杉山賢人
テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalBottom 杉山 賢人(すぎやま けんと、1968年12月12日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者、日本女子プロ野球機構ノース・レイア元監督。
目次
来歴
アマチュア時代
静岡県沼津市で化学工場の社長の息子として生まれる[1]。賢い人間になってほしいとの願いから「賢人」と命名され、スーパーマンのクラーク・ケントからもヒントを得たという[1]。摘んできた花を飾るような繊細な子どもだったが、小学校3年生の時にバッティングセンターで大人向けの速球を打ち返し、親の勧めで翌年から野球を始めた[1]。小柄ながら優れた打撃を見せ、少年野球の県大会では特別敢闘賞を受賞している[1]。
金岡中学では2年生の夏にエースが負傷したのをきっかけに投手に転向した[1]。沼津学園に進学すると再び野手になり、入学時は身長およそ160cmで打撃が課題だったが練習を重ねて克服[2]。2年の夏の県大会から1番・中堅手のレギュラーとなった[1]。3年になると3番を任され、2番手投手も兼任していた[3]。同年夏の県大会では準々決勝でエースの負傷を受けて登板したが、サヨナラ負けを喫している[1]。
専修大学に進むと同期に岡林洋一や武藤潤一郎がいたが、同じ静岡県出身の望月教治監督が高校時代の杉山のプレーを見ており、投手に専念するよう指示された[3]。1年春の東都リーグからベンチ入りして2勝を挙げ、岡林が故障していた2年春のリーグ戦では先発を数回務めている[3]。3年まで頻繁に外野手転向を訴えたが却下され、最後の1年間は必ずしも熱心に練習していなかったという[4]。大学では3番手投手として主にリリーフを任され、通算で4勝8敗の成績を残した。
大学卒業後は社会人野球の東芝に入り、監督の大田垣耕造やコーチの黒紙義弘の指導を受けて野球について深く考えるようになったという[4]。良い球を強気に使う高見泰範のリードなどもあって頭角を現し、勝利を挙げて自信を深めていく好循環が生まれた[4]。1年目のテンプレート:Byの都市対抗では1回戦から先発して勝利投手となり、小池秀郎との先発対決となった準々決勝の対松下電器戦でも6回を無失点に抑えて勝利[5]。しかし準決勝の対住友金属戦では6失点し、4回途中で降板した[6]。なお、この試合で対戦した松本尚樹が社会人時代で最も印象に残っているという[6]。決勝の対三菱重工長崎戦も先発して6回を自責点0の投球で勝利投手になり[7]、チームの優勝に貢献して若獅子賞を受賞している。また、同年は社会人ベストナインにも選ばれた。
テンプレート:Byにはバルセロナ五輪代表の最終選考で同じ左投手の渡辺正和とともに候補となり、渡辺がヒジの検査を受けていた事もありメンバーに選ばれた[8]。本大会では予選の対ドミニカ共和国戦で先発し、被安打3、8奪三振で5回を無失点に抑えて勝利投手になっている[9]。3位決定戦ではアメリカを相手に2番手として1回1/3を投げ、被安打2、自責点1で3奪三振を挙げて[10]チームは勝利し、銅メダルを獲得した。同年の日本選手権では2勝を挙げてチームの優勝に貢献し、優秀選手に選ばれている。社会人の左投手ではNo.1と言われて[11]迎えた同年のドラフト会議ではマウンドでの度胸などを買われ、左投手が不足していた西武から1位指名を受け入団した[4]。球団史上最高額となる契約金1億円と、年俸1,000万円で入団契約を結んでいる[12]。なお、契約金で実家を新築したという[8]。
プロ野球選手時代
オープン戦から好投を見せ、4月15日の対オリックス戦で早くも一軍初登板を果たす。2日後の4月17日には初先発でロッテから勝利を挙げ、5月8日の対日本ハム戦で同年のルーキーで最初の完投勝利を収めるなど、工藤公康に続く左の先発として起用されていた[13]。シーズン中盤からはリリーフに回り、鹿取義隆・潮崎哲也と形成した強力なストッパー・トリオは毛利元就の「三本の矢」のエピソードになぞらえて、「サンフレッチェ」と呼ばれた[14]。オールスター明けの1ヶ月が特につらかったという[14]が、同年はリーグ最多の54試合に登板してほぼ満票で新人王に選ばれている[15]。日本シリーズでは第4戦でシリーズ初登板を果たし、第6戦まで3試合連続で起用された。オフの契約更改では、2,200万円増の年俸3,200万円(推定)となっている[16]。
テンプレート:Byは6月から7月にかけては5試合で打者26人を1四球のみに抑えるなどの好投を見せ[17]、オールスターゲームに初出場を果たした。前年と同じ54試合に登板し、同年の日本シリーズでは第5戦で2番手として登板し、3四球で満塁としたところで緒方耕一に満塁ホームランを打たれて敗戦投手になっている[18]。 オフには年俸6,000万円(推定)で契約を更改している[19]。
テンプレート:Byは肩の故障で出遅れて28試合の登板に終わり、契約更改では1,500万円減の年俸4,500万円(推定)となった[20]。テンプレート:Byはデニー友利、橋本武広、森慎二とともにリリーフとしてチームの優勝を支えた[21]。日本シリーズでは第2戦から3試合続けて登板し、全て無失点で切り抜けている。テンプレート:Byは44試合に登板して防御率2.50の好成績で、年俸は5,100万円(推定)となった[22]。
