発行が確認されているテンプレート:要出典銭が、いくら経済発展があるとはいえなかなか回収できず、品位を下げざるをえなかったのは、破銭(銭を溶かして銅地金として利用する行為)が広く行われたためと理解される。

これに対し984年永観2年)には「禁破銭令」が出される事態となり、新銭発行が極めて困難な状況になった。この禁令は社寺などに出されていることから見ても、朝廷が反対できないよう、銅灯篭など「国家安泰を祈願するため」の仏具に事寄せて溶解する方式が取られたのであろう。この結果、皇朝銭の現存枚数は記録と比較してもきわめて少ないものとなり、とくに後期のものは低品質の影響で錆び、刻字が読めるものはごく稀で現在の古銭市場ではかえって莫大な値打ちをまねいている程である。

加えて、当時の日本の支配層というべき後世平安貴族と称される人々が今日でいう経済学の知識を持ち合わせていなかった点も流通不振の原因であった。乾元大宝発行直後の959年(天徳3年)4月8日に新造された銭を伊勢神宮など11社に奉納して流通を祈願(『日本紀略』)し、986年(寛和2年)6月16日には諸社諸陵に銭の流通の祈祷(『本朝世紀』)させ、翌987年(永延元年)11月27日にも十五大寺に対して同様の命令(『日本紀略』)を出している。そして、987年(永延元年)3月16日には上賀茂神社の鳥居脇から和同開珎・万年通宝・神功開宝7合わせて782枚が発見されたことが朝廷に報告され、朝廷ではこれを流通させていいのかを神祇官陰陽寮に対して占わせた(『日本紀略』)という。ところが、この時の事を詳細に記した藤原実資の日記『小右記』によれば、その古銭は鼠が鳥居脇から掘り出したという不自然な方法で発見され、しかも古銭の流通とともに新銭発行の可否を占わせたことが記されている(永延元年3月14・16日条)ことから、古銭発見そのものが新銭発行を推進する立場からの一種の「やらせ」行為があったとみられている。しかも、当時の乾元大宝よりも大きく良質な古銭を流通させた場合に本来過去の銭の10倍の価値で通用するとされていた乾元大宝の価値が暴落してしまうという問題については全く認識されていなかった。当時の支配層が経済と銭の関係に関する知識が無かったために銭の流通不振の原因を理解しておらず、対策も持ち合わせていなかったためにひたすら神仏の加護によって事態を解決しようとしていたことを示している[6]

皇朝銭の終わり

こうして、民間での、政府が発行する銅銭への信頼は失墜してしまい、使用されなくなった。乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなった。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米やなどの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう。ただし畿内などでは300年かけて形成された金属貨幣そのもののに対する需要が完全に無くなった訳ではなく、贓物(盗難品)の被害額をした贓物勘文[6]沽価法などの公定価格の決定には貨幣換算によるものが用いられてきた。やがて経済が発達すると、中国から輸入した宋銭元銭明銭などが用いられるようになった。

皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られなかった。銅銭の公鋳の再開は、皇朝十二銭の600年以上後の1608年慶長13年)に鋳造された慶長通宝あるいは1627年寛永4年)の寛永通宝鋳造まで待つこととなる。

付言

和同開珎以前に別の銭貨が造られた可能性がある。一つは無文銀銭であり、他にもう一つは富本銭である。

また、準貨幣として用いられたものに「布貨」がある。中国では唐銭以前にも穴あき銭はあったが、その空白期には布や米などを貨幣代わりに用いた。国税にあたる「調布」はその名残である。また「贖銅(罰金)」にもちいられた銅や砂金、銀なども秤量貨幣の一種と見なすことができる。古代中国の刀銭などに代表される準貨幣としての貨布は、古墳時代の鉄?(てってい)などがこれにあたるとの見方がある。

参考文献

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関連項目

外部リンク

  • 笠原永遠男 『日本古代銭貨研究』凡例 清文堂、2011年
  • 2.0 2.1 今村啓爾 『富本銭と謎の銀銭』 小学館、2001年
  • 高橋照彦 「銭貨と土器からみた仁明朝」角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』 思文閣出版、2011年
  • 甲賀宜政 『古銭分析表 考古学雑誌』第9巻第7号、1919年
  • 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
  • 6.0 6.1 榎村寛之 「平安時代中期の京内銭貨幣流通についての一考察 ‐長徳二年(九九六)十二月十七日の「贓物勘文」を読む‐」笠原永遠男 編『日本古代の王権と社会』 塙書房、2010年