植木通彦
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植木 通彦(うえき みちひこ、1968年4月26日[1] - )は、福岡県[2]北九州市出身の元ボートレーサー。
現在はやまと学校校長兼一般財団法人日本モーターボート競走会執行役員。
来歴
福岡県立小倉商業高等学校2年時に中退。当時は野球部に所属。
その後全国モーターボート競走会連合会本栖研修所(現在のやまと学校)に入所。
選手生活
1986年 - 福岡競艇場でデビュー。
1989年 - 選手生活3年目の1月16日、桐生競艇場でのレース中に転覆した際、後続艇のプロペラで顔面を切り刻まれ、全治5か月、傷の縫合に75針を要する重傷を負う。
半年後、レースに復帰するが、負傷した競艇場での復帰を避ける選手がほとんどの中で、父親の進言や自身を奮い立たせる意味を込め、復帰戦の場として桐生を選んだ。この経緯から「不死鳥」の異名が植木に与えられることとなり、1990年代後半に放映された競艇のテレビコマーシャルでも「平成の不死鳥、植木通彦」というナレーション、テロップで紹介された。
1990年 - 唐津競艇場で開催された、新鋭リーグ戦で初優勝を飾る。
1992年 - 福岡競艇場で開催された地区選手権競走(九州地区選手権)で初のGI優勝。
1993年 - 戸田競艇場で開催された第28回総理大臣杯競走でSG初優出・初優勝。SG優勝戦でモンキーターンを使い勝利したのは艇史初。この優勝戦にモンキーターンの創始者飯田加一も進出。
1994年 - 児島競艇場のモーターボート記念競走で優出2着。つづく常滑競艇場で開催の全日本モーターボート選手権競走で優勝。年末、賞金王決定戦進出、惜敗も初の年間賞金王。
1995年 - 年末、住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦、このレースは、艇史に残る死闘として今なお語り継がれる名勝負である。植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークマクリを放つが中道が受け止め、2マーク中道が流れ植木が差し返す、ターンマークの度に先頭が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が賞金王を制する(年間の賞金王は逃している)。
1996年 - オーシャンカップ競走、モーターボート記念競走、全日本選手権競走で優出3着。年末、賞金王決定戦は戸田競艇場で開催、トライアル初日、中道のマクリに植木が抵抗し大競り、植木は3着、中道は6着。トライアル2日目は別々のレースでともマクリ1着。トライアル最終日、中道が1着、植木は3着。中道・植木どっちが勝っても初の2億円レーサーが誕生する決定戦、2号艇中道が3コース、4号艇植木が4コースでセンターに並んで進入、植木が内側を一気にマクって決着。公営競技初の年間獲得賞金2億円レーサーとなり、そのニュースは翌日のデイリースポーツの表一面を大きく飾った。
1997年 - 常滑競艇場で開催の笹川賞競走で優勝、5年連続SG優勝を達成。夏、地元若松競艇場でのモーターボート記念競走は優出2着。
1998年 - 丸亀競艇場の総理大臣杯、宮島競艇場のグランドチャンピオン決定戦で優出、賞金王決定戦に出場も順位戦止まり。
1999年 - 児島競艇場の総理大臣杯とモーターボート記念競走で優出。年末、賞金王決定戦は得点トップで優出も大外進入になり展開なく。
2000年 - 宮島競艇場のオーシャンカップ競走、優勝戦、植木は大外6コースからマクリ差し先頭に出るが、2周1マーク手前で島川光男と大競りとなり西島が割り差して、2着惜敗。
2001年 - 唐津競艇場で開催された第11回グランドチャンピオン決定戦競走で優出、2コースからマクってで4年ぶりのSG優勝。