テンプレート:By6月に平塚克洋との交換トレードで阪神に移籍。テンプレート:By5月には吉田剛・西川慎一との交換トレードで近鉄へ、テンプレート:By4月には関口伊織との交換トレードで横浜に移籍し、異例となる3年連続シーズン途中での移籍を経験した[17]。横浜では32試合に登板したものの戦力外通告を受け、12球団合同トライアウトも受験した[23]がこの年限りで現役を引退。
現役引退後
テンプレート:Byからテンプレート:Byまで横浜で打撃投手、テンプレート:Byは同球団の一軍マネージャーを務めた。テンプレート:Byからテンプレート:Byまで東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手コーチ(ブルペン)を務めた。
テンプレート:Byからは東北放送、スカイ・A sports+(テンプレート:Byまで)→J SPORTS(テンプレート:Byから)で野球解説者を務める。
また、解説者として活動するかたわら、少年野球の監督として女子選手も指導。テンプレート:By、解説者の活動と並行しながら、ノース・レイアの監督を務めたが15試合終了時点で成績不振の責任を取り、6月13日付けで辞任した[24]。
プレースタイルなど
最速146km/hの速球[17]は球質が重く[4]、これを維持するために西武で減量指令を拒否している[17]。変化球としてはスライダー[17]やカーブ[11]に加え、主に右打者に対してはスクリューボール、左打者にはシュートも投げていた[13]。低めへの制球力に定評があった[13]。
丸っこい外見が似てるとして、東芝時代に丹波健二から「アンパンマン」というニックネームを付けられた[25]。アマチュア時代から、素直で人に好かれやすい性格に監督や友人らから定評があり[2]、投手としては珍しく他人の助言を素直に聞いていた、と高見泰範に評されている[2]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 西武 | 54 | 4 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 5 | -- | .778 | 309 | 74.0 | 68 | 6 | 29 | 0 | 0 | 82 | 3 | 0 | 25 | 23 | 2.80 | 1.31 |
テンプレート:By2 | 54 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 6 | -- | .667 | 246 | 60.2 | 54 | 7 | 13 | 0 | 4 | 63 | 0 | 0 | 24 | 24 | 3.56 | 1.10 | |
テンプレート:By2 | 28 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | -- | 1.000 | 140 | 34.2 | 33 | 4 | 6 | 0 | 2 | 30 | 1 | 0 | 12 | 12 | 3.12 | 1.13 | |
テンプレート:By2 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | -- | .000 | 112 | 26.2 | 20 | 4 | 14 | 0 | 2 | 32 | 1 | 0 | 13 | 13 | 4.39 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 76 | 14.2 | 20 | 2 | 12 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 9 | 9 | 5.52 | 2.18 | |
テンプレート:By2 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | ---- | 82 | 18.0 | 21 | 1 | 7 | 0 | 3 | 11 | 0 | 0 | 6 | 5 | 2.50 | 1.56 | |
テンプレート:By2 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 5.1 | 9 | 2 | 3 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 3 | 3 | 5.06 | 2.25 | |
阪神 | 16 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 198 | 44.1 | 46 | 6 | 18 | 3 | 2 | 34 | 2 | 1 | 25 | 25 | 5.08 | 1.44 | |
'99計 | 24 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 225 | 49.2 | 55 | 8 | 21 | 3 | 2 | 39 | 3 | 1 | 28 | 28 | 5.07 | 1.53 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | 近鉄 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 104 | 22.0 | 28 | 6 | 15 | 2 | 1 | 12 | 0 | 0 | 16 | 15 | 6.14 | 1.95 |
