田安徳川家
テンプレート:日本の氏族 田安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。
概要
江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。家格は御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、田安邸は江戸城田安門内で清水邸の西、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあり、同地が田安明神(現・築土神社)の旧地であったことからこの名が付けられた[1]。
享保14年(1729年)、宗武は元服して右衛門督と称し、御守(家老)両名を付けられて蔵米で賄料3万俵を与えられた。翌15年(1730年)には田安門内に邸地を与えられ、翌16年(1731年)に屋形へ移った。延享3年(1746年)には蔵米支給が領地に切り替えられ、賄料領知10万石を武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6ヶ国に与えられた。
宗武は俊英で知られ、国学を学び和歌をよくする好学の家系であったが、嫡子の2代治察が病弱で早世した。このとき、家に残っていた弟の賢丸(松平定信)は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかった。そのため、宗武の血筋は以後の田安家には伝えられなかったが、定信を通じて久松松平家に伝わった。田安家は十数年にわたり明屋敷(当主不在)となった後、一橋家出身の斉匡が相続し、以後は一橋宗尹の血筋で続いた。
江戸時代を通じて田安家から将軍を出すことはなかったが、15代将軍慶喜の謹慎の後、明治元年(1868年)閏4月に7代当主亀之助が徳川宗家を相続した(16代徳川家達)。翌5月に父慶頼が再承して、同3年3月に家禄3148石を支給された。明治維新後は華族に列し、伯爵を授けられた。
田安家領
延享3年に拝領した10万石は幕府直轄領から分与され、御料としての扱いを受ける。内訳は甲斐国3万石をはじめ武蔵国1万7000石、下総国・播磨国にそれぞれ1万2000石、摂津国・和泉国にそれぞれ1万3000石。
甲斐国3万石は山梨郡・八代郡の63ヶ村で、山梨郡一町田中村に陣屋(田中陣屋、山梨市)が設置された。天保3年(1832年)には武蔵国の領地替で山梨・八代両郡と巨摩郡から41ヶ村が加えられる。甲斐国の田安家領では、大小切税法など甲斐独自の税制は維持されたが、たびたび収奪強化が行われて領民との対立を招き、寛政4年(1792年)には田安家領において太枡騒動が起こっている。幕末には上知が検討されたが、明治維新まで存続し、明治2年(1869年)には田安家支配に反対する領民の県庁側の主導により新政府に編入され、田安家領は消滅した(田安家領一揆)。
歴代当主と後嗣たち
- 初代当主 宗武
- 2代当主 治察
- (実子なし)
- 当主代行 宝蓮院(初代・宗武の正室[2])
- 3代当主 斉匡 (一橋徳川家から養子)
- 4代当主 斉荘 (徳川将軍家から養子、11代将軍家斉の子)
- 1839年、尾張藩12代藩主として尾張徳川家に入る
- 5代当主 慶頼 (田安斉匡の子)
- 6代当主 寿千代
- 1865年、6歳で夭折
- 7代当主 亀之助
明治維新後の田安徳川家当主
- 8代当主 慶頼 (5代慶頼の再継承)
- 9代当主(伯爵) 達孝(侍従長)
戦後の田安徳川家
系譜
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主 テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end