2002年 -若松競艇場のオーシャンカップ競走をイン逃げで優勝。11月津競艇場の競艇王チャレンジカップもイン逃げで優勝、さらに住之江競艇場で開催された第17回賞金王決定戦も4コースからマクって優勝、6年ぶり3度目の賞金王に輝く。自身初のSG連覇を記録。年間SG3勝、賞金王決定戦3勝、10年連続賞金王決定戦出場、9年連続の獲得賞金1億円は至上1位タイ、年間獲得賞金2億8418万4000円は艇界及び公営競技最高記録。
2003年 - 競艇王チャレンジカップ競走までSG優出は無く、賞金王連続出場記録は途切れる。年末には賞金王シリーズ戦に初出場し優出を3着。
2004年 - 福岡競艇場の全日本選手権競走で優出2着、賞金王決定戦はトライアルを得点トップ、決定戦を1号艇で迎えるが、1マーク振り込んで終戦。
2005年 - 常滑競艇場の笹川賞競走でインから逃げて2年半ぶりのSG優勝、SG通算優勝回数が10回の大台に到達。グランドスラムを懸け地元若松のモーターボート記念競走で得点トップで準優出も結果は3着。年末、賞金王決定戦に出場も負傷で帰郷。
2006年 - 尼崎競艇場で開催された「競艇ニュース杯」(一般戦(タイトル戦))で優勝し通算1,500勝を達成。丸亀競艇場で開催された競艇王チャレンジカップ競走で優出、賞金王決定戦出場に2着条件であったが惜しくも3着。
2007年 - 年始尼崎競艇場で開催された周年記念競走「近松賞」で優出3着、2007年SG初戦・総理大臣杯直前に三国競艇場で開催された周年記念競走「北陸艇王決戦」で同じく優出3着と、昨年秋から続くそこそこの好調ぶりを見せ、総理大臣杯へと臨んだ。平和島競艇場でのSG第42回総理大臣杯、SGでは珍しく超抜モーターを手にした植木の豪快なイン逃げで誰も捲ることが出来なかったため、平和島競艇場審判課・松永良一アナ(通称:ベイ吉)に『ウエキング』という愛称を名付けられ、予選トップ通過・準優を見事なイン逃げで優出を果たすが1号艇で出走した同大会優勝戦にて、インスタートから僅かコンマ01ではあるが痛恨のフライングを犯し売上の9割以上にあたる17億4522万7700円という記録的な大返還となってしまった。
このフライングにより、植木は今後1年間賞金王決定戦競走を除く全てのSGへの出場資格を失い、予定されていた住之江でのSG笹川賞競走の出場・初日ドリーム戦(4号艇)出走も取り消されることとなった。(その笹川賞競走で優勝を果たしたのは、同年総理杯で優出3着、植木の代役としてドリーム戦に繰り上がり出走となった同郷の後輩である強豪選手・瓜生正義であった。総理杯の植木と同じく優勝戦を1号艇から出走し、見事SG初優勝を果たした。)また、植木はフライング休み明けの2007年6月15日からも、GIには規定に基づきフライング休み消化後6ヶ月間選出除外となることが決まった。(よって同年末に行われる初の地元開催となる賞金王決定戦競走(福岡)への出場が実質的に閉ざされることとなった。)
その後、地元の2つの周年記念競走(若松・芦屋)に出場(自身最後のG1出場)し、F休みに入る(総理杯でのF)。休み明けの復帰戦は奇しくも(自身最後のSG出場となった地)平和島競艇場での「サントリーカップ」(一般競走)であった。レースは好調ではなかったが、しっかりと優出を果たした(3着)。
平和島での復帰後、次に出場した鳴門競艇場での「ヤクルト杯競走」(一般競走。惜しくも次点で優出ならず)の終了後、翌7月19日に突然の引退を宣言した。(結果的に18日の第10レース・「うずしお選抜戦」で1号艇からイン逃げを決めたレースが現役最後のレースとなった。)7月20日、東京都港区のホテルパシフィック東京で行われた永年功労者祝賀会終了後(植木は現役勤続20年の表彰を受けた)に同ホテルにて引退会見を行い、正式に現役引退を表明した。
通算成績は4500走1562勝、勝率7.58、優勝74回(SG10回・GI23回)、生涯獲得賞金は22億6184万2369円(現在歴代3位、当時、競艇界で生涯獲得賞金が20億円を越えているのは今村豊・松井繁を含む3人だけ)だった。
引退後