テンプレート:By2 | 横浜 | 32 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 81 | 17.0 | 19 | 3 | 9 | 0 | 3 | 12 | 0 | 0 | 10 | 9 | 4.76 | 1.65 |
通算:9年 | 333 | 15 | 1 | 0 | 0 | 17 | 13 | 17 | -- | .567 | 1375 | 317.1 | 318 | 41 | 126 | 5 | 17 | 295 | 8 | 1 | 143 | 138 | 3.91 | 1.40 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- 新人王(1993年)
記録
- 初登板:1993年4月15日、対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)0-2 3番手として6回無死から登板、1/3回無失点
- 初先発・初勝利:1993年4月17日、対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)4-1 6回無失点 被安打3 与四死球4 奪三振6
- 初セーブ:1993年4月28日、対福岡ダイエーホークス戦(福岡ドーム)1-0 3番手として10回1死から登板、2/3回無失点
- オールスターゲーム出場:1回(1994年)
背番号
- 29 (1993年 - 1999年)
- 17 (1999年 - 2000年途中)
- 26 (2000年途中 - 2001年)
- 75 (2002年)
- 101 (2003年 - 2004年)
- 76 (2006年 - 2009年)
関連情報
出演
- TBC Exciting Ballpark 〜がんばれ! EAGLES〜(TBCテレビのプロ野球中継)
- TBCイーグルスナイター(TBCラジオのプロ野球中継)
- J SPORTS STADIUM(主に楽天戦)
- 断然 パ・リーグ主義!!
- TwellVプロ野球中継
脚注
関連項目
- オリンピック野球競技メダリスト一覧
- 静岡県出身の人物一覧
- 専修大学の人物一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
テンプレート:パシフィック・リーグ新人王 テンプレート:バルセロナオリンピック野球日本代表
テンプレート:西武ライオンズ1992年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 「投球美学にこだわる男の負けず嫌いな性格は」『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.29
- ↑ 2.0 2.1 2.2 「セイブの味方・アンパンマン 杉山賢人が強くなるまで」『週刊ベースボール』、1993年7月12日号、P.110
- ↑ 3.0 3.1 3.2 「『まず1勝!そうすれば1年間やれそうです』」『週刊ベースボール』、1993年3月22日号、P.112
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.30
- ↑ 読売新聞、1991年7月31日付朝刊、P.19
- ↑ 6.0 6.1 毎日新聞、1994年6月17日付朝刊、P.15
- ↑ 読売新聞、1991年8月2日付朝刊、P.17
- ↑ 8.0 8.1 『週刊ベースボール』、1993年3月22日号、P.113
- ↑ 『別冊宝島』1545号、P.79、2008年
- ↑ 『別冊宝島』1545号、P.80、2008年
- ↑ 11.0 11.1 毎日新聞、1992年11月18日付朝刊、P.21
- ↑ 毎日新聞、1992年12月17日付朝刊、P.21
- ↑ 13.0 13.1 13.2 『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.31
- ↑ 14.0 14.1 「ボクらは抑えとして何か足りない!?だから3人で力を合わせて行くんです!!」『週刊ベースボール』、1993年11月20日号、P.22
- ↑ 読売新聞、1993年11月4日付朝刊、P.19
- ↑ 読売新聞、1993年12月15日付朝刊、P.19
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 スポニチ 日めくりプロ野球 【7月2日】1994年 アンパンマン、あと1人で“ノーヒットノーラン”逃す
- ↑ 日本野球機構 1994年度日本シリーズ 試合結果(第5戦)
- ↑ 読売新聞、1994年12月15日付朝刊、P.16
- ↑ 読売新聞、1995年12月14日付朝刊、P.17
- ↑ 読売新聞、1997年9月6日付朝刊、P.25
- ↑ 読売新聞、1999年11月27日付朝刊、P.20
- ↑ 読売新聞、2001年11月27日付朝刊、P.27
- ↑ ノース レイア監督に杉山賢人氏が就任(日本女子プロ野球機構2013年3月12日付プレスリリース)
- ↑ 『週刊ベースボール』、1994年2月21日号、P.28