2008年4月より一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就き現在は執行役員、競艇選手育成機関であるやまと学校を担当していたが[3]、自身のブログ[4]において2012年4月1日付けでやまと学校校長に就任したことを発表している。
そのため、選手引退後の現在でも競艇関係者の立場にある。このことから、規則上、予想行為や勝舟投票券の購入が許されず、また、それゆえ、レース関係のコメントを行うことがあっても、主に技術論や選手心理、水面状況、勝因敗因について語るのみにとどまり、直接的な結果予想を言及することはできない立場にある(選手引退後も競技団体の関係者であるため、植木同様に自身が名を成した競技で予想行為に制限が掛かっている著名人には、競輪の中野浩一、地方競馬の佐々木竹見、中央競馬の岡部幸雄などがいる)。
2008年(平成20年)、ボートレースの殿堂入りを果たした。[5]
2008年11月16日若松競艇場内に「フェニックスホール-植木通彦記念館-」がオープンした。また2009年3月11日から、若松競艇場で新鋭リーグ戦「植木通彦フェニックスカップ」が開催されている。
主な勝利
SG
10勝
V | 大会名 | 優勝日 | 開催場 | 艇番 | ヒストリー |
---|---|---|---|---|---|
V1 | 第28回 総理杯 |
1993年(平成5年) 3月23日 |
戸田 | 1号艇 | あの大事故から4年。初SGタイトルは戸田総理杯・この時、植木は24歳。 |
V2 | 第41回 競艇ダービー |
1994年(平成6年) 10月12日 |
常滑 | 4号艇 | ここから競艇SG・3大タイトルを4つも続けて奪取。1つ目は常滑ダービー |
V3 | 第10回記念 賞金王決定戦競走 |
1995年(平成7年) 12月24日 |
住之江 | 5号艇 | 前年に優勝して連覇が懸かっていた中道善博との息の詰まる激闘は最後のゴールラインまで縺れ込んだ。 最後は併走のままゴールへ不死鳥・植木がマジシャン・中道を数十センチ差で賞金王決定戦を制する。 |
V4 | 第11回 賞金王決定戦競走 |
1996年(平成8年) 12月23日 |
戸田 | 4号艇 | 前回・住之江で世紀の激闘を繰り広げた植木と中道の年末決戦・第2章は舞台を植木の初SGタイトル奪取の地、埼玉の戸田に移して開催。 しかし、舞台を移してもディフェンディングチャンピオンの意地で植木が中道の挑戦を再度、退けて賞金王・連覇達成。尚、前回死闘を演じた中道は4着に終わった。植木は翌年、三連覇を目指して賞金王に3年連続ファイナリストになったが6着・最下位に終わる。 |
V5 | 第24回 笹川賞 |
1997年(平成9年) 5月27日 |
常滑 | 6号艇 | 是で競艇SGの中でも最も欲しいタイトル・3つを総なめ。 |
V6 | 第11回 グラチャン |
2001年(平成13年) 6月24日 |
唐津 | 2号艇 | この大会は寺田千恵が女性レーサー史上初のファイナリストに名を刻んだ歴史的な大会だった。優勝戦も進入で寺田選手が果敢に1コースをゲット(然しスタートが出遅れて5着に沈む)。 |
V7 | 第7回 オーシャンカップ競走 |
2002年(平成14年) 8月4日 |
若松 | 1号艇 | 2002年は将に植木一色の年。そんな名に相応しい1つ目がこの若松オーシャン。 |
V8 | 第5回記念 競艇王CC |
2002年(平成14年) 12月1日 |
津 | 1号艇 | 2つ目は秋深まる津での競艇王。1年で複数のSGの制覇するのは初。 |
V9 | 第17回 賞金王決定戦競走 |
2002年(平成14年) 12月23日 |
住之江 | 3号艇 | そして3つ目は自身、3度目の賞金王制覇。これで2002年に彼が獲得した年間獲得賞金は2億8000万円を超えた。 |
V10 | 第32回 笹川賞競走 |
2005年(平成17年) 5月29日 |
常滑 | 1号艇 | 植木自身、最後のSGタイトルはSG5勝目と全く大会も場所も同じ常滑笹川賞であった。94年のダービーも含め常滑でのSGは3勝目。 (中部国際空港 セントレア開港記念競走として開催) |
G1 23勝
エピソード
- 「(2代目[6])艇王」「不死鳥」の異名で知られる。
- 桐生競艇場での事故の際、搬送中の救急車の中で、付き添いの競艇場職員に「スタートが正常だったか否か」の確認を求め、「それどころじゃない!!」と職員に怒られた。
- 手術の途中で担当医を務めた前沢病院の上野武男医師が「これが鼻かな」「これが瞼かな」と言いながら傷を縫っていたこともあって、いよいよ心配になったのだろうか「先生、大丈夫ですか?」と問い合わせると「喋ったらいけない、喋ると顔が変形してしまうから」と返答された。
- 後に『別冊宝島』誌上でのインタビュー[7]で、スタートを確認した件について「(怪我した)場所が顔だったから、自分の目に見えなくて、どんだけ切ってるとかわかんなかっただけなんです(苦笑)」と語ったほか、「手術台に上がったら、先生が『これが瞼かな』とか話してるのが聞こえてきて(中略)『ひょっとしてダメかな』とか、ちょっと考えましたね」と後になってことの重大さに気づいたことを述べている。
- 事故直後は出血量の多さ、手術直後は施術部の腫れがひどかったため、何も見ることが出来なくなり、その間本人は失明したと思い込み、今後の生活を考え絶望的になっていたと語っている。
- 退院後、北九州へ戻る際に傷を隠すためにメガネをしていたが、いかんせん目と目の間(日月)の骨が無くなっていたために、メガネがずれて全く意味を成さなかった。そして北九州に戻り、北九州総合病院にて顔の皮を剥いで頭蓋骨を摘出し、顔(日月)の部位に移植手術を行った。
- 1995年に住之江競艇場で開催された第10回賞金王決定戦でのエピソード。
植木は5号艇から奇襲の2コース進入、1マークはイン中道に対してマクリを打ち、中道も受け止め凌ぐ。ターンマークの度に順位が入れ替わる死闘を演じ、2人は併走でゴール、わずかの差で植木が20代初の賞金王覇者となった。植木と中道は後にこの名勝負を振り返って、お互いがターンマークの度に失敗を重ねていたと振り返っている。 - しかし、この死闘は思わぬところで高い評価を受けることになる。賞金王決定戦がおこなわれた翌日にJRA(日本中央競馬会)ではグランプリ有馬記念が行われたが人気を集めたナリタブライアン、ヒシアマゾンがともに凡走、出走頭数もフルゲートには遠く及ばなかったこともあり、雑誌週刊Gallopでは有馬記念のレース内容を「競艇に負けた有馬記念」と皮肉った上で賞金王決定戦のレースを絶賛した[8]。
- 1993年から2002年まで、10年連続で賞金王決定戦に出場。全SG競走を制覇する「グランドスラム」に最も近いといわれたが、モーターボート記念競走だけは優勝に縁がなく、グランドスラマーの偉業を達成することは叶わなかった。輝かしい成績を残しているにもかかわらず、意外にも完全優勝の経験はなかった(ただし挑戦は2度ほどある)。
- 松永良一アナ(通称;ベイ吉)によって命名された『ウエキング』という愛称だが、2004年の常滑モーターボート大賞の優勝戦で、山田智彦アナからも『ウエキング』と呼ばれた。
著書など
植木通彦・著 『水に舞う不死鳥・艇王の二十年』 弦書房(福岡) 2008年9月 ISBN 978-4-86329-008-2
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
- ↑ 蛭子能収『競艇入門』、ポケットブック社、1992年11月、P164。
- ↑ 蛭子1992、164頁。
- ↑ http://www.kyotei.or.jp/infomation/topics/200804/01_001.html
- ↑ http://www.wmb.jp/blog/ueki/index.php?d=20120406
- ↑ ボートレース大村 六十周年記念
- ↑ 初代は彦坂郁雄であった。
- ↑ 別冊宝島318「競艇ツケマイ読本」pp.34 - 43
- ↑ 1995年12月25日発売 週刊Gallop有馬記念特